第8話 置き手紙
部室には誰もいなかった。編み物、課題のレポート、落としたばかりのゲーム、すべてを少しずつ同時に進めて、90分が経過。周囲の状況に変化なし。帰るか……と立ち上がった私は、散らかった机の隅に小宮山さんの置き手紙を発見する。
【棚におまんじゅうがあります。オーブンで温め直すと、表面がカリッとしておいしいですよ】
お母さんか。
ちょうど小腹減ってるし、さっさと食べちゃおう……と思ったけど、やっぱりオーブンでカリッとさせたくなったので持ち帰ることにする。手紙の最後に、【ありがとうございます。家で食べます】と付け足しておいた。
翌日。
東洋史の講義が長引き(唐の仏教弾圧に言及した教授が、熱弁のあまり泣き出してしまったのだ。正直、薄気味が悪かった)、解放されたのが18時過ぎ。一応、部室に顔を出してみる。
誰もいない。
置き手紙もそのままだった……けど、文章が少し増えている。
【ちゃんとカリッとさせましたか?】
何なの。
字は昨日と比べて驚くほど達筆。年齢高めの小宮山さんが出現したようだ。
毎回筆跡も変わるのか……新しい発見だ。
あとで研究ノートに記しておかねばなるまい。
【ご心配には及びません。自宅でカリッとさせました。大変おいしゅうございました】
と書いて部室を出る。日が落ちて真っ暗。
翌日は4限が休講になり、早めに部室に行くことができた。サークル大好き人間みたいだ。私は少し意地になっているのかもしれない。
小宮山さんの姿はなかった。あほの藤田くんがソファに仰向けでプラモデルか何かの雑誌を読んでいる。
「ちょっと! ソファに寝ないでって言ったじゃん」
「急に入ってくるから……」
「誰も見てなくても約束は守るものだよ。それができないなら、何か適当な宗教にでも入ってよ」
「宗教?」
「神様にいつも見られているという強迫観念があれば、約束守れるでしょ」
「宗教の悪用だよ。いや……本来の使用方法かな」
「うざ」
藤田くんをソファから追い払ってテーブルに素早く目をやる。
置き手紙に新たな1行が追加されている。
【好きな映画を教えてください】
何なんだ。まじで。botか?
「小宮山さん来てたの?」と藤田くんに聞く。
「いや。見なかったけど」
「藤田くん何時頃からここにいた?」
「昼前かな」
「昼前か……えっ、昼前からこんなとこで何してたの。気持ち悪いな」
「寝てただけだよ」
「ソファで?」
「え……うん」
「だめって言ったじゃん」
「過去の分まで怒るのやめてよ。不遡及の原則だよ。民法取ってないの?」
「取ってるよ。遡及適用というものについて勉強したまえ」
藤田くんはまだぶつぶつ言っているが、すでに私の意識は外部から切り離されている。
朝早くに来たのか? 小宮山さん。
挙動が読めない。
字は今まででいちばん下手だ。
好きな映画を教えてください……だと?
急に何?
好きな映画……。
【最近見た中では、フランシス・ハという映画が好きです。小宮山さんの好きな映画は何ですか?】
と書いて私はバイトに向かう。
【暗い日曜日 って映画がなかなかおもしろかったよー。観たことありますか?】
というのが翌日の小宮山さんの返信。
これは何歳の小宮山さんの趣味だろう?
そしてなぜ、こんなまどろっこしい方法で情報のやりとりをさせられているのだろう?
【その映画は観たことありません。そろそろ会いたいですね】
と私は書いた。小宮山さんは余裕で2週間休んだりするので、何日も顔を合わせないのは珍しいことではない。でも、手紙というものには不自然なほど気持ちを募らせる何かがある。
私たちはお互いの現住所は知っていても、その他の連絡先を知らない。小宮山さんは日によってガラケーだったり、最新のiPhoneだったり、私の生まれる前の機種だったり、「うふふ。私ケータイ持ってなくて」などと言ったりするので、なんか雰囲気的に聞けないのだ。
突然、数日前の東洋史の講義が頭に蘇る。
結果的に最後の遣唐使となった、円載、円仁らを乗せた船は、日本仏教界からの質問をたずさえて海を渡った(武宗皇帝の代に弾圧を受けた円仁の苦労話は、千年の時を超えて教授に涙を流させた)。
手紙を届けるだけでも死の危険があったのだ。
じっさい、40年ぶりに日本へ戻ろうとした円載は、帰りの船が難破して命を落とすことになる(円仁は5年で戻ってきた)。
私と小宮山さんの手紙のやりとりに死の危険なんてあるはずがない。でも、小宮山さんが明日ふらっとどこかへ消えたら(何年も行方不明だった過去を持つ人だし)、40年くらい連絡が取れなくなる可能性だって、ないわけではないのだ。
……。
いやいや。
遣唐使?
笑っちゃうね。ちょっと悲観的な気分に浸りすぎじゃない? 思春期か? 悪い癖だよ。
頭を冷やす必要があるな。
翌日は学校は休み。
ゆるい繋がりのゼミのメンバー7人で、発表会の打ち上げ。カラオケで、私がやってないソシャゲのキャラクターソングみたいなのを歌う子が多くて、気分があまり乗らなかった。
私は1曲だけ、『おとなの掟』を歌ったけど、始まってすぐに選曲ミスを悔いた。パワー不足のときに歌うものではない。この曲早く終われー、と思いながら歌った。
そのあとスポッチャに行こうとか言い出す人が出てきたので、私ともう1人の女の子だけ抜けて帰ることにした。大学までひと駅だし、荷物を取りに行くという名目で置き手紙のチェックだけしたかったけど、やめておく。それをやるとちょっと病的な領域という気がする。
一緒に抜けた子と2人でスタバに2時間いた。
最近黒子のバスケ読み直してるんだー、とその子が言うので、赤司くんってキャラだけ知ってるよ、中学の友達が赤司くんラブだったから、と私は言った。正確に言うと、その友達は赤司くんに脳を破壊されてしまったのだ。赤司くんにまつわること以外のどんな言葉も発することができなくなった。それで疎遠になった部分もある。そんなことを思い出しながら適当に相づちを打っていたら、全巻貸してもらえる流れになっていた。
中学のときは赤司くんが登場する前に読むのやめちゃったんだよなー。
その子とLINE交換して別れた。最初に黒子のバスケのスタンプが来た。気合を感じる。
翌日。
一限の前に部室をのぞく。手紙に書かれた最新の文字列。
【既読】
なんだそれ!
本気でムカついてしまった。1日中じゅう凶悪な気分で過ごす。
次の日は部室に行かなかった。
次の日は祝日。
次の日は寝坊。ほぼすっぴんにマスク、部屋着にコートを羽織った程度の格好で、レポート提出のためだけに大学へ向かう。部室に寄るつもりはなかったけど、3号館のきれいなトイレで前髪を直しているとき、鏡越しに小宮山さんと目が合ってしまった。
「おー、吉野さんだ」鏡の中の小宮山さんが両手で小さくピースする。「授業行くとこ? 終わったとこ?」
汚れた鏡に映る小宮山さんはおそらく私と同年代。真っ白のノーカラーコートが場違いな輝きを放っている。
私は5秒ほど沈黙し、マスクをポケットに突っ込むと、目の前の洗面台で勢いよく顔を洗った。
「わっ、どうしたの?」背中から小宮山さんの心配そうな声。
どうせほぼすっぴんだし。帰るだけだし。
タオルを持っていなかったのでハンカチを顔に当てる。すぐにびしゃびしゃになってしまう。小宮山さんがハンカチを差し出してくれた。黙ってそれを借り、これもびしゃびしゃにしてしまう。私はあからさまに不機嫌な顔をしている。
「思春期だなあ」と小宮山さんが笑った。
私はそれを無視してマスクを付ける。指と前髪がまだ濡れていた。
「用事終わったとこです」とようやく私は言う。声が硬い。我ながら子供じみている。
「えー、じゃあ吉野さんについて行こうかな」
「ついて行く……とは」
「ごはん食べるなら一緒に食べる。人形作り進めるなら一緒にやる」
「とくに予定はないです」
「じゃあ部室のネトフリで、一緒にあれ観るか」
「あれ……とは」
小宮山さんは指を無意味にキツネの形にした。その瞬間、私の中の無意味な怒りも無意味に消失する。2匹のキツネを無意味に踊らせながら小宮山さんが言った。
「フランシス・ハ」
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