剣と鞘のつくりかた

橘都

第1話



 きっと上機嫌のときには燦々と輝かしい太陽の光が地上を照らしただろうに、天の機嫌はこの日最低値にまで落ちきっていたに違いない。

 ありとあらゆる雨具がまったくその役目を果たさないほどのものすごい勢いで、雨が地上を襲っていた。

 自分の意識を自覚したときには、地面を叩きつけるその雨の音だけが凄まじく、他の音がまったく耳に届いていなかった。

 暗かったのは、目を開けていなかったから。そして、体の力がどこに入っているのかもわからないくらいに雨の冷たさに凍えていた。

 身体の冷たさの限界は、感覚がわからないくらいにとうに超えていた。

 いつからなのかは、わからない。

「片付いたか、ル・イース」

 豪雨の音に混じって、声が間近で聞こえてきた。フードを被っていたらしい自分の頭の少し上から、わずかに低い男の声。

 少しくぐもって聞こえたけど、雨音にかき消されることなく、なぜかしっかりと聞こえてきた、大人になりきれていない、声。

 意識がまたはっきりとしてくる。

 力の入っていない自分の手が、目の前のなにかを両手で掴んでいた。

 誰かの上着。しわ寄って、ぐっしょりと濡れていた。

 目の前に誰かいて、自分がしがみついているのを許してくれている。

「おい、立ったまま寝るな。この冷雨で凍え死ぬ気か?」

 さっきよりも近く聞こえたことで、自分に問いかけているのだと知る。

 だとしたら、さっきの声はこの人の連れの誰かに言ったのだろう。

 ぶっきらぼうといってもいい、感情のわからない口調だったけど、その言葉をかけてくれたというだけで心配してくれているのだなと思う。

 凍え過ぎて強張った手と目を、なんとかゆっくりと開いていく。それが伝わったのか、立ったままだったらしい自分を、目の前の人は肩を抱き込むように誘導してくれた。

 目を開けて、薄暗い辺りを少しずつ見やる。

 辺りは川のように小さな濁流があちこちに作られた、岩肌が多い山道のようだった。

 ここは、どこなんだろう。

「このままじゃまずいな。この先になにか建物はあったか?」

 これは連れの人に言ったんだろう。それに対して返ってくる声は聞こえない。

「戻るほうが早いな。まったく、予定外だな。こっちまでずぶ濡れだ」

 悪態というほどの響きじゃなかったけど、これは謝るべきなんだろうと口を開いた。

「ごめん、なさい」

 自分のものらしい声はかすれていた。かすれ過ぎていて、声といえないくらい。

 言い終えた途端に、向き合うように身体を強引に引っ張られた。

 目の前に、整った少年の顔。

 淡い褐色の肌と、薄い茶色の瞳が、スッと意識の中に入り込んできた。

 少年はその形のよい眉を寄せた。

「男だったか」

 興味が薄れたのか、彼はこちらの身体を離して連れを呼んだ。

「ル・イース、こいつを運んでやってくれ」

 いきなり身体が浮き上がり、急な浮遊感に内臓が悲鳴を上げる。もともとかすれていた声は息だけでひゅううと鳴った。

 誰かが背後から身体を抱き上げたのだと知ったのは、高さのあるまま自分の視界が動いたから。歩く速度は普通のようで、抱えてくれている人はこの体重を苦に思っていないらしい。

 驚きすぎて声も体も硬直する自分を置いて、少年は前に進んでいく。抱えてくれている人の姿は見られなかった。

 ほどなく着いたのは、幌のついた一台の馬車。その荷台に上げられた。

 寒さは変わらず、身体の震えが酷くなっていた。

 抱えてくれていた人は姿を見せないまま馬のところに行ったらしい。

 暗い荷台の中で、一緒に上がった少年は、数々ある荷物を手で探り、毛布を数枚引っ張り出してきた。

「服を脱げ」

 なんとも素っ気なく言う。わかったと言いたかったけど、口も震えて動かない。せめて手を動かすが、腕を上げただけで、冷たく痛んだ。

「わかった、もういい」

 その言葉には、まったく感情がない。目の前に来た少年はさっさとこちらの衣服を手早く剥ぎ始めた。

 あちこち動きを促され、震えながらなんとか動いて、とにかく素っ裸にされた。自分の身体は、目の前の少年よりもか細く貧相だった。

 馬車が動き始めて、整備されていない道を行くせいで自分の体を支えられなくて、備えつけの腰掛けに座らされ、がしりと体を少年が掴んでくれていた。毛布を数枚被せられ、その上から四肢をガシガシと擦ってくれる。

「おまえ、名前は」

 彼は、当たり前のことを訊いただけだ。

 でも答えられなかった。

 返事がないことにはとくに気にしなかったのか、少年はそれ以上問いかけてこず、ある硝子瓶を手に取り栓を抜き、差し出してきた。

「飲めよ」

 強い刺激臭で酒だと思った。

 でも自分がお酒を飲んでいい歳だとは思えなかった。

「いいから飲め。町までは少しかかる。体温を少しでも上げとけ。ここじゃ火が使えないからな」

 それはそうだろうと思うが、どうにも手が伸びない。

 有無を言わさない瞳がこちらを見ていた。

 仕方なく、動きづらい身体をなんとか動かし、瓶を受け取る。

 少しだと喉に通らないだろうと、目をつむって大きく喉を開いて瓶の中身を飲む。

 喉に焼けつくように強い酒ということだけはわかった。咽せかえらないように強く気をつけ、吞み下す。腹のなかも焼けるようだった。頭がクラクラとして、腰掛けに座った姿勢でいるのもつらくなる。

 たまらず身体を横たえると、向かいに座った少年が言った。

「眠れるようなら寝ておけ。ついでだ、もうしばらく助けてやるよ」

 少年の声と言葉を、信じるしかなかった。

 なにもわからないまま意識を失う怖さを感じるのは、ほんの少しだけで済んだ。




 目が覚めたと知ったとき、鼓動は大きく早く動いていた。

 夢を見ていたはずで、でもその夢の中身はまったく思い出せない。ただ、怖かったとだけ。

 それでも、慎重に呼吸を整える。

 少しずつ、意識が現実に向いていくと、自分が暖かいところにいるとわかる。

 居心地がよくて、また眠りにつきたいと願う。

 温かさにもっと近寄りたくて、身動きをすると、身体全体がなお一層あったかく包まれる。

 なんだろう。

「起きたんだろ。二度寝とは余裕だな」

 聞こえた声に、パチリと目を開ける。

 目の前に、少年の顔。

 自分を助けてくれた人だと思い出したのが瞬きをひとつしたあと。

 驚いて身を引くけど、寝たままでは思うように動かないし、抱き込まれていたようで全然身体の位置は変わらなかった。

 身体を離して身を起こした少年が、片肘ついてこちらを見やる。

 片側の口元をゆるく引き上げていて、少しあとに笑ったのだと知る。

「甘えん坊かよ。五歳のガキとおんなじだな」

 状況がわかっていなくて、寝転がったまま動けなくて。

 ぼうっと少年を見ていた。

「なんだ、おまえもル・イースか」

 なんのことだろう。

 掛布がめくれ上がらないように気をつけて身を起こした彼は、寝台から降りて部屋の扉に向かっていった。

 釣られて上半身だけゆっくりと起こし、部屋を見回す。置かれている家具の質から、上等そうな宿の一室だろうかと思った。

 自分を知らないといけない。

 いまできるのは、自分を、周りを、ゆっくりと見つめること。

 だから、少年の行動をそのまま目で追った。

「気がついた。なにか食事を持ってきてくれ」

 扉を少し開けた少年は、向こうの誰かにそう告げる。

 戻ってくると、窓際にある光沢ある木卓と揃いの椅子に腰を掛けた。椅子の背もたれと脚の曲線が綺麗だなと思った。

 木卓の広さは、四人が食事をできるくらい。中央に置かれた白磁の質素な細首花瓶にいくつかの色の小さな花が挿さっていた。

 窓の外は明るく朝方か昼間か。雨は降ってはいなかった。

 少年は卓上に無造作に置かれた書類をいくつか手にとって見ていた。こちらにはもはや無関心な様子で、書き付けのような帳面をめくったり、書類入れのような革製の物入れの内部を探って新たな書類を出して目を通している。

 こちらにもう興味もなさげな少年を見るのをやめて、自分を見つめることにする。

 身体は少しだるい程度で、慎重に腕や脚を動かしてみる。唯一痛みを感じたのは左の手首あたりで、なんでだろうと腕を上げて顔に近づけ服の袖をめくってみると、その部分が赤黒く変色していた。痣のようだった。

 なにもかもがわからない。

 あそこで、なにがあったのか。

 自分が、誰なのかさえも。

 途方に暮れて、自分のことは諦め、少年に向き直った。

 彼はこちらをちらりと目だけ向けてくれたけど、すぐに目線を書類に戻した。

 起きがけに見た笑顔はなんだったんだと思うくらいに無表情。

「あの」

 声がやはり引っかかる。

 咳払いをしても、まだ違和感があった。

「あの、たすけて、くれたん、だよね」

 自分の声だと思えなかったけど、ともかく自分が出した声。

 口が思うように動かなくても、感覚はとにかく、自分の顔だし、口と声だ。

「ありがとう」

 このひとことを言うのも、口を動かすのに苦労した。

 自分の言葉は、彼に伝わるだろうか。

 彼は、自分を助けてくれた。

 それだけは、わかるんだ。

 少年はまた片頬を上げるが、すぐに無表情に戻った。

「なにか礼の品でもくれるのか?」

「え?」

 彼が目線を書類に置いたままで言ったことが冗談に聞こえず、どんな答えを返せばいいのか思いつかずに、とぼけた声が出ただけだった。

「あの、なにか、あげられるもの、ぼくは、持ってた?」

 少年が訝しそうにこちらに目を向けた。

「いんや、なんにも」

「ふうん、そう」

 自分のことをわかりそうなものがいまのところないってことか。

 だけど、焦ってはいなかった。

 なんだろう、やけっぱちとも違う気がする。

 他人事のように、わけがわからないと首をかしげると、少年が眉を寄せた。

「おまえは、カルトーリという名か?」

 その名前にまったく聞き覚えがなかった。

 かといって、自分の名前だってわからない。

 また無意識に首が傾いた。

 しばらくこちらを見ていた少年は、立ち上がってこちらにやってきた。

 寝台に上がって胡座をかいて、こちらの顔をじっと見つめてくる。

 綺麗な顔が近づいてきたので、なんとなく気が引けて背筋を伸ばす。

「名を言え」

 答えられなかった。

 無言のままこちらも見つめ返す。

 目の前の瞳が、力を増したように見えた。

 薄い茶色だと思ったけど、違った。

 金色と、濃い金や茶が入り混じった玉のような、強い色。

 目が閉じられなかった。

 視線を反らせなかった。

「隠し事は下手そうに見えるが、自分の素性を隠さないと不都合なことでもあるのか?」

 冷たいのか熱いのか、読めない瞳の力。

 抵抗は、無意味。

 強い圧力。

 そんな感覚から、硬直した体と気持ちを奮い立たせて、なんとか首を振るのが精一杯だった。

 少年は形よく片眉を上げて、やがて諦めたように表情を緩めた。

「俺がいまから訊くことに、答える気はあるか?」

 声も穏やかになった気がした。だから、こちらも少し気持ちが楽になってうなずいた。

「歳はいくつだ」

「わからない」

 明確に不明と言ったことで、どう思われただろう。

「出身地は」

「わからない」

「母親の名は」

「わからない」

 少し顔を横向けたあと、少年はまたこちらを向いた。

「一緒にいた奴は誰だ」

 誰かと一緒にいた?

 頭が傾く。

 合わせるように少年の頭も同じ方向に傾いた。

「これが最後だ。お前の名前を訊いても、答えは、わからない、か?」

「うん」

 少年は傾いた頭からそのまま寝台に突っ伏した。

「だいじょうぶ?」

「人の心配してる場合かよ」

 寝転んだまま見上げてきた。

「まったく、予定外の奴だ」

 緩やかに癖のある薄茶の短めの髪が顔に流れていて、整った顔立ちや個性的な瞳を隠して、残念だなと思った。

 しばらくそのまま見つめ合っていると、部屋の扉が叩かれた。

「入れ」

 少年は身を起こして告げた。

 入室してきたのは中年のご婦人で、手にはいくつかの料理の乗った大きな盆を持っていた。扉を開けたのは別の人物で、黒づくめの青年だった。

「ル・イース、こっちにいてくれ」

 部屋を出ようとした青年を呼び止めた少年は、寝台から降りて椅子に戻ると、考え込むように腕を組んで深く座った。ご婦人が卓上の惨状を見て戸惑うように盆を持ったまま立ち尽くしていたが、ル・イースと呼ばれた黒の青年が卓上の書類を無言で片付けると、ご婦人は安堵したように次々と料理を並べ、笑顔で腰を折り退出していった。

 その光景を、なんとも不思議な気持ちで見ていた。

 少年は、思うに十六歳前後。でも堂々とした態度だし、青年のほうは黒髪でさらに黒の衣服、当然のように少年に従う姿勢。

 一体どういった素性の二人だろう。兄弟には全然見えない。

 自分のこと以上に不思議だった。

 青年は、明らかに少年よりも年上で、もう少年とは言えない体つきから二十代だろうと思った。寡黙な影に徹するように、少年の家来みたいに振舞っている。実際少年よりも立場は下なのだろう。それよりもなによりも、青年は雰囲気の暗い人だった。無表情なのも印象の暗さを強くしている。顔は結構男前なのにもったいないと、誰目線かわからない感想を持ってしまった。

「腹が空いていないのか? 一日以上寝っぱなしだったんだが。おかしな奴だ」

 すぐに動かなかったのは、食事よりも興味をそそられたのがこの二人だったからで。

 意識をし出した途端にお腹がキュルリと鳴った。

 恥ずかしさをごまかすように笑ってから寝台を出て食卓についた。

 椅子に座る自分の姿を見下ろす。

 適度に緩やかな簡素な上下の布地の服を着ていた。あのときはずぶ濡れで全裸になっていたから、少年が貸してくれたんだろうか。

 ともかく、このまま人前に出ていても恥ずかしくはなさそうで安心する。

 卓上には体調に配慮してくれたのか、細かく刻んだ野菜と肉を柔らかく煮込んだ汁物が大きめの木椀に入っていて、陶器の白皿には、卵を崩さず両面を焼いてあり、パンはこの地域の作り方なのか薄くて焼き焦げ目が所々ついたものだった。飲み物は大きな容器にまとめて入れられているようで、注ぎ口から湯気が立っている。

 温かそうで、とても気持ちの行き届いた料理たち。目の前にしたら本格的にお腹が空いてきた。

 でも、自分で頼んだものではないし、腹がものすごく空いてるからといってがっつくのもはしたない気がした。

 向かいに座っている少年に願望の混じった目線を送ると、少年は片側の口元を上げ、許可するようにこちらに顎をしゃくった。

 ありがたい。

 軽く両手を合わせてから、匙を手に取って木椀の汁物からゆっくり食べていく。塩味と肉の旨み、野菜の甘さを感じられる素朴だけど優しい味。

 何度か噛み締め飲み込んで、ほっと息をついた。

 こちらをしばらく見てから、少年も食事を始めた。

 黒づくめの青年は食卓についておらず、 当然といったように部屋の扉の横で、立場をわきまえるように立っていた。

 食事の手が止められない、どれも美味しい。

「食欲があってなによりだ。ただのおとなしい奴かと思ったが…ただの頭の弱いガキか? いまの状況、わかってるんだろうな」

 口の中のものを噛みながら、二度うなずいた。

「どっちにうなずいたんだか」

 少年は呆れたようにつぶやき、以後は話しかけてくることなく食事を続けた。

 黒づくめの青年はずっと立ったままで、やはり少年のほうが立場が上のようだった。

 あらかた料理を片付け、お茶も冷えてきたころ、ご婦人がもう一度現れ、新たな温かなお茶と、いろいろな取り合わせの小さな焼き菓子を置いていった。

 料理をすべて食べられなかったけど、これは食べてみたい。生地の上に砂糖を塗り固めてあったり、果実のジャムが乗っていたり、美味しそう。

 一番甘そうなジャム乗せに手が伸びて、一口で頬張った。甘いうまい。

 ぼくは、甘いものはとても好きらしい。

 甘いものを喜んで食べるぼくを少年はさも珍しい人間を見たように目をすがめてみていたが、気にしないことにした。

 菓子も食べ終え、とても満足し、心から感謝の思いで両手を合わせた。

「どこの習慣だそれは」

 言われてから、無意識の行動だったと気がつく。

「あの」

 考えてみるが。

「わからないみたい……」

「訊いても無駄だと思った」

 少年は食べ終えたぼくを、また寝台に押し込んだ。

「まだ寝てろ。どうせすぐに眠気が来るだろう。その細っこさじゃ体力はなさそうだからな。とりあえず動けるようになるまで、ゆっくりしてろ」

 ぽんと片手で頭に手を置いてくれて、穏やかに言ってくれた。

 こんな自分に、人を見る目があるかはわからない。

 この人が、優しいだけの人じゃないと本人に教えられた。

 だけど、この人を信じることしか、いまの自分にはできない。

「眠る前に、覚えていることを聞いておきたい」

 真っ直ぐな瞳で言ってくるから。

 きみがそう願うなら、がんばってみる。

「なにを覚えてる?どこからなら言える」

 冷たい、雨の中。

「誰かと、歩いてる。濡れた服が重くて、寒かった。それで、思った」

 自分の言葉は口が回らずに重い。口元が思ったように動いてくれずに難儀し、発音が難しいのか、舌がうまく使えずしっかりと言えない。それでも、伝える。

「なにを、してるんだろうって、思った。ぼくは、ここで、なにを、どうして、って、足を止めて」

 そうだった。

「誰かが手を、腕を引っ張って」

 左手を上にあげて、自然に袖がまくり落ちて、自分でも細いと思う腕の痣が目に映る。上げたままなのが疲れて、横にすぐに置いた。

「痛くて」

 目を閉じる。

 怖かったんだ。

「声を出した。頭を、叩かれた。よろけて、また強く、引っ張られて」

 何度かそれを繰り返して。

 目を開ける。

 隣を見れば。

「きみが」

 そこにいてくれる。

「来てくれた」

 少年はこちらの目を見たまましばらく無言だったが、一度天を仰ぐように上を見て、向き直って、今度は諦めたような眼の色で薄く笑った。

「生まれたての赤ん坊並だな」

 しょうがない感想だと思う。自分でもそう思った。

「ごめんなさい」

「ま、なにかの拍子に思い出すこともあるだろう。おまえが嫌じゃなけりゃ当分の行動は俺と一緒になるが、構わんだろうな」

 有無は言わせない、てことだよね。

 慌てて二度うなずいて、ニヤリと笑われる。

「結構だ。俺が知ってることはあとで話してやる。もう一眠りしたら、少しは動けるだろう」

「うん」

 寝台から下りて青年のほうに向かった少年に声を掛ける。

「ねえ、きみを、なんて呼べばいい?」

 いつまでも、少年、だと不便だ。

 彼は頭だけ振り向いた。

「キルリク」

 名前なのか呼び名なのかわからないけど、自分のこの口じゃ言いにくさだけは抜群だなとおかしく思って、そんな自分になんだか安心して目を閉じた。




「不便だな。でもカルトーリが名前とは限らないからな」

 彼も同じように思っていたようだ。

 しばらく一緒に行動をしていて、おい、や、おまえ、と呼ばれてきたけど。

 名前はどうしても思い出せないんだ。

 局地的突発的だったという豪雨が去り、ぼくの体調もよくなったその日のうちに出発させられた。ここに留まっていたのが予定外で、彼らはどこかに戻る途中だったみたい。

 馬車で移動を続け、少しずつ会話をするなか、名前で呼べないのはやはり不便と感じたらしい。

「目を閉じてみろ」

 素直に言うことをきく。

「頭に思い浮かべろ。おまえはいま、草原の中にいる」

 馬車でガタンゴトンと揺られているけど、わかった、ここは草原草原……

「膝丈くらいの草が一面に、緩やかに揺れている」

 きみは声がいいよね。低すぎず高すぎない。とても気持ちが楽になる。

「昇ったばかりの朝日か、強く照らす昼の陽か、それとも、暮れに近い鮮やかな夕日か、おまえは、その太陽の下にいる」

 思い浮かべる。

 ぼくは、朝日が昇る前の草原にいた。

 辺りはゆっくりと、明るくなっていく。

「耳を澄ませろ。誰かがおまえを呼んでいるぞ」

 誰が?

「なんと呼ばれた?」

 きみの声が。

 ぼくを呼ぶ。

「ナ、オ?」

「目を開けていいぞ」

 目を開けると、いままでにない薄っぺらな笑顔で言われた。

「おまえはこれからナオだ。決定」

 あんな大げさそうにやっておいて、じつはきみにとってはまったく適当だったに違いない。

「えー? そんないい加減な」

「文句を言うなら全部思い出せ」

 わざとらしく鼻の頭をしわ寄せながら言ってくるので、渋々その名で呼ばれることに同意した。

 じゃあ。

「だったら、ひとつお願いがあるんだけど」

 ぼくが申し出ること自体が意外そうにこちらを向いてくる。

「なんだ」

 聞いてはくれるらしい。

「あのね、きみの名前、呼びづらい」

「は?」

「ヒルィク」

 キ? ヒ? フィ?

 口が舌が動いてくれない。

 耳で聞くよりも、この発音を口にすると、聞こえているようには言えないんだ。

「キリュヒ」

「わかった」

 ため息をついて、止められる。

「なになら言える」

「リク」

 それだけならちゃんと言える。

「そんな気軽に分割するなと言いたいとこだがしかたない」

 ごめんね。

 でも、ふた文字ならおあいこ。

「リク」

「わかったって」

 認めてくれたのがなんだか嬉しくて笑えた。

 そんなふうに、お互いの呼び方が決まった。これで不便は減った。


 宿屋で再び目覚めたあとは、いま必要だと思われることを話していた。

 ぼくと一緒にいたのは誰だったのか。

 荷物を調べたら、仲介を仕事にしている男で、職業の斡旋や、人を紹介するものだという。別の言い方をすれば、人買い、だったらしい。自分の利益を優先し、安値で都合のいい人間を雇ったり譲り受けたあと、高値で紹介したり売ったりする、低俗な人間。

 そこまで聞いて疑問に思ったのは。

「その人の荷物、なんで持ってるの」

 ということだった。

「よからぬことをしていた奴だ。罰を与えても別に構わんだろう」

 とあっさりリクは答えた。ようするに、痛めつけてぶんどった、らしい。

「おまえらしき人物について書かれたものを読んだが。名は、カルトーリ。ここから南方のマンダルバという領地を治める領主の息子で、産んだのは領主が結婚した相手ではなく、よそから来た女だという。カルトーリという名は、自分の元を去った女が息子を産んだと知った領主が用意したものだそうだ。マンダルバ領主は先日亡くなったが、正式な後継者がおらず、遺言によりカルトーリの存在が一族に初めて明らかにされた。後継者の存在を知ったマンダルバ領の管財官はカルトーリの捜索を開始、数年前に母親が死亡しその息子はすでに行方知れずになっていたらしく、母親がなんと名付けていたかは分からずじまい、捜索は混迷、おまえを連れていた人買いのような俗物までこの騒動に参加しだした、というわけだ。おまえが本物のカルトーリであれば莫大な報酬が手に入るし、もし違っていても本物と言えばいいわけだからな」

「え、違ってたらすぐにわかるんじゃないの?」

「証拠を持っていれば、偽物とは断定はできない」

「証拠?」

「年齢、身体的特徴、母親の名前、住んでいた地域の証言、そんなものかな」

「えと、物的証拠はないの?」

「どこの犯罪劇を見たんだ? 記憶はないくせに妙なことを知ってるな。こういった人物捜索の場合、いわくつきの品や思い出の品など、出てきたとしても判定は難しい」

「どうして?」

「男のほうは子供に名を与えるくらいだから、女に未練があったはずだ。正式に結婚はできなくても、マンダルバは妾や第二夫人は認められているから、男はそう願ったはずだ。だが別れたとなれば、女のほうが男の元を去ったと見るのが正しいだろう。子供を産む決心をした女のほうも、男に心を残していたからこそだろう。女が男の思い出の品を持っていたとしても不思議じゃない」

 うん。

 きみこそ、なんだか想像がすごく細かくて、こちらも想像がしやすい。

「ただし、男がそれを知っていたとは限らない。マンダルバの家紋でも入っていなければ、どんな品を持っていたとしても、特定の人物を指す証拠にはならない、ということだ」

「えーと、それなら、日記とか、昔やりとりしてた手紙とか」

「筆跡鑑定なんぞは、どうにでも誤魔化せる。そこらにある帳面に、女と男の名前で、さも実際にあったような出来事をいまここで俺が書いても形だけは証拠になるよな。あのな、領主も女も死んでるんだぞ。どうやって証明する? 事情を知ってる者なら、そんなものはいくらでも捏造できる。それよりも、自分の母親と父親が死んでるかもしれないことに、なにか感想はないのか?」

 全然深刻そうではないぼくに、リクが呆れたような声を出した。

「えっと、実感、なくって」

 さすがに大きな声では言えなかった。

「まあ、いい。とにかく、おまえがカルトーリである証拠はないが、カルトーリではないと証明できるものもまたない。おまえが記憶さえなくしてなけりゃ、事はすんなりと運んでたんだがな」

 まったくもってその通りで、ここは素直に謝る。

「はい、ごめんなさい」

「カルトーリは現在十四歳。黒髪か茶髪、瞳も黒か茶、男だと公表されている。おまえはどう見ても十四歳には見えないんだが……」

 自分の体を見下ろす。

 貧相すぎて、なんとも言えない。

 背丈はリクには届いてないし、目線は彼の首くらい。

 肌色はリクとあまり変わらないけど、鏡を見ていなかったので、髪や瞳については自分ではわからなかった。

 少し髪を摘んで、目の届くところに引っ張って見る。

 髪は短め、触った感じだと癖っ毛で、確かに茶色い。黒に近いかもしれない。

「瞳は真っ黒じゃないが、薄茶というほどじゃないな」

「そうなの?」

「見た目の条件は合ってるな。それで、どうする?」

「どう?」

 なにを?

 リクは口を開いて、言葉を出すのをやめたのかまた閉じ、ぼくを軽く睨む。

「その頭はちゃんと考えてんのか?」

 これでも考えてるんだけど。

 だって、どうしたらいいのか、自分じゃわからないじゃないか。

 ぼくになにができる。

 さすがに悔しくなって睨み返すと、リクはぼくが気分を害したことがわかったらしく、ふっと笑ったあと、そのまま声を出して笑い出した。

「飽きないな」

 なんのことだと目で訴える。

「面白い奴だと言ったんだ。しばらくは俺を楽しませてくれるんだろう? 一緒に行ってやるから、そのマンダルバ領主後継者捜索現場に行ってみろ。噂じゃ面白いことになってるらしいからな」

 ふはっと、まだ笑いながら言われる。

 なんだか納得ができない。

「おまえが行くなら、もっと面白いことになるぞ」

 なんでだよ。

「そこへ、行くの?」

 自分が何者かわからないなかで、自分の将来が決まるかもしれない地へ行くことに、不安しかない。

 弱々しい声になった。

「ちょうどそっち方面に行くところだった。おまえの気がすむまでは一緒にいてやるくらいの暇はある。しばらくは退屈な日々だったからな。おまえがそこへ行くなら、俺にとってはいい暇つぶしだ」

 心底楽しげにリクが言うので、もうなにも言えなかった。

 本当に、行くのか。

 きみが言うことは、覆らない。

 それは出逢ったばかりのぼくにだって、わかるんだ。


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