第2話 あの靴
5日ぶりに小宮山さんが部室に顔を出した。
「いやー、だめだな。ほんとむり。耐えられない」
大きな声で独りごとを言いながら私の隣にどっかり座る。ソファが揺れる。
パチンコに負けたおじさんみたいな暗いオーラを放ってはいるが、見た目だけなら今日の小宮山さんは私と同年代っぽい。
「小宮山さん、今日はおいくつ?」
「はたち」
「えっ、同い年かあ! 初めてじゃない? なんか嬉しいな。ため口でいい?」
「ほんと、あれはないわ」小宮山さんは質問に答えず、私を見もしない。
「ねえ、ため口で……」
「あれはない」
「なんなのさっきから」
「え?」そこで初めて私に気づいたような目を小宮山さんはした。「ああ……吉野さんには関係ない話かな」
「なにそれ。相手してほしいくせに〜」
と冗談めかしつつ、私は少し傷ついている。小宮山さんの人間関係は世界史のフローチャートみたいにぐちゃぐちゃで、実際のところ私はさして重要人物というわけではないのだ。たぶん。
「はあ~」小宮山さんが頭を抱えてうなだれる。「疲れる~。疲れる日々~」
なんか存在感がうるさい。
「気が散るなあ。私に関係ない話なら黙っててよ」
「何も知らなかったあの頃に戻りたい」
「ポエム?」
「買うべきか、買わざるべきか……人生は選択の連続なのか……?」
「なんだ? ハムレットか?」
「むしろロミオとジュリエットさ」と小宮山さんは冷めた目で言い、そして空虚な目になった。「さ、たまには人形でも作るか」
「私は毎日作ってるんですよ。今回は締め切りまで余裕あるから、ちょっと凝ったものにしようと思ってて」
「凝ったものは私には無理なので。吉野さんが担当するといいかもね。私はいつも通りに作る」
私たちは人形を作り始めると無口になることが多い。
しかし20歳の小宮山さんはため息をつきつつ、断続的に何かぶつぶつ喋り続けている。
「なんかさあ。最近なんもうまくいかなくて。お金もないし。てかお金がない。ときめきはあるんだけど。でもそれが問題なんだよ。欲しい靴があってさ。18万もするんだけど。買えないんだけど。バイト掛け持ちしようかなあ。無理かな。でも欲しくてさ。毎日胸が苦しくて。毎日見に行ってんの。店に。水色のパンプスでさ。すこぉーし、わかんないくらいのラメ入ってて。だけど全体としては落ち着いた色合いなんだよ。水色とグレーの中間ぐらいかな。形が絶妙でさー。1ミリも変えられない造形なわけ。ピカソの線ぐらい変えられないね。とくに最高なのがつま先のラインで。夢のようだよ。夢にも出てくるし。私に似合うだろうな。履いてるイメージがもう膨らん膨らんで。18万円かあ。でも好きなんだあ」
「取り乱してた理由ってそれ?」
「あの靴でいろんなとこ行きたいなあ。いろんな人たちと」
「小宮山さん、友だち多いもんね」
私はさっき冷たくされたことをまだ少し根に持っている。
それに、どこまで小宮山さんに同調すればいいのか、なかなか難しい。
昨日の小宮山さんは42歳だった。シックでグレードの高い服を着こなしていたし、可愛いパンプスが欲しいだなんて思ってもいなかったはずだし、お金もありそうだった。
明日の小宮山さんもまったく違うことを考えているだろう。
だけど今の小宮山さんは【靴が欲しくてたまらない20歳の小宮山さん】という地点に立っているのだ。
それ以上でも以下でもない。
しかも、小宮山さんの人生はどうも一本の道にはなっていないふしがある。この20歳の小宮山さんの延長線上に、昨日の42歳の小宮山さんがいるとは限らない。
小宮山さんは無限なのだ。
分岐した可能性のあらゆる点に立っている。
いま靴が欲しいと嘆いている小宮山さん。運が良ければいつか私もこの続きを見ることができるだろう。
とか言いつつ、真面目にバイトして、来月あたりにその靴を履いている可能性もあるのが小宮山さんの難しいところだ。
「ああ……」いつのまにか小宮山さんはうっとりした目つきになっている。「早く一緒に踊りたい」
「誰と」
「靴と」
「踊れば?」
「よし!」小宮山さんが急に立ち上がる。
「踊るの?」
「一緒に見に行こう!」
「何を?」
「靴を!」
「買うの?」
「だから18万もするんだって。お金稼ぐモチベーション上げに行くの」
「私行く必要ある?」
「あるよ! 靴を見て! イメトレして!」
「何の?」
「私とディズニーシーに行くイメトレ! あの靴履いて最初にやることはそれだからね。私シー行ったことなくってさ……なんでそんな怖い顔になるの?」
「シーをなめるな!」私は立ち上がって一喝する。「歩きやすい靴で行くべきだ! スニーカーを買え! なるべくクッションの強いやつを!」
でも少し顔がにやけていたかもしれない。
小宮山さんの明日が、今日の続きだったら良いのに。
たまーに私はそう思う。
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