第18話
領主の館は窓が多く作られていて、内部に入っても暗いということはない。玄関口の扉の上部にも採光のための硝子部があり、すぐに待合の広間になっている吹き抜けの上部にも、自然光が入るようになっていた。外観の黒っぽい石造りは重厚感を醸し出しているが、内部は漆喰壁で白く美しく塗られていて、さらに自然光で清潔感が出ていた。外観と、内部の印象が全く違う建物だった。
ぼくとリクは、他の人たちよりあと、最後くらいに館の中に入った。本日は薄雲が青空を少し覆っていたが、適度な温度のよい天気で、館の中に自然の光が射し込み、内部に入ってからちょっとの間見惚れてしまった。
待合の広間には、用事を言いつけられるまで待機をしているらしい館の使用人たち数人以外にはおらず、ぼくたちを待っているという人たちは別室にいると思われた。ぼくたちはすぐに、出入り口からは少し離れた大きめの部屋に案内された。
上流階級の人たちの嗜みで言えば、ちょっとした舞踏会でも開けそうなところ。大きな卓はなくて、いくつか配置されている装飾窓の近くに談話できる数人用の円卓と椅子が何箇所か置かれている。
他の者はまだ誰もいない。
フィジとキースは先に、それらのうちの一つに案内され、ぼくとリクは近くのもう一つの椅子のところに連れられた。
この館に入った戦士たちは、武器を持つことを許されなかった。キースも、いまは管財官の部下にあの長大な剣を預けている。ヤトゥ商会の男たちも、短剣を上着の内側に持つことを許されたのみだ。でも彼らは短剣は普段使わないので、いまは丸腰。さすがにそれは大丈夫なんだろうかと疑問に思って質問したときのセリュフの答えは、新領主さまの住まう予定の場所を血で汚すつもりはないこと、それから、長剣相手に短剣を細かく振り回すよりも、体術で敵の動きを封じるほうが早いらしい。これは武芸には疎いぼくにはよくわからなかったけど、普通の人よりも秀でている者なら丸腰でも間合いをうまく使えば容易に倒せるとか。たぶんぼくはそれを実際に見てもわからない。
セリュフ、ヴィイ、エヴァンス、そしてル・イースは、リクの近くに、遠からず近からずの距離に立っていた。マンダルバ領管財官クイン・グレッド氏は、ぼくたちとは共には来ずに、代わりにシン・レがぼくのすぐ脇に控えた。管財官補佐ジョーイ・ハーラット氏は、この広間に入ったときに、出入り口の扉の横に陣取り、いつもよりも遥かに真剣な眼で広間を一望できる場所に立っていた。
そして。
この部屋にぼくたちが通されてから、時間だけが過ぎていった。
先にこの館にいるはずの人たちは、まだ現れない。
それとも、ぼくたちはまた別の場所に案内される予定なのか。
ここに入る前から感じていた緊張は、消えてくれる気配がない。
指先の震えはリクの手のあたたかさでましになったけど、手はまだ血色が戻らない。
リクはあまり周囲に視線を巡らすことなく、顔の向く正面のどこかに視線を定めていた。
誰も、なにも発言しない。
人を待たせるのは、ある種、戦術の一つ。
そういうこともあるかもしれないと、事前にセリュフから聞かされていた。
そういうときには、とにかく苛立たないこと、周りを見るようにすることをセリュフはぼくに言い諭した。
そういうことを心得ているのか、フィジとキースは澄ました顔で、互いに違うところを向いて会話もなく座っていた。
セリュフたちも、いつもはおしゃべりなエヴァンスも、黙って佇んでいた。
ジョーイ・ハーラット氏は、何度か広間を見渡したり、窓の外を見たり、引き出し付きの小さな家具の上に置かれている機械時計に目をやっていた。ここまで待たされることは予定外だったのかもしれない。
なにかを待つことは、そんなに苦には思わない。
そういうことでいらいらしたことはないし、人に文句を言える立場でもない。
ただ、いまはこの先のことが見えないことで、不安のほうが勝っていた。
リクに少しの間励ましてもらったのに、そこで生まれた勇気がまた立ち消えそうになってくる。
クイン・グレッド管財官は、いま、誰かと会話をしているのだろうか。
情報を駆使し、未来を予測し、確かな予定を立て、未知を補足し、計画通りに物事を進めていくクイン・グレッド管財官は、この読めない時間を予測していただろうか。
ただなにかを待つのではなく、緊張感となにか圧迫感も感じてしまう空間での待機は、ぼくの未熟な精神を削っていく。
不安感が増せば、窓の外の景色を意識的に見つめた。
リクの整った横顔を見ることで勇気をまた蓄えて。
壁に飾られているいくつかの絵画を眺める。
そんなことを、何度も、何度も、繰り返した。
静かだ。
少しずつ、少しずつ、周りの人たちのように、いろいろなものを見ないようになっていった。
視界は一点を見るようになり、視界が狭まった分聴覚が澄んでいき、誰かが少し動く気配も感じられるようになっていった。
精神を凪ぎ、集中力を増し、心を平常にもっていく。
こういうやり方もあるんだな。
ふと視線を感じて前を見ると、リクがぼくを見ていた。
ふっと、微笑して。
これで正解だったんだと思うと、嬉しくなった。
ああでも、その顔で柔らかくほほえまれると、ぼくでもちょっとどきどきするので、無駄にその綺麗な武器を使わないで。
ほうっと、大きく息をつく。
「緊張は解けたか」
リクがいつもみたいなニヤリとした笑みで言う。
「そうみたい」
指先にも血が通ってきて、温かみが戻ってきた。
リクが視線を扉近くにいた管財官補佐のほうに向けた。
ジョーイ・ハーラット管財官補佐も、リクの視線を受け止め、少しだけ笑み作ると、扉の外へと出た。
あれ?
もしかして。
「ぼくを、待っててくれた?」
リクがぼくを澄ました顔で見返す。
他の人を待たせていたのは、ぼくのほうだった?
この緊張感に慣れるまで、みんな、待っててくれたの?
「どんなに周りが緊張するなと言っても、おまえ自身の気持ちの問題だからな。おまえがなんとかするしかない」
うん、そうだね。
「でも、よかったの? いっぱい待たせちゃった」
この館で待つ人たちをも待たせた。
「言っただろ? 人を待たせるのも戦術の一つだって」
セリュフがにやりと笑う。
他の人もぼくを和やかな表情で見ていた。
そういうこと。
ぼくの状態をも利用してたわけですか。
いつの間にそんな作戦になってたの。
そんな会話をしているうちに、こちらに近い扉ではなく、奥のほうの大きめの扉が開かれ、入ってきた幾人かの使用人たちが一人ずつ持っていた拵えの素敵な個椅子を各所に配置していく。
これから、やっと、アーノルト陣営と、カルトーリの親族との対面が果たされる。
椅子の配置を終え、しばらくそのまま待たされたが、さっきまでの緊張感に比べれば、その待機時間は気にならない。
再度扉が開いたときには、まずユナム少年の付添人であった三人が入ってきた。そのうちの一人の年配男性のほうは、こちら陣営をひと睨みし、椅子たちの後ろ側に立つ。ユナム少年の友人の少年はこちらを向くことなく無表情に年配男性の隣に、体格のいい男は、こちら側に一番近い場所に立った。この人はきっと腕に覚えのある人なんだろう。あちらも、こちらを警戒しているのがわかる。
次に入ってきたのは、ユナム少年。
本日は彼も上等な衣服を身に着けていた。髪も少し整えられていて、彼が次期領主であっても不思議ではない装い。ユナム少年は置かれた個椅子の窓際の席に座った。彼の表情は固く、緊張の色が見えた。
もうしばらくして、アーノルト氏が側近らしき男たちと入室してきた。
凝った衣装を身に着け、長身で体格もいい人なので、ある種風格もある。堂々とした態度でユナム少年に近い椅子に座り、こちらを余裕のあるような眼で見ていた。他の男たちはアーノルト氏の後ろに立って控えた。
その後、またしばらく待たされた。
その間、広い部屋の中は静かで、それでもぼくは向こう側を観察する冷静さを持てていた。待っていてくれたみんなにあらためてありがたく思った。
次に扉を開かれたとき、二人の女性が入ってきた。
装いのいいかなり年配の女性と、女性の手を取ってゆっくりと先導する付添人の女性。付き添いの女性は地味な衣服だが、アーノルト氏と同じくらいの年齢で、使用人とも見えるし、年配女性の身内のようにも見える。とても控えめな印象。
年配女性は、マンダルバ人の特徴を持つ人だが白髪が目立ち、いいお年なんだろうと思う。杖は使っていないが、付き添い女性がいなければ歩行が難しいのだろう。
彼女は、アーノルト氏の近くに椅子が配置されているのを見ると静止し、付き添い女性になにか耳打ちした。
付き添い女性は、まだ開かれたままの扉の向こうに声をかけ、近寄ってきた男性に囁くように話をする。
男性はうなずくと、アーノルト氏に近い椅子に近寄り、その椅子を持ち上げ移動させていく。こちら側にも広い空間があり、ぼくたちに近寄るというより、アーノルト氏から離れていく。戻ってきていたジョーイ・ハーラット管財官補佐の近くに置かれている機械時計のある家具のすぐ近くに椅子を置き、年配女性に一礼して男性は下がった。
「どうしてそちらに?」
アーノルト氏は、置き直された椅子に向けて歩みを再開していた年配女性に向けて言う。その声にはとくに憤りもなく、アーノルト氏の余裕の態度は変わらない。
「こちらのほうが、御不浄に近いのよ。それに、あなたたちの顔は見飽きるほど見させてもらった。こちらの子も、よく見てみたいのよ」
細めで少し高い声でアーノルト氏に告げ、年配女性はこちらを見てほほえんだ。
ぼくは、彼女に座ったまま一礼した。それは別に意識をしたからじゃない。なんだか、自然にそうしていた。リクや他の人たちは動かない。
年配女性はそのままゆっくりと歩き、またゆっくりとした動作で椅子に座った。付き添い女性は椅子のやや後ろで控えた。
年配女性とぼくの位置は近かった。少しの表情の変化もわかるくらい。彼女は目を閉じ、椅子の肘掛けに両手を置き、少し腰を曲げて座っている。きっと、カルトーリの親族。
空いている椅子は、あと二つ。
すぐに、アーノルト氏よりは若い男性が入ってきた。
彼は扉近くでいったん立ち止まり、部屋の中をぐるりと見渡した。こちら陣営の一人一人の顔も確認するように、しっかりと見ている様子。
若い男性はアーノルト氏から少し離れた椅子に向かい、そのまま座り、足を組み、少し体勢を乱して楽な姿勢になった。アーノルト氏とも距離を置いているけど、場所を移しもしない。彼が両陣営にとってどういう立ち位置なのかはわからない。
空いた席はあと一つ。
ぼくは、そこには前領主の妻という人が座るものと思っていた。
その考えは覆された。
最後に入室したのは、二十代後半から三十代にかかるくらいの長身の男性。
クイン・グレッド管財官やジョーイ・ハーラット管財官補佐と同年齢くらい。肌色はマンダルバの人よりも白め、ジョーイ・ハーラット氏に近い。おそらく領外の人。衣服は都会的で、管財官に近い。洗練された印象で、物腰も柔らかくあり、でも動きに無駄がない。
彼は扉に一番近い席を見つけると、歩みを止めずに近寄り、いきなりその椅子の背もたれの端を片手で無造作に手をかけ、ひょいと持ち上げた。椅子を持った腕を曲げて肩に担ぐようにすると、なんだか楽しそうな表情で広間を縦断していき、こちらの視線も通り過ぎ、アーノルト陣営から一番遠い部屋の端っこ、部屋全体を見渡せる角度で椅子を置き、そのまま腰掛けた。
あっけにとられた。
え、どういう人?
足は組んでいないけど腕は組み、偉そうではないけど誰にも遠慮をしていない態度の男性の素性がまったくわからない。
軽く混乱しているうちにクイン・グレッド管財官が入室していて、広間の中を見渡し、端に鎮座した同年代の男性を見ると少々苦笑してみせたが、他はいつもと変わりなく表情を表さない。
「お待たせいたしました。皆さまにおかれては、余計な挨拶は不要と思われますので、紹介を先に済ますことにいたしましょう」
クイン・グレッド管財官の端的さは計算なのかなんなのか、爽快感はあるけど置いてけぼり感もある。
「マンダルバ前領主ザグゼスタ様のご子息の候補である、アーノルト様が後見をなさっている、ユナム様。もう一人の候補者は、そちらのレナン様。後見人の方たちと共においでです」
クイン・グレッド管財官は手振りを交えて、広間の人物を紹介していく。
彼の目線は年配女性に向いた。
「こちらは、ザグゼスタ様の母方の伯母でいらっしゃる、ユーリィン様」
彼女は表情を変えない。
「あちらは、ザグゼスタ様の父方の叔父上の孫にあたる、フレイクス様」
彼もとくに表情に出さなかった。
「最後に」
クイン・グレッド管財官は、端に座る男性に目を向ける。
「ミリアルグ国執政官の一人、ケイレグ・ヴィンス殿。今回、マンダルバ次期領主認定のために同席されます」
マンダルバ同盟国ミリアルグからの使者、ということか。
彼がすべてを見渡せる場所に座ったのが納得できた。
クイン・グレッド管財官の意図も。
これは、領主の身内だけでは済ませない、開かれた会談。
この世界で最も重要な位置にいる大国ミリアルグの使者の前で、公明正大に行う意志。ミリアルグ執政官とは、きっと政治の重要な地位にいる人だと思われる。
暗躍しようとする者を牽制するクイン・グレッド管財官の意図ははっきりとしていた。
「始める前に、なぜ開始時間が遅れたのか明らかにしてもらおうか」
アーノルト氏がクイン・グレッド氏に物申した。
ぼくのせいだと、この場で明らかにしたいんだろう。
「皆さまのお気持ちが整う頃合いを計っておりました。緊張なさったままでは、お心内で思うことも発せられませんでしょう」
クイン・グレッド氏は無表情に受け流す。
「この程度のことで緊張しているなど、マンダルバの大事に重要な決裁を行うことなどできんだろう」
アーノルト氏は尊大に言うが。
これはいまも緊張の色を見せているユナム少年にとっても、自分の行く末が決まる場だ。この程度のこと、とは、ぼくには思えない。
「アーノルト様、彼らはいまだ十四歳。どちらが領主になられても、こののちにいろいろと学ばれて、初めて自覚が伴ってくるでしょう。ザグゼスタ様も領主の座につかれたのは二十三歳のとき。ミリアルグ留学を終えられてからのこと。それ以前はマンダルバの未来など考えもしない腕白な少年であられたと、当時管財官であった父からうかがっております。環境が人を変えることもございます」
クイン・グレッド氏はアーノルト氏の口撃などまったく意に介しない。
ふん、と、少し鼻白んだ様子で、アーノルト氏は口撃を引っ込めた。
代わりに、こちらからはエヴァンスが言葉を放った。
「発言を失礼いたします。レナン様の後見人であるリーヴ様に付き添う者です。我々は、前領主の奥方との対面が果たされるものと思っておりました。この場にはおいでにならないようですが」
エヴァンスは、いまは控えめな声音で発言した。
クイン・グレッドが声を出す前に、ユーリィン女史が軽く手を上げ、クイン・グレッド氏は彼女に場を譲った。
「彼女は、わたしがいる前には姿は表さないわ。わたしに嫌われていると思っているから」
ユーリィン女史の言葉に、アーノルト氏は少し嘲るような声で短く笑った。
「よくもそのように軽々しくおっしゃる。いままで姉をないがしろにしてきたのは事実でしょう」
それが事実なら、たしかに前領主の妻の立場として、この場に居合わせるのは苦痛だろう。
「領主の妻の座について、理解していただけるようにお教えしただけですよ。あなたの姉は、聞く耳は持っていても、それを実行する気持ちを表すことができなかった。それならば、ザグゼスタの妻としての資格がない、そう申したまで。わたし個人の意見ではなく、ザグゼスタの先の領主であった妹を見てきた者としての発言です。気持ちの弱い女は、領主の一族ではいられないのよ、アーノルト」
ゆっくりと、容赦のない言葉が優しげな女性の口から発せられる。さすが領主一族の女の言葉というところなんだろうか、アーノルト氏はそれ以上のことを言わなかった。
あれ?
ザグゼスタの先の領主が妹って、言った?
ということは、カルトーリのおばあさまが、二代前の領主?
え、女性でも領主になれるの?
「あらあら、そちらの子は驚いた顔をしているわね。教えていなかったの? クイン」
管財官に顔を向け、ユーリィン女史は笑みを作る。
「はい。私から余計な情報を提供するより、いろいろな方のお話を聞かれたほうがよいかと思いまして。自ら学ばれるのも大切でしょう」
これは、ぼくの勉強不足だ。
印象が悪くなっただろうか。
「レナンの後見人、リーヴという。あなたが領主にならなかった理由を聞かせて欲しい」
リクの唐突な発言に、ユーリィン女史は顔ごと目を向けた。
たしかに。
領主の姉という立場なら、その前の領主から引き継いでもおかしくはない。
リクと、カルトーリの親類が視線を交わす。
「それはね、わたしが、夫であった人を愛したから。父が領主であったとき、わたしたち姉妹以外に兄弟はおらず、わたしは当時、夫となった人との婚姻を望んでいた。ミリアルグの武官だった人。ミリアルグから視察の名で来ていた要人の方の護衛をしていて、出会ったのよ。父の許しを得て、ミリアルグで彼に嫁ぐことができた。でも、子供を作る間もなく、参加した戦で亡くなったけど。わたしは彼の死後に、再びマンダルバの土を踏んだ。妹、シスレイン・フレアは、わたしよりも少し歳が離れていてね、まだ少女だった彼女は、父の教えを受け、自分が後を継ぐと言ってくれた。シスレイン・フレア。わたしの大切な妹。その息子であるザグゼスタも、自分の立場を自覚して、領主となってくれた。彼の息子が、カルトーリが、マンダルバの領主になってくれるのなら、わたしはなにも言うことはない。ありがたいことだもの」
にこりと、ユーリィン女史は笑った。
それが本心なら、彼女はカルトーリの敵ではない。
ただ、そのカルトーリが誰であるのか、問題はそのことになる。
「クイン。カルトーリがどちらであるのか、調べが終わったのかしら。あなたのことだから、もうわかっているから、皆を集めたのでしょう?」
にこにこと、ユーリィン女史はクイン・グレッド氏に向かう。
「はい。この場で皆さまに承認いただきたいと思っております」
クイン・グレッド管財官はこちら側とアーノルト側を冷たい笑みでもって見渡した。
ぼくはもう、なにが起こってもいいと考えていた。
たとえばアーノルト側と裏で結託したクイン・グレッド氏が、この場でユナム少年を指名したとしても、それはなにか理由あってのことだと思うし、リクたちがマンダルバとの直接取引ができたんだからそれでいいんじゃないかな、ということまで思っていた。
ぼくは、ムトンにいた、ただの少年の一人。
べつにマンダルバの領主になれなくても、またムトンに戻ればいいだけ。
むしろ、そのほうがいい。
そうなったら、リクに無理やりついていくから。
「まず、ユナム様がカルトーリ様であるとの確証は得られませんでした」
ぼくの望みは叶わなかった。
クイン・グレッド管財官は、淡々とした口調で事実のみを伝えているという態度を崩さなかった。
それにはさすがのアーノルト氏も反応する。
「お前はそう言うだろうと思っていた。たしかに、明確な証拠はない。我らマンダルバの者は似た特徴を持つ。義兄上とあの女性もとくに目立った特徴を持っていたわけではない。隔世遺伝があったとしても、どのように現れるかも不明。それは認めよう。だが、それはそこの少年も一緒だろう」
そうですよね。
でも。
リクを見る。
薄い茶の瞳に、ときどき金色が混じることがある彼の眼を。
とても綺麗な瞳を。
リクはアーノルト氏を真っ直ぐに見ていた。
ぼくもまた視線を元に戻して、クイン・グレッド管財官がどう言うのか見つめた。
「レナン様に関しては、ひとつ、明らかにさせていただきます。アーノルト様には公表しておりませんが、ザグゼスタ様の親族である本日お見えのお二人には、先ほど共にザグゼスタ様の直筆の遺言状をご確認いただきました。それをもって、レナン様をカルトーリ様の可能性があることを、お二人共にお認めになられました」
「なに? なんのことだ」
アーノルト氏は顔色を変えた。
レナンという名前のことなんだろう。
「恐れながら、これはカルトーリ様に関する事実の一つ。アーノルト様には閲覧する権利がございません」
「俺はともかく、義兄上の妻だった姉上にはいろいろと権限があるだろう! 姉上がこの場にいないからと、勝手なことを申すな!」
アーノルト氏が少々激高した様子を見せるのも、なかなかに演技がかっていた。
「アラヴィ様の実の息子ではないカルトーリ様に関する事項は、アラヴィ様にも権限はございません」
クイン・グレッド管財官は冷たく断言する。
アラヴィ。前領主の妻の名前らしい。
「アラヴィ様がカルトーリ様と養子縁組をなさるなら別ですが、現時点で、カルトーリ様の後見となれる権利をお持ちなのは、ザグゼスタ様の血族であるユーリィン様のみ。フレイクス様には、ザグゼスタ様の父方のいとこでいらっしゃるお母上の名代としてお越しいただいております。フレイクス様がザグゼスタ様にとって親しい間柄であったとしても、マンダルバ領主に関わることは血族のみが権限をお持ちです。ただ、ザグゼスタ様の血族の皆さまはご高齢、フレイクス様においては見届け人として同席いただいております」
前領主の親族に適齢の若者がいないことがよくわかった。
カルトーリが捜索されるわけだ。
アーノルト氏は反論する材料が見つからなかったのか、歯痒そうな表情を見せたが、それ以上は言い返せない。
「こののち、カルトーリ様となられる方には、アラヴィ様とご対面いただく時間を設けます」
クイン・グレッド氏はそこで言葉を置いた。
アーノルト氏の反論に構えたようだが、さすがにアーノルト氏は正論を振りかざすことができない。
「とくにご意見がないようでしたら、ここで、ザグゼスタ様から領主代行として権限をいただきました私クイン・グレッドが、次期領主指名の権利を行使させていただきます」
アーノルト氏は目を剥いた。
「私の調べでは、レナン様がカルトーリ様である可能性が極めて高く、また、レナン様のお人柄をしばらく拝見させていただきましたうえで、レナン様がカルトーリ様であることを認定したく、立会人の皆さまに承認いただきたい。いかがでしょうか」
アーノルト氏はクイン・グレッド管財官を威嚇するように睨みつけ、歯を食いしばっていた。
「承認しますよ」
まずユーリィン女史が声をあげた。
次にフレイクス氏が軽く片手をあげた。
「母上の代理として、承認する。ザグゼスタ様と親しくさせていただいた者として、カルトーリ様の新領主就任を歓迎します」
軽く笑って、フレイクス氏がぼくを見る。
このマンダルバには、ちゃんとカルトーリの味方がいた。
ムトンでつらい目に遭ったカルトーリを、迎え入れてくれる人がいる。
クイン・グレッド管財官は、ミリアルグ国執政官ケイレグ・ヴィンス氏に視線を向けた。
ケイレグ・ヴィンス氏は、この一連の流れをずっと楽しむような表情で見ていた。
まさに見物人。
「貴重で珍しいものを見させていただきました。マンダルバ同盟国ミリアルグの執政官として、レナン殿がカルトーリ様であるということを認定し、新領主になられることを承認いたします。ミリアルグに帰国次第、国王陛下にこの事実を伝え、マンダルバとミリアルグの新たな絆のために尽力いたしましょう」
ケイレグ・ヴィンス氏は、ぼくに向けて大きく手を叩いてみせた。
「マンダルバ新領主の誕生をお祝い申し上げます」
ぼくはどんな反応をすればいいのかわからずに、逆に戸惑っていた。
これで、終わったの?
ケイレグ・ヴィンス氏の拍手もやんで、辺りを見渡すと、みんなぼくのほうを見ていた。
え、なにか言わないといけない?
思わずリクを見る。
どうすればいいの?!
焦るぼくを見て、リクは軽く吹き出し笑った。
「なんと初々しい。可愛いわね」
ユーリィン女史がほほえんでいる。
なんだか他のみんなも笑顔だった。
アーノルト陣営だけは笑っていない。
アーノルト氏は無表情でぼくを見ていた。
彼がどんな野望を抱いていたのかはわからない。
だが、その心を押し殺したのか、アーノルト氏は笑った。
「いまさら彼を歓迎することはできないが、これからは姉上の弟として行動させてもらおう。彼が姉上と対面するなら俺も同席させてもらう。よいだろうな管財官殿」
有無を言わさないようなアーノルト氏の威圧に、管財官は、かまいませんと、あっさりとうなずいた。
「それに、もうひとつ、このユナムのことだが。俺が彼を見出したのは、マンダルバのためを思ってのこと。あのまま、義兄上の後継者のない状態では、周辺国からの干渉もありえた。ユナムを認めてもらえなかったのは残念だが、ユナムもこの先のマンダルバのためを思ってこの場にいてくれたのだ、彼に便宜を図っていただきたい」
しおらしく、アーノルト氏は管財官に語りかけるように申し出る。
「ユナムを貴殿に預ける。次代の管財官候補として、貴殿に育ててもらえれば、領主となる以上にマンダルバのために働くことだろう。このとおり、お願い申す」
そう言ってアーノルト氏は立ち上がり、クイン・グレッド管財官に向けて深く頭を下げてみせた。
次期領主、次期領主の親族、そしてミリアルグ国執政官の前でのこの行動は、断ることは決してできない。
アーノルト氏は、クイン・グレッド管財官の返事があるまで頭を上げなかった。
「わかりました。ユナム様を預かりましょう」
がばっと上体を起こしたアーノルト氏は、本当に嬉しそうに笑った。
「よかったなあユナム! 管財官殿に立派な管財官になれるよう育ててもらうんだぞ!」
この人は、どこまで本気で言っているんだろう。
アーノルト氏は笑っているのに、どこか歪つに感じられた。
彼を見ていると、気分が重くなってきた。
ユナム少年は曖昧に笑い、うなずくだけで精一杯の様子だった。
「俺は姉上に報告してくる。退席することを許していただけるだろうか」
管財官には敵わないと思ったのか、アーノルト氏の態度は素直なような、しおらしさを演じているような、わからない。
「あとで私も参ります。そのようにお伝えください」
そう応えるクイン・グレッド管財官は、ずっと牽制してきたというアーノルト氏の態度の激変に、どう思っただろう。
管財官の言葉にうなずいたアーノルト氏は他の者たちと退席し、アーノルト陣営で残されたのは、ユナム少年と、付添人の年配男性、そしてユナム少年の友人の少年。
年配男性は、心配そうな顔でユナム少年を見ていた。本当に彼をカルトーリだと思って尽くしたのだと思われた。友人の少年も、ユナム少年を気遣う顔だった。
ユナム少年は、アーノルト氏が退席すると、ほっと息をつき、管財官を見つめた。
「あなたは、アーノルト様の申し出に従われるのですか?」
管財官がユナム少年に質問する。
ユナム少年は苦笑してみせた。
「僕に、選択の余地はありません。アーノルト様に見出されたのちは、本当にお世話になりましたから。あなたが認めてくれるのならば、管財官でも、管財官補佐でも、いえ、ただの官吏でもかまいません、マンダルバのために働きたいと思います。僕が物心ついた頃には、母はもういなかった。それ以前の記憶は曖昧で、裕福ではなかったことはたしかです。アーノルト様は、いままで僕が経験したことが過酷すぎて、記憶が混乱しているんだろうと言われました。記憶がないのに、カルトーリとして名乗りをあげることに気は進みませんでしたが、アーノルト様が僕がカルトーリとなることを願っているならと、いままでカルトーリ候補として行動してきました。お許しください」
座ったままだが、ユナム少年は管財官に頭を下げた。
その両手拳は強く握られていた。
「カルトーリ様にも、お詫び申し上げます」
彼は立ち上がり、ぼくに向けて頭を深く下げてみせた。
そのままぼくの言葉を待っているようだったので、リクの表情をうかがって、発言してよし、とその顔が言っていたので、口を開けた。
「あの、ぼくに許しを乞う必要はありません。これからは、あなたが自分で判断し、行動していけばいいと思います。アーノルトさんがどう言おうと、周りの人がなにを言おうと、あなたが思うとおりに。きっと、誰かが手を貸してくれます。だから、顔をあげてください」
ゆっくりと顔をあげたユナム少年は、真っ直ぐにぼくを見ていた。
目を見開いて、初めてぼくを見るように。
こんなに見つめ合ったのは、たしかに初めてかもしれない。
ユナム少年は、ぼくを見たままふっと笑った。
その笑顔は、素直なおとなしい少年という印象ではなく、どちらかといえば、クイン・グレッド管財官の表情のない微笑に近い。
ぼくはユナム少年への印象をあらためた。
彼は、ただの飾りの人じゃない。
その笑みのまま、ユナム少年は管財官に退席を願った。
許可を得ると、ユナム少年は広間の皆に一礼してみせ、付添人たちを連れて広間から退出した。
「私たちも戻るわね、クイン。あとで寄ってちょうだい」
「はい、ユーリィン様」
クイン・グレッド管財官はユーリィン女史に笑顔を見せ、二人はいろいろと多くの会話をしてきたことをうかがわせた。親しげというほどではないが、管財官のユーリィン女史への尊敬が見られるし、女史のほうも管財官を可愛がっているように見えた。
ユーリィン女史は来たときのようにゆっくりと、今度はフレイクス氏の腕に掴まって部屋を出た。
「クイン」
ケイレグ・ヴィンス氏は椅子から立ち上がり、管財官に声をかけた。
「またあとで」
その声も表情も親しげで、次にぼくに顔を向けてきた。
「カルトーリ様。またあらためてご挨拶にうかがいたいと思います。いましばらくマンダルバに逗留予定となっております。ミリアルグ国王陛下に土産話ができるよう、どうぞ私にお時間を頂戴したく、お願いいたします」
軽く頭を下げてみせるケイレグ・ヴィンス氏に、ぼくははいと言うしかなかった。
ぼくから視線を外したケイレグ・ヴィンス氏は、今度はフィジのほうに視線を向けた。
「フィジ殿、こんなところにおいでとは。いつになったら、ミリアルグに腰を据えてほしいとの国王陛下の願いを聞き入れてくださるのですか? キスリング殿も、二人で気ままに放浪なさってないで、またミリアルグの若い者たちにお力添えください。ミリアルグはいつでもお二人のお越しをお待ちしておりますよ。では、また」
満面の笑みでフィジとキースにそう言うケイレグ・ヴィンス氏は、二人がなにか言う前に綺麗に身を翻し、広間を出て行った。
「ここでミリアルグ関係者と会うとは思わなかった。管財官、あなたの招待?」
こちら陣営のみになって、フィジが軽く体をほぐしながら管財官に質問する。
「ええ。アーノルト氏に、好き勝手させるわけにはいきませんからね」
いままで黙っていたセリュフは、腕を組んで姿勢を崩した。
「だが、案外これもアーノルトの思惑通りかもしれないぞ」
ぼくは、まだ気持ちをほぐすことができないでいた。
まだ、なにも終わってはいない。
「こう来るとはね」
エヴァンスも、憂い顔でつぶやく。
マンダルバ領主後継者争いよりも、事態はもっと深刻になった気がする。
マンダルバで最も権限を持っているのは領主だが、権勢を振るっているのは、管財官。
クイン・グレッド管財官がいい例だ。
アーノルト氏は、ユナム少年を管財官に育ててほしい、そうクイン・グレッド氏に申し出た。
皆の前で。
それを、ユナム少年も願ってみせた。
どこまでが、計算されたものなんだろう。
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