第20話



 初めて領主の館でいただいた食事は、午前中にいろいろなことがあったために遅めになった昼食だった。

 館の使用人たちは、クイン・グレッド管財官から、本日より館の主人が戻ると初めから聞かされていて、様々な準備をしていたとドイレ執事から教えてもらった。

 ぼくとぼくの客人たちみんなが一緒に食卓についたのは広すぎない部屋で、領主が友人たちと会食をするのには最適な部屋だという。客人たちに失礼がない程度に質素ながらも、上品な誂えの家具や長卓、それに曲木の背もたれの椅子には細かな細木編み込みが施されていて、どれもよく見れば細かな仕事の作りだった。椅子の座面の厚めの布張地がしっかりと体重を支えてくれる。どれも名のある職人さんの作なのかなと思ったくらい。こういった工芸品のようなものも、マンダルバでは作られているのかな。今度誰かにきいてみたいと思った。

 食事の内容は、前領主が好まれていたもので、カルトーリであるぼくにも食べてほしかったらしい。

 葉野菜と挽き肉のあっさりとした味付けの重ね煮込み。

 ふんわりと柔らかな異国から伝わったパン。

 魚介を少しお酒の風味をつけて一緒にグツグツと煮出した汁物。

 香辛料と香草をまぶした豊かな香りと少しの辛味がちょうどよい味付けの、新鮮な魚の切り身を窯焼きしたもの。

 ほくほくとした白い芋を蒸して粗くほぐしたものと、彩り野菜を細かく刻んで炒め合わせた、少し濃いめの味付けの付け合わせ。

 他にも、食卓にいろいろと並んだのは、すべてがこのマンダルバの一般家庭でも食べられている家庭的な料理だった。

 どれもおかわりをしたいくらいに食べやすくて美味しくて、でもぼくは自分に取り分けられたものすべてをまだ食べることはできないので、それでも少しずつ、全部の種類を制覇した。とてもとても、美味しかった。

 少し賑やかにみんなでおしゃべりをしながらの食卓は、館の使用人たちにはどう思われただろうと心配だったけど、給仕をしてくれていた人をさりげなく様子を見たところでは、誰もおかしな顔をしている人はいなくて、むしろ和やかな顔つきの人が多かったのでほっとした。

 食事のときにはいつも通り楽しげなフィジとキース、それから、彼らとはあまり一緒に行動したくはないと言っているヤトゥ商会の男たちも、このときだけは楽しげにみんなで食卓を共にした。もちろん、リクも一緒に。

 みんな今日のために粧し込んだ衣装のまま、特別な格好で、特別な時間を過ごした。

 しゃべる人はエヴァンスやセリュフやフィジが主で、彼らが話を振る人もときどき口を挟む。まったくしゃべらなかったのはル・イースだけで、リクでさえもみんなの話に時折斬り込んでいつもよりも話をしたほうだった。

 それを、ぼくは聞いているだけだったけど、楽しいなと思っていた。

 だけど、こんなふうにみんなで一緒に食事をできるのは、今回だけだと知っていた。

 誰かに言われたわけじゃない。

 いまだけが特別で、これは、一度きりの夢のようなもの。

 カルトーリとなったぼくのために、みんながぼくに夢を見させてくれた。

 みんな、一緒にいたいなと思った人たち。

 楽しかった人たち。

 別れの言葉は、言わないでほしい。

 また会えるって、信じてるから。


 ジョーイ・ハーラット管財官補佐から、前領主奥方でアーノルト氏の姉であるアラヴィ様との面談についてを、昼食後のお茶と菓子をいただいているときに聞かされた。

 カルトーリの父であるザグゼスタ様の妻であった女性は、いまはこの館にはいない。

 夫が不治の病であると判明したときに気持ちを乱し、彼の看病もままならずに、別宅に住まいを移したのだ。

 ザグゼスタ様が亡くなったのは、病気が判明してから二年後。四十二歳の若さだった。いまから、半年ほど前のこと。内臓が次第に機能しなくなる病気は、医療先進国ミリアルグでさえも治療法が確立されていなかった。

 ザグゼスタ様が亡くなるまでの二年の間、アラヴィ様は、何度か見舞いにこの館を訪れたが、病でやつれていく夫を見守る心の強さを持つことはできず、夫を看取ることができなかった。

 前領主ザグザスタ・ラインの旅立ちをこの館で見送ったのは、クイン・グレッド管財官、ジョーイ・ハーラット管財官補佐、伯母であるユーリィン様、歳下の親友であったフレイクス様、それから、この館の使用人たち。

 ジョーイ・ハーラット管財官補佐は、そのときの様子を、皆の前でかいつまんで話しをしてくれた。

 ザグゼスタ様が仕事の話を管財官と管財官補佐三人だけで交えたとき、息子であるカルトーリ捜索の本格的な始動を、自身の死後と同時に始めることを命じた。

「カルトーリ様の存在は、親族やアラヴィ様の手前、それまでは公けにはできませんでした。カルトーリ様も、それから皆さまも、ここにおいでになるまでの道中でのことで、理由は実感いただけたことと思います。情報は、どこから漏れるか知れません。この館の中でさえも、完全に信用できる者は多くはない」

 いま部屋の中には使用人たちはいない。管財官補佐が下げさせていた。

「この館にいる者は、我々も厳選した者たちではあります。よく働いてくれています。それでも、我々は、いままでにいろいろと痛い目を見てきておりましてね。これについては、あとでクイン・グレッドが本日中にカルトーリ様にお話しさせていただきます」

 アーノルト氏のことだろう。

 彼は、いったい、なにをした?

 あの冷静沈着なクイン・グレッド管財官が、圧力のこもった眼で、アーノルト氏を舞台から退場させると断言した。

 束の間の楽しいひとときは、もう彼方へと去っていた。

 人とは、愛を知りながら、争い傷つけ合う本性も併せ持つ。

 ここにいるのは、光と闇、両方を見つめてきた、戦うすべを持っている人たち。

 彼らは管財官補佐の声を聞きながら、もう強い眼をしている。

「カルトーリ様の存在。それは、アラヴィ様とアーノルト氏にとっては喜ばしいものではない。アーノルト氏が言っていた、アラヴィ様がカルトーリ様を迎え入れると申し出た、ということも、信用してはおりません。幾度か、ザグゼスタ様のご逝去後、クイン・グレッドがアラヴィ様とお話しいたしましたが、そのようなことはおっしゃってはおられない。あの方は、とてもお気持ちの細い方。言葉も少なく、本心をうかがえたことはほとんどない。クイン・グレッドが申すことに、黙ってうなずかれるか、首を振るか、ただ顔を見つめるのみか、表されるのはこの三様くらいです」

 それは、彼女の事情を考えれば、気持ちが塞がっても仕方のないことに思える。

 どのくらい、彼女が夫を愛していたのか。それは、本人にしかわからない。家柄を見込まれて結婚し、夫との子供を幼くして亡くし、その後は子供には恵まれず、夫は他の女性を愛し、そして、自分ではない他の女性が産んだ夫の子供が、この館にすでに入ってしまった。

 カルトーリのことを、好意的に見られるほうがおかしいくらい。疎まれているだろうと思う。

「本日は、アラヴィ様は体調が優れないと、この館へのお越しをお断りになられた。ユーリィン様のことも視野にあったことは間違いありませんが、それでも、カルトーリ様がどなたであるのか、ザグゼスタ様の妻である方には見届けていただく必要があった。アラヴィ様がザグゼスタ様の、このマンダルバの領主の妻であるからには、相応の役割が与えられているのです。ユーリィン様がおっしゃっておられるのは、正にこういうことであります。ですから、新領主が決まる大事な日に欠席をなさるのは、やはりカルトーリ様のことは望まれていなかったからだと、クイン・グレッドも私も、そう考えております。カルトーリ様は、これを聞かれて、どう思われますか。とても言いづらいことをお尋ねしていることは重々承知で、誠に申し訳ないのですが、あなた様のお心を、アラヴィ様とのご対面の前に、承知しておきたいのです」

 ぼくがカルトーリとなったことで、かの女性と会うこと自体は、特別な思いがあるわけではない。

 逆に、なにも感じていないことを、他の人に悟られはしないかと、そのほうが心配だった。

 カルトーリとして、想像はしている。

 それでも、やはり特別な感情は生まれてこない。

 真剣な眼差しで見てくれている管財官補佐に申し訳ないなと思うほどで。

「心配いただいているなら、ありがたいことですけど、どう考えてもぼくの存在はその方にとってはよいものではないと、わかっています。お会いしたとして、どのような態度をとられても、受け止めたいと思ってます。ぼくが気にかかるのは、やっぱりアーノルト氏のほうで、一緒に会わないといけないっていうのが、ちょっと億劫かなと思ってるのが正直な気持ちです」

 ジョーイ・ハーラット管財官補佐はぼくにほほえんでみせる。

「正直にお答えいただき嬉しく思います。アーノルト氏のことは、のちほどクイン・グレッドがお話しいたしますが、アラヴィ様との面談には居合わせさせようと考えております。お気持ちの細いアラヴィ様に寄り添う者として。これはアーノルト氏への温情ではなく、アラヴィ様への最後の配慮。お子のおられないアラヴィ様にはお気の毒ではありますが、ザグゼスタ様の逝去に伴い、ザグゼスタ様が特別なご遺言をアラヴィ様には残されなかった以上、このマンダルバにおいてアラヴィ様の領主の妻としての権限は消失いたしました。例え話ですが、カルトーリ様と養子縁組が成立した場合にのみ、カルトーリ様の義母としての権利が発生したしますが、これはユーリィン様始め、領主血族の同意を得られることはありません。アーノルト氏が、カルトーリ様捜索時に躍起になっていたのはそれが原因であります。姉が領主の妻の権限を失くせば、義弟として利益を得ることができなくなる。カルトーリ様となり得るユナム殿を立てて、姉の養子とさせ、いままでよりもさらにマンダルバでの地位を確立し、利益を上げる。アーノルト氏の計画は、そういったところだったでしょう。動機は単純であり、またそれができる立場にいたのも、彼がこれまで増長できた理由ではある。ザグゼスタ様は、とくに彼を諌めはされませんでした。ザグゼスタ様は寛大な方で、アーノルト氏がまだ若い頃なら少々やんちゃをされたのを苦笑してみせたくらいでしたが、それはザグゼスタ様ご自身がご健在であったからこそ。病に倒れられてからは、この状況が彼を変えるかもしれないと、憂慮されておられました」

「あー、正直に言ってもいいか」

 セリュフは少し手を上げて口を挟む。

 管財官補佐は仕草で発言を許した。

「それはちょっと甘い判断だったんじゃないか? いまさら言っても仕方がないとは思うが、おまえたちもいたときのことだろう? 判断を誤ったから、現状があるんじゃないのか」

 苦笑してみせた管財官補佐だが。

「このマンダルバにおいても、法は存在します。あの時点でアーノルト氏を処断できるほどの証拠があったわけではない。ザグゼスタ様は敵を捕らえる超法規的権限をお持ちでしたが、それをむやみに行使されることはなかった。やはり、領民へ納得できる行動を領主は行わなければならないゆえに。だからこそ、ご自身では動けないと悟られていたザグゼスタ様は、クイン・グレッドと、新しく領主となられるカルトーリ様にのちのことを託されたのです。カルトーリ様ご自身ならば、危険が迫ったとしてもそれを理由に敵を排除できる。クイン・グレッドや私は、それをお助けすることができると」

「それはまあ、綺麗な言い訳にしか聞こえないけどな」

 セリュフは辛辣だ。でも、それも一つの意見。

 フィジは、お茶の入った磁器をキンと手の爪先で弾いた。

「あなたの指摘はもっともだと思うけど、前領主の事情も汲んであげてもいいと思うよ、あたしは。領地の統治は、恐怖でなされるものじゃない。まして、幼き子を亡くした妻の心情は、前領主も痛いほど感じていたんでしょうね。ご自身もね。自分たちの子を亡くした夫婦の気持ちは、まだ子を手に抱いたことのない者にはわからないものだよ。そんな妻の身内に強く出られなかったのは、違った痛みには違いないと思うけど」

「複雑な事情が絡み合っていても、結果、現状なわけですから、言い訳はできません。我々が甘かったのは事実です」

 管財官補佐は、苦い笑みをこぼす。

「カルトーリ様とアラヴィ様の面談は、明日午前を予定しております。アーノルト氏の顛末を見届けられるまでは、あなた方も安心してマンダルバを去れますまい。カルトーリ様にとっても、皆さまの存在は心強いものでしょう。付き添いを望まれるのなら、同行いただいて構わないと考えております。どうなさいますか?」

 管財官補佐は、ぼくと皆に確認してくれた。

 リクを見る。

「リク、一緒に、行ってくれる?」

 この言い方は、卑怯かな。

 アラヴィ様に会いたいなんて、思ってないだろうし。

 でも、ここまでは、付き合ってほしい。

 リクはいつもの面倒くさいって眼をしていた。

 うん、ごめん。

「しょうがないな」

 それでもそう言ってくれた。

「ありがと」

 よかった。

「付添人は、キスリング殿や大柄な男性はご遠慮いただきたい。アラヴィ様にとって威圧的な印象になってしまうと、あの方のお心が乱されかねない。この面談は、カルトーリ様とアラヴィ様の、最初で最後になるものかもしれません。できるだけ、アラヴィ様には平穏なお心で臨んでいただきたいのです」

 管財官補佐の言葉に、セリュフは俺も駄目だなとぼやいた。

「逆に訊くが、誰ならよさそうだ?」

「そうですね」

 管財官補佐の眼が皆を見回す。

「リーヴ殿は問題ないです。フィジ殿も。エヴァンス殿は地味な服装でおいでになるなら。あとは、どうですかね」

 言いながら、管財官補佐は少し首を傾げてみせる。

「ル・イースは駄目か。俺とヴィイ、キスリングが入れないなら、ル・イースとエヴァンスは最低限入れておきたい。アーノルトがいるなら、まだ油断はできない」

 セリュフは真面目な眼で意見を述べる。こういう交渉ごとは彼の舞台だ。

「多数が無理なら、俺とフィジ、この二人は絶対だ。これを拒否するならナオとの面談は許可しない」

 リクが半目で管財官補佐に告げる。

 リクの許可が必要なものではないのに、有無を言わさぬ圧力がリクの声にはあった。

「お二人は大丈夫ですよ。大丈夫じゃなくても捻じ込みます。これは、ある意味形式です。アラヴィ様とカルトーリ様が会われた、その事実が欲しいだけですから。カルトーリ様に危険が及ぶようなことがあるのなら、アラヴィ様の体面などはカルトーリ様の存在と比較できるものではない。こちらがアーノルト氏の同席を認めなければいい話ですから」

 管財官補佐の口ぶりから、アラヴィ様のことはいい印象がないんだなと悟らざるを得なかった。気を使いたい相手への物言いではない。

 ぼくの顔がどうなっていたのかわからないけど、管財官補佐はぼくに少々申し訳なさそうな眼をしてみせた。

「あの方は、マンダルバ領主の妻になっていなければ、もしかしたら幸せな家庭を持てていたかもしれません。しかし、現実をあの方に受け止めていただかなくてはならなかった。であるのに、ザグゼスタ様を見送ることもできず、カルトーリ様の領主就任を見届けることもせず、あの方は、責務をなにひとつ果たされることはなかった。もう、アラヴィ様は、この立場から解放されていいものと我々は思っているのです。カルトーリ様にお願いしたいのは、そのことについてです。あの方に、告げていただきたいのです。ザグゼスタ様の妻としての役目は、もう終えられたことを」

「酷な要望だな」

 セリュフが低くつぶやく。彼のかすれ声が、聞こえぬくらいに、低く。

 カルトーリにとっても、アラヴィ様にとっても、苛酷な役割。

「誠に、申し訳なきことながら。これは、新領主にしかできないことです。クイン・グレッドでさえも、軽々しく口にできることではない。ユーリィン様がこれを口にすれば、アラヴィ様にとっては死罪を言い渡されるも同義。自明の理でも、誰かがアラヴィ様に直接言ってさしあげなくてはならないのです。どうか、マンダルバ前領主の妻であった方へ、カルトーリ様のお慈悲を、どうか」

 ジョーイ・ハーラット管財官補佐は、立ったままぼくに深く頭を下げた。

 本当のカルトーリであったなら、いろいろなことを考えてしまって、引き受けることはできなかったかもしれない。

 これが、カルトーリがぼくである理由のひとつなら。

「わかりました。お引き受けします」

 それでも、心臓は強く脈打つ。

 その場に、アーノルト氏がいるのならなおさら。

 怖い。

 アラヴィ様にあなたはもう自由なのだと言ったとしても、どのように受け止められるかわからない。

 アーノルト氏は激怒するかもしれない。

 ぼくがカルトーリとしてこのことを考えただけでも、心が乱れる。

 ああ、ちょっと、つらくなってきちゃったな。

「明日はちゃんとやりますから。だから、いまは、少し休んでも、いいですか?」

 ごめんなさい、ひ弱なやつで。

 管財官補佐は体を起こすと、眉を寄せてぼくに急いで近寄りながら再度深く謝った。

 隣にいたリクが立ち上がって先にぼくの背中を支える。

「寝室までもつか?」

 近くで小さな声で言ってくれるリクに、ごめんねと眼を見ながら言えただけだった。

 いつも無茶をするって言われるから、今度は自己申告してみたんだけど、ちょっと遅かったかな。

「失礼します。少し、お昼寝なさってください」

 ジョーイ・ハーラット管財官補佐が微笑してぼくを抱き上げてくれた。

 申し訳ないです。

 ちょっと、熱が出たかな。

 あれだけ美味しいものを食べてるのに丈夫になってくれないのはなんでなんだ。

 ここにいるみんな、ぼくの異変には気づいているけど、ゆっくりお昼寝してこいって、送り出してくれた。

 ぼくは、弱いな。

 リクみたいに強くなりたいのに。


 意識がふわふわと漂っていて、でも体は動かない。

 たぶん、どこかで寝かされてるんだろうけど、夢かうつつかって言う感じで、現実味がない。

「ずっと、気になっててね」

 静かなフィジの声。

「なにがだ」

 リクの声もする。

 近いけど、遠い感じもする。

「レナンの、体のこと。前にさ、樹精魔法で、癒しの魔法を掛けたことがあったんだけど。あのときはほら、きみを助けにいったあとで、一晩中馬に乗せちゃったから肉体疲労もひどかったし、気休め程度だろうけど魔法で癒してあげたくてね。でも。あたしの力でも、魔法の効きがよくなくてね。回復に時間がかかってたでしょ?」

「ああ」

 フィジも、リクも、声が暗いよ。

「普通なら、もう少し、効いてるはずなんだよ。でも、ほとんど効いてなかった。だから、レナンに訊いたの。最近病気でもしてた?って。答えは、前はもっと痩せてた、最近やっと戻ってきてたところだったって。なにかいま病気に罹ってるから魔法が効かないって、そういうことじゃない。なんて言ったらいいんだろう。言葉が見つからなくてもどかしいな、もう」

「要領を得ないな」

「自分でもちょっといらつく」

 フィジが笑う。

「レナンて、しっかりしてるんだけど、あやうい。そこにいるんだけど、遠い感じも受ける。存在がね、ちょっと安定してない。言葉にすれば、そんな感じかな。きみは、あたしが言ってること、わかる?」

「どうだろうな。それは、術者だからこその言葉か」

「あー、そうかもしれない。レナンの体の中の力の流れを、魔法で探ってみたときの印象なのかも。とにかく、安定してないって感じで。それが体調に表れてるのかなって思ってね」

 記憶が、ないことが、ぼくのその不安定さなのかな。

 いまだ、違和感のある意識と体。

「きみは知ってるのかな。レナンが、どんなふうに、生きてきたのか」

 リクは、知らないよ。

「ああ、知ってる」

 心臓が、どくんと跳ねた。

 意識は暗闇に飲み込まれた。




 夢は、いつもふた通り。

 どちらも、誰かと一緒にいる。

 一方は、家族や友達。

 一方は、たった一人か、いつも一緒にいる人と。

 一緒にいる人は、いつもぼくにいろいろな話をしてくれる。

 そこにいっぱいある本は、なんでも読み放題。

 でもぼくは動けないから、その人は、その少年は、ぼくの近くで読み上げてくれる。

 少年てわかるのは、いまのぼくの意識だからわかることで、そのときのぼくは彼のことを、いつもの人って認識なだけ。

 いつもの少年は、いつもぼくの世話をしてくれる。

 起きるときも、歯を磨くときも、食事をするときも、自分の合間を縫ってぼくに本を読んでくれるときも、体を少しずつ動かしてくれるときも、寝るときも、いつもいつも、そばにいてくれる。

 ぼくには、それが当たり前すぎて、感謝って気持ちも持ってない。

 だって、そばにいるのは、いつものことだから。

 ぼくは、いつもの少年に、全部やってもらっていたから。

 ぼくも、お話しできればよかったね。

 いつもの少年に、感謝の気持ちを伝えられたらよかったのにね。

 他の人は、ぼくにばかり構っているのは、自分のためにならないよって言っていたのに、いつもの少年は、笑っていつもと同じことをしてくれた。

 兄弟のように。

 家族のように。

 いつもの少年は、ぼくにとって、なんだったんだろうね。

 夢は、感情なんてもたらしてはくれない。

 ぼくが見ていたことだけが見えた。

 ほとんどは、動かない景色で、たまに視界にいつもの少年が見えるんだ。

 ぼくが聞いていたことだけが聞こえた。

 ほとんどは、遠くて聞こえなくて、近くにいたいつもの少年の言葉だけが聞こえるんだ。

 でも、この先の夢は、見たくはないんだ。

 だって、知ってるから。

 ぼくは、ほとんどが見えてない視界で、それを見たから。

 ぼくは、ほとんどが遠くて聞こえないのに、それを聞いたから。

 怖い顔の、怖いことをしている男たちが、いっぱい来た。

 他の人たちは、どこに行っただろう。

 ほとんど動かないはずの体で下を向くと、人がいっぱい倒れてる。

 いつもの少年は、どこにいるだろう。

 そうだ、近くでいっぱい大きな声で言ってくれてたね。

「逃げろ!」

「盗賊が来た!」

「来るな!」

「こいつは動けないんだ、やめろ!」

「どこへ連れて行く?!」

「離せ!」

「そいつを離せ!」

 あとは、大きな悲鳴。

 動けないはずの足を、強引に動かされる。

 手を強く引っ張られる。

 見えた視界には。

 倒れている大人や、子供や、いつもの少年。

 どうして、動かないの?

 どうして、赤い液体の中にいるの?

 そのときのぼくには、わからない。

 いまのぼくにはわかる。

 わかりたく、なかったのに。

 心臓が、激しく強く踊る。

 見えない心が痛くて破れそうだ。

 この体の、ぼくは、気づいてなかった。

 いつもの少年が、ぼくにとって、たった一人の家族だったって。

 いつも一緒にいてくれた、友達だったって。

 リク。

 ぼくは、まだ知りたくなかったんだ。

 この痛みを。

 この体も、ぼくだったって。

 家族であり友達だったいつもの少年に、お礼も言えずに涙すら流してあげなかったってことを。

 そのときのぼくの心が、いまはここにはいないってことを。

 ぼくのカケラ。

 ぼくたちの、ふたつに分かれてしまっていた魂。

 いまの体といまの心。

 ここにはない体と、ここにはない心。

 ねえリク。

 ぼくに言わないでいたのは、ぼくが思い出してしまうから?

 きみが調べ出して見つけたことは、その場所にいた人たちの、倒れていた姿?

 もう、安らかにいてくれてるかな。

 一緒に過ごしていた人たちは。

 いつもの少年は。


 リク、言わないでくれていて、ありがとう。


 きみは、優しい人だから。


 ぼくは、これからもずっと、知らないふりでいるよ。

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