(2)雑貨屋での自習


「…………ル、ルェート……Блζ=лбζ……」

「んー、それは多分、бζ=лζБじゃないかなぁ?」

「あ、そっか……」

「そのあたり活用が難しいよねぇ。私も昔、覚えるの大変だったよ」


 ラングリーに魔法語教本を借りて自習するようになってから、1ヶ月が経った。

 夏の暑い盛りを乗り越えて、ようやく涼しい風が吹き始めた今日この頃。リームは休みの時も店番をしている時も、常に魔法語教本を片手に勉強していた。


 相変わらず客の来ない雑貨屋の店内で、カウンターの椅子に腰かけて勉強しているリームを、ティナは隣で時々アドバイスをしながら見守っている。親戚のお姉さんに勉強を見てもらっているような雰囲気だ。


「魔法語と記述魔法語の違いは分かりやすいんですけど、魔法語と精霊語が似ているようで全然違うところもあったりして、ごっちゃになるんです。ティナはライゼール王国の出身だから、精霊語は小さい頃からできたんですか?」


 ライゼール王国はクロムベルク王国から北の海を渡った先にある国で、精霊派<エレメンツ>が国教だったはずだった。精霊使いも多く、精霊語もずっと一般的に違いない。しかしティナは首をふった。


「ううん。私は田舎の村で育ったから、そもそも読み書きできる人も少なかったし、精霊使いも魔法士もほとんどいなかったの」

「そうなんですね。やっぱりティナは魔法士になるために都会に出たんですか?」

「いや、村で唯一の魔法士だった先生に教わったんだ。でも途中でお母さんが病気になっちゃったから、治療法を探すために見習いのまま風従者になって村を出たんだけどね」


 風従者とは、自分の技術や資質だけを頼りに各地を旅をして暮らす人々を指す。いわゆる何でも屋のようなもので、そのほとんどが魔法士または精霊使いとその護衛という組み合わせだ。ティナが昔風従者だったという話は、リームも何度か聞いていた。


「それで、お母さんの病気は治ったんですか?」

「うん。無事病気も治って、前よりも元気……元気? うん、まぁ元気といえば元気になったかな」

 微妙な言い回しだったが、ティナが笑顔だったので、リームは安心した。


 雑貨屋で働くようになって半年近く経ち、ティナの生まれ育ちの話もずいぶん聞いた。

 ライゼール王国の中央やや西部、ラザック村という長閑な農村で生まれて、母子の二人住まい、ほとんど自給自足に近い形で小さな畑を耕したり鶏を飼ったりして暮らしていたんだそうだ。

 風従者になってからは、クロムベルク王国にも船で渡ってきたことがあり、ルヴィーニア大神殿や水の森といった有名所にも行ったという。


 何故、風従者を辞めて雑貨屋をやるようになったのか、という問いには『やりたかったから』という返答で――きっと旅をしている間に、いろいろな場所のいろいろなお店を見て、自分のお店を持つのもいいなぁと思ったのかなーと、リームは予想していた。

 ただ、宮廷魔法士に並ぶ程の魔法技術を持ちながら、普通の雑貨屋をやるほうが良いというのも、なかなか珍しいけれど……。


 リームはついまじまじとティナを見てしまい、それに気がついたティナはちょっと勘違いしたらしく、軽く片手を振りながら言いつくろった。

「あ、大丈夫よ、ほんとに元気だから。それで、リーム、明日ラングリーのところに行くってことでいいんだよね?」


 自習を始めてから1ヵ月。先日ラングリーの魔法の鳥と話して、やっとそれなりに魔法語を覚えたことを認めてもらえた。いよいよ本格的な魔法を学べるのだ。


「はい。やっとこれからが本番です。なんでもフィードの感知と魔力の広げ方?をやるとか言ってました」

「あぁ……そうなんだ。うん、まぁそうだろうね……」


 リームの言葉を聞いたティナは、何故か気まずそうな表情をした。なんとなく視線をナナメ上にさまよわせている。

 普段察しの良いリームだが、ティナのこの反応は予想外で理由も見当つかず、一瞬迷ったが率直に尋ねることにした。


「何か問題があるんですか?」

 ティナはそのままの表情で視線をリームに戻し、言葉を選びながら言う。


「まぁ、なんていうか……ラングリーから聞くかもしれないけど、たまに私の周りでは魔法の力が正常に働かないかもしれないから……習ってきても、ここで練習するのは難しいかも」

「えっと、それってどういうことですか?」

「うーん、なんだろ。伊達に不思議な雑貨屋じゃないっていうか、まぁ不思議じゃなくなるのが目標なわけだけど、現時点では難しい……かも。まぁ、そういう魔法があるって思ってくれれば」


 魔法の力が正常に働かなくなる結界のような魔法をティナが使っているということだろうか? だったらそう言ってくれればいいのにとリームは思ったが、そう言わないということはそれは正しい表現ではないのだろう。


 正直まったく分からなかったが、リームはとりあえず分かりましたと答えるしかなかった。


 『青』に目をつけられるほど不思議な雑貨屋。きっと宮廷魔法士に並ぶその魔法技術を使って何かをしているのだろうけれど、教えてはもらえないし、まったく想像もつかない。相変わらず正体不明な、謎多き店主だった。


 もっと魔法を勉強したら、ティナが何をしているのか分かるのだろうか……?

 そう思いながら、リームは分厚い魔法語教本に目を落とした。

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