第77話 新しい技
1限の授業は睡眠の延長線上にある。いかなるときも。すっきりした気分で大教室を出ると、入れ替わりで押し寄せる学生の群れに小宮山さんの姿があった。
今日は若い。10代後半ぐらいかな。でも服はシックで大人びている。
「小宮山さん、2限ここなんだ?」
「しおりさんは?」
「私は2限なくて、3限も休講で、4限まで何もない。だから、どうしようかなと思ってる」
「じゃあ私これサボります。買い物付き合ってください」
言いながら小宮山さんは私の腕をつかみ、ぐいぐい引っ張っていく。おいおい、朝から積極的じゃん。若い女の子にボディタッチされて喜ぶおじさんってこんな気持ちか?
ん?
なんで私1回おじさんになる必要あった?
急展開に混乱している。
「何の買い物?」
「とくに何もないんですけど」と小宮山さんは顎に人差し指をあてる。「きのう昔の映画観てたら、主人公の一家がデパートのフロアを全部見て回るという休日の過ごし方をしてて。いかにも昔のデパートって感じで、すごいきらきらして華やかなんです。あー、なんか私の知らない古き良き日本の景色だな、と思っちゃって。それと同じ事をしおりさんとやってみようかと」
「へー」
言ってることはピンとこないけど、嬉しい。
うふふ。嬉しい。
電車の中で小宮山さんは参考資料として、前世紀のデパート動画を私にたくさん見せてきた。1970年代の伊勢丹、1950年代のギャラリーラファイエット、1980年代のハロッズ……。たしかに、夢のようにきらきらしている。動画の色調はくすんでいるのに。
私たちは不景気の極まった現代の最新デパートを上から下まで遊覧する。それなりに輝いている。何も買わず、飲み食いもせず、無限におしゃべりをしながら歩き回り、勢い余って近くの大きな公園まで足を伸ばし、うろうろしたあと、2人乗りの貸しボートに乗ったりしている。
漕いでいるのは小宮山さんだ。
薄手のコートを軽くたたんで膝に乗せ、せっせとオール動かしている。額に宝石のような一滴の汗。若い筋肉が律動している。私は再びおじさんのような気分になる。
池の真ん中で小宮山さんは手を止めた。
風が気持ち良い。
辺りに他のボートはない。
見渡す公園に人影はまばら。
「いい景色ですね」と小宮山さん。
「晴れてるしね」
「このあと、ごはんどこで食べましょう。デパートに戻ります?」
「奢ってあげるよ。漕いでくれたお礼に」
私が言うと、小宮山さんは無言になった。じっと意味ありげに私を見ている。
「なに? 奢ってあげるって言っただけだよ」
「しおりさん」怪訝そうな顔で小宮山さんは言う。「私、いくつに見えます?」
なんだそれ。
お前がいちばん言っちゃだめなやつじゃん。
まあいいけど……。
17とか18とか?
と答えかけて、私は思いとどまる。
40歳ぐらいの小宮山さんなら、ちょっと若めに言うか、思い切って25歳ぐらい、などと言ってあげると無邪気に喜んでくれるのだが、10代の小宮山さんがこんな質問するってことは、ちょっと年上っぽく言ってあげたほうが嬉しいのかもしれない。今日のファッションも大人っぽいし。
「うーん。私と同い年、とか?」
と答えると、小宮山さんはまた動きを止める。なんなの。
「しおりさんと同い年ってことは……20歳に見えてるってこと?」
「そうだよ」
「やば」
「何が」
「32歳なんですけど」
「誰が?」
「私が」
「いま32歳なの?」
「いま32歳なの! やばあ。12歳も若く見られてる。干支じゃん。干支ごぼう抜きじゃん。伝説の干支レースじゃん」
「それ干支レース逆走してません?」
毎日年齢の変わる小宮山さんが、「顔は幼くて10代に見えるけど、じつは30代」という、ややこしい新技を繰り出すようになったのは、率直に言って面倒くさい。
服が大人っぽいのは32歳だから、だったのか。
でも私を「しおりさん」と呼んで、しかも敬語まで使ってたのは、単に「今日はそういうキャラ」だから。
そんなの、お前の匙加減ひとつでなんとでもできるじゃないか。
でも小宮山さんが「きゃー、若く見られて気分良いわー」などと頬を押さえて喜びを爆発させているのを見ると、まあいっか、って気持ちにもなる。天気も良いし。
「ひと回りも年上だから、私にごはん奢ってくれるってことですよね?」
「まかせて」
小宮山さんは自分の胸を叩く。
突風で小宮山さんの髪が乱れ、10代に見える30代の顔を一瞬隠した。
風がおさまる。
子供みたいな顔で小宮山さんは笑った。
つられて私も笑う。
きらきらしたデパートの光がまだ私たちにまとわりついているみたいだった。
何もかも幻みたいな1日だ。
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