第17話 血液
1限目の経済思想を眠ったまま受講し、眠ったまま教室をあとにし、眠ったまま正門へ急ぐ。夕方からパン屋でバイトだ。それまで少し寝ておきたい。
大学の敷地を出る瞬間、横合いから「あっ」という声がした。反射的にそちらを見ると、哀れな私が0.1秒で認識していた通りの現実がそこにある。小宮山さんだ。今日は幼い。12、3歳か? えんじ色の可愛いポンチョにすっぽり包まれていて、靴はぴかぴかの黒。髪はお団子に結っている。
「しおりお姉ちゃん!」
笑顔で駆け寄ってきた。
出たよ。
お姉ちゃん呼び。
ひとりっ子である私の弱点を正確に突いてくるじゃないか。
「こーんな朝から、偶然しおりお姉ちゃんに会えるなんて! ラッキーだなあ」
その言い方で、これが偶然ではないことがわかった。
「え、待ち伏せ……?」
「ふっふっふ……ばれたか。今日、しおりお姉ちゃんの授業が1限だけというのは、すでにお見通しだったのだ!」
腰に手を当て、人差し指を1本立てるという、大げさな身振りで小宮山さんは言った。
「何なの。涼宮ハルヒなの?」
「スタバ行こ! しおりお姉ちゃん」
「スタバ~? 行かない」
「えっ、なんで!」
「眠いの。昨日まったく寝てなくてさあ」
「しおりお姉ちゃんのパリピ!」
「レポート書いてただけだよ。ずっと声でかいな」
「ねえ~、スタバ行こうよぉ~、しおりお姉ちゃあん! ってばあ!」
私の袖にぶら下がるようにして強く体を揺さぶってくる。寝不足の脳がぐらんぐらんになる。
「やだ。バイトあるし」
「こっちこそやだ! やだやだ! スタバ行きたい! フラペチーノ飲みたい! フォカッチャサンドや石窯フィローネといった、多少お腹にたまるようなものも食べたい! そのあと追加で甘いもの食べて、完全にお腹を満たしたい!」
お金がないんだな……私はようやく察した。ちゃんとしたご飯だと気がひけるから、スタバでカジュアルにタダ飯にありつこうという算段なのだ。そしておそらく、この作戦の成功率を爆上げさせるために、少女の姿が選択された。
非常に有効な戦術と認めざるを得ない。
「うーん、軽く食べるんだったら久しぶりにジブリさんのお店にしません? パスタぐらいなら奢ってあげます」
「わあい! スタバがパスタに化けた!」
「なんかムカつくな」
「でもパスタはしおりお姉ちゃんが食べて? 私はそれを半分もらって、自分ではオムライスを食べたいなあ。大盛りで。オニオングラタンスープとプリンも食べたい。固いプリン。柔らかいのはすぐ溶けちゃうからさ。固いのが最高。固いプリンを私は最後に食べますよ」
「子供相手じゃなかったら、今ごろ私ブチ切れしてるからね」
ジブリさんの店は午前中の光で満たされていた。
「あら、久しぶりね。あなたたちのこと、たまに思い出すこともあったのよ」
今日も完璧なジブリさんだ。見た目も軽やか。美しいベリーショートのグレイヘアに、すっきりとした印象のパンツスタイル。明るい色のスカーフ。水色の可愛い帽子。全体としてマリンルック風の装いだ。冬なのに。おしゃれ上級者すぎる。
私はうっとりした。
30分後。
私はげっそりした。
小宮山さんは、いかにもお腹を空かせたローティーンらしい勢いとスピード感でオムライスとオニオングラタンスープを飲み食いし、宣言通り私のパスタも半分奪い、固いプリンも食べ終えている。
私だってお金ないんだけどな。
「今日は本当に幸せだなあ。偶然しおりお姉ちゃんとすてきな時間が過ごせて」
小宮山さんは満ち足りた表情だ。口の端に少しプリンを付けているのがわざとらしい。
「そんなホストみたいなご機嫌取りしなくてもいいよ。たまに奢り返してくれたら文句言わないからさ」
「ご機嫌取りじゃないよ! 今日、朝の占いで1位だったの。大好きな人とすてきな時間を過ごせますって。その通りのことが起こったなあ、って思ったんだよ」
「ホスト」
「素直じゃないなあ、しおりお姉ちゃんは」
「星座占いでしょ?」
「血液型」
「いちばんどうでもいい占いじゃん」
「血液型占いが?」
「そうだよ。血液型の性格診断とかもね。人間が4種類なわけないでしょ」
「そう? 4種類ぐらいじゃない? 人間って」
「急にドライだな」
「あっ、でも安心してね。しおりお姉ちゃんは4種類の中に入らないよ。特別枠だから」
頬杖をついて、じっと私を見る小宮山さん。
「ホスト〜」
この調子でパパ活とかしてないだろうな……という考えがよぎって背筋が寒くなる。小宮山さんなら一瞬で億万長者になれそうだ。まあでも本当にそんなことしてたら、私にご飯たかるはずもないか……。
てか、私が小宮山さんのパパ活の被害者なのか??
「おもしろい話してるね」コーヒーを運んできたジブリさんが私たちに微笑みかける。
「えっ、パパ活が?」
「パパ……何?」
ジブリさんが目を丸くした。
「何でもないです、ごめんなさい。ちょっと考え事してて」もごもご言いながら私は小宮山さんの様子を窺う。小宮山さんは食後の猫みたいに虚無の表情で、口についたプリンを指でぬぐって舐めた。
「人間が4種類ぐらいしかいないって話」ジブリさんが言う。「私もそれ賛成だな」
「周囲の人を4種類に分類することがですか?」
「そのくらいに考えておいた方が生きやすいかもね、ってこと。客商売してる私がこんなこと言うの、良くないかもしれないけれど」
「4種類は少なすぎません? 他人を型にはめるようなことになりませんか?」
「私の場合は逆の印象かな。大きく4つに分けて、ほとんどの人をぼんやり認識してるくらいのほうが、相手に優しくできるし、相手をゆるやかに許せる気がするのよね。年を取ったからかも。お説教くさいかな? 私みたいなお婆ちゃんになると、トラブルや煩わしさを避けて、どうしても表面上の付き合いが多くなるのね。相手の生活になるべく立ち入らないようにして。少し冷たい考え方かしら。もちろん、こちらの彼女がさっき言ったように」と、ここでジブリさんは小宮山さんに視線を移す。「4つの分類に入らない、特別枠の相手っていうのもいるのよ。そういう特別な人たちのことを、より輝かしく感じられる気がするの」
ここでにっこり。
なんてまぶしい。
スタジオジブリ。
神々しいそのお姿に、私は強い既視感を覚える。これは……あれだ。魔女の宅急便に出てくる絵描きのお姉さん。ウルスラさんだ。ウルスラさんと話すときのキキの気持ち。
絵描きは絵描きの血で絵を描き、魔女は魔女の血で空を飛び、スタバは超富裕層のいかがわしい理念でスタバを運営する。
しかしジブリさんはスタジオジブリの血で動いているわけではない。ジブリ映画を観てすらいないかも。もっと別の、高度で複雑な文化的背景がジブリさんにはあるはずだ。ジブリさんの素晴らしさを表現するのに、ジブリ映画しか照合結果を持たない自分の知識の乏しさを痛感する。
小宮山さんは?
たぶん、ご当地キティちゃんの血にでも従って生活しているのだろう。
「ところで小宮山さんって血液型は何?」
「さあ。調べたことない」
「嘘だよ」
「嘘じゃないよ。本当に知らない」
「じゃあ何で占い1位だってわかるの」
「1位の血液が私に流れてると思うからだよ。いつだってね」
コーヒーに落とした角砂糖をかき混ぜながら、すました顔で小宮山さんは言った。
なんなのこの人。大スターなの?
まったく。目が離せないね。
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