仕舞い屋のソノコさん

十森克彦

第1話

 タキシードは見るのも初めてだった。成人式のために昨年作ったスーツとは勝手が違っている部分もあって、なかなか手間取ったが何とか着用はできた。むしろ蝶ネクタイなどは、フックで引っ掛けるようにできているタイプだったので、慣れないネクタイを結ぶよりも、よほど簡単だった。ワゴンの上にある小さな手鏡を覗き込む。我ながらまんざらでもないな、と感心したところでシャッと音がして、遠慮なくカーテンが開け放たれた。

「うん、なかなか似合うじゃない。悪くないわね」

「いきなり開けますか、普通。もし僕がまだ着替え中やったらどうするんですか」

 苦情を申し立てたが全く聞き流された。いつの間にか自身もスーツ姿に着替えたソノコさんは、僕の全身をなめ回すように見てから、つかつかと歩み寄ってきて、両手を僕の腰に回してきた。髪をアップにしたうなじが迫ってきて、ほのかにいい匂いがする。香水か何かだろうか。

「えっ、こ、こんなところで……」

 声をうわずらせた僕をやはり無視して、腰の金具が外され、取り外された黒い布が目の前にぶらさげられた。やばい、抵抗できない。

「カマーバンドはひだを上向きにつけるのよ。覚えときなさい」

「あ……そうですか、その、はい、すいません」

 勝手によこしまな勘違いをしていた僕は、顔から火の出るような思いをしながら、黒いカマーバンドを巻き直すソノコさんにされるがままになった。

「でもまあ、似合うじゃない。立派な花婿さんになってるわよ。まごにも衣装って言うもんね」

「まごにもって、お孫さんのいる年でもないでしょう、ソノコ……さん」

「あのねえ。そのまごじゃないわよ。馬に子って書くの。馬に荷物や人を乗せる仕事をする人のことね。きみ、ちゃんと調べてからしゃべらないと恥かくわよ」

 苦笑いをしながら、ソノコさんが言った。そうだったのか。知らなかった。照れ隠しにうまく言って返そうとしたのだが、さらに分が悪くなった。

「さあ、仕事、仕事。お客様が待ってるわよ」

 そうして僕は、ソノコさんに追い立てられるようにして、更衣室代わりに使わせてもらった病室の空きベッドを後にした。


 ソノコさんにつかまったのは、祖母のお見舞いにやってきた時だった。検査にでも行っているのか病室は空だったため、談話コーナーで缶紅茶を飲んでぼんやり座っていた。

「きみ、大学生かしら。ひまそうね。よかったらアルバイトしてみない」

 隣に座るなり、突然声をかけてきたので驚いて目を向けると、彼女はセミロングの黒髪を顔の横でもてあそびながら、じっとこっちを見ていた。年齢は不詳だが、僕よりも一回り近くは上だろうか。ほとんどそれと分からないくらいの薄化粧にGパン姿というラフな格好だったが、あごのラインがとてもきれいな、はっきり言って好みのタイプだった。ひざが触れるくらいの距離で座ったため、他に誰もいなくて広々とした空間の中では、必要以上に近く感じてしまう。

「えっ、いやあの、アルバイト、ですか」

「こんな時間に面会に来ているということは、春休みでしょ。で、アルバイトも特にない。誰かのお見舞いに来たんだけれど、病室にはいなくて会えなかった。そんなところじゃない」

 とっさのことにしどろもどろになってしまった僕に、たたみかけてくる。

「そんなきみにぴったりのアルバイトがあるのよ。ね、そんなに時間とらせないから」

 とそんな具合に説き伏せられ、ちょうどアルバイトでも探そうかな、と思っていたところなので、その場で約束をしてしまったというわけだ。履歴書やなんかは、と尋ねたら、

「そんなもの、いらないわよ。もらったってどうせ見やしないんだから」

 と一笑にふされてしまった。

「でも、一応名前くらいは、聞いておこうかな」

「はいあの、山中和俊と言います。大学二回生です」

「和俊君ね。わたし、カワイソノコ。ソノコでいいわよ。よろしくね」

「はあ、ソノコ……さんですか」

 どこかで聞いたことがある。なんとなく胡散臭いが、その時はまだ、見た目の清楚な雰囲気に完全にしてやられていた、という感じだった。

 

 携帯電話の番号だけを交換したが、内容も聞いていなかったし、それこそ紙切れ一枚もらったわけではない。からかわれただけなんじゃないかとか、ひょっとしたらなにかちょっと怪しいことなんじゃないか、など色々考えた。でもまあ、どうせ暇だったし、何よりソノコさんが好みのタイプだったという助平根性もあって、翌日、約束通りの時間に同じ談話コーナーにやってきた。

 ソノコさんは服装こそGパン姿だったが、昨日とはうって変わってきれいに化粧をして、きびきびとした態度で現れた。僕の姿を認めると、携帯電話で誰かと何やら打ち合わせ、ここでちょっと待ってて、と言ってすぐにいなくなった。

 三十分くらいは待たされただろうか。再び現れた時には、どこで調達してきたのか、大きな紙袋にタキシードを一式そろえて持っていた。そのまま空いている病室に連れていかれ、これに着替えるように、と言う。

「ちょっと待ってくださいよ。これから何をするんですか。アルバイトってこれのことなんですか。ちょっとくらい、説明してくれたって」

 病院でタキシード。何が何だかさっぱり分からない。

「ああ、言ってなかったっけね。タキシードと言えば、花婿さんでしょ。これから結婚式を挙げるのよ」

「花婿? 結婚式? どういうことですか。ますます分からん」

 不審がる僕を見て、ソノコさんはあからさまな舌打ちをしてから言った。

「ウェディングドレスの花嫁にあこがれていて、死ぬまでにどうしても結婚式を挙げたかった。そういう患者さんがいるのよ。だからその夢をかなえてあげようってわけよ。こればっかりは相手がいないと成り立たないでしょ。で、適当な花婿役を探してたところにきみがいたっていう、まあよくある話よ」

「よくある話、ではないと思いますけど。え、ということは僕が結婚式するんですか。写真撮ったりとか、要するモデルみたいなものですか」

「いいえ、本当に結婚式をするのよ。神父様もいるんだから」

 ようやく自分が何をさせられようとしているのか、おぼろげに分かってきた。

「結婚式って、いくらなんでも会ったこともない人とそんな、聞いてないですよ」

 僕が抵抗すると、

「まあ、言ってないからね。でも、花嫁さんの方の準備は終わってるんだから、今さらできません、じゃあ通らないわよ。人助けなんだからさ。第一、そのまま初夜を迎えなさいとまでは言ってないじゃない」

「なな、何を言ってるんですか」

 耳まで真っ赤になっている僕に構わずタキシードを押し付け、ソノコさんはベッドサイドのカーテンを閉めた。内容も聞かなかったとはいえ、アルバイトをする約束をしたのも確かだし、人助けだとまで言われたら断るわけにもいかず、仕方なくシャツのボタンを外しにかかりながら、僕はひっかかったことを尋ねた。

「そういえば、患者さんって……」

「ここは病院だからね。入院してるのよ。末期ガンってことで。分かったらさっさと着替えてね。時間ないんだから」


 病室を後にした僕は、そのままエレベーターに乗せられた。廊下でも、エレベーターの中でも他の患者さんや見舞客がタキシード姿を物珍しそうに見ていく。場違いとはこういうことを言うんだろうと思いながら、僕はできるだけ周囲の人たちと目が合わないように、目線を天井付近に固定してひたすら耐えた。エレベーターは上に向かい、階表示が「R」のところで止まった。屋上に着いたらしい。

「さ、着いたわよ」

 ソノコさんに促されて、エレベーターを降りる。病院でこの格好、さらに行き先が屋上。ますますわけが分からないと内心ぼやきながら屋上に出た僕は、思わず息を呑んだ。パイプ椅子が並べられ、一番前には長テーブルらしきものが、祭壇に見立てているのだろうか、ご丁寧に白い布をかけて置かれてある。パイプ椅子には何人かがすでに座っているが、そのほとんどは医者とか看護師のようで、白衣を着ていた。驚いたことに、一緒にエレベーターに乗っていた見舞客らしき人たちもこの「結婚式」に出るらしく、ソノコさんに案内されてそのパイプ椅子の方に座っていく。

「本当は病院の会議室を借りるつもりだったんだけど、この天気だからね。せっかくだったらガーデンウェディングでやろうと思ってね」

 参列者らしき人たちの案内をしてから戻ってきたソノコさんは、僕を一番前の席に連れて行った。ざっと見たところ、二十人近くはいる。その場に座っている全員の視線にさらされた。結婚式にはいとこのときなんかに何度か出席したことはあるが、本物のそれとは当然ながら雰囲気がずいぶん違っている。場所や服装の違いではない。座っている誰もが、どことなく白々しい。偽物の結婚式なのだから当たり前だが、その顔にあるのは祝福の笑顔ではなく、むしろ苦笑に近い。僕はどんな表情を作ってよいのか分からないまま、あいまいな感じでお辞儀をしてから、とりあえず一番前の席に着いた。

 しばらく、そのまま落ち着かない時間を過ごしていると、神父らしき衣装を着た人が現れ、白い布をかぶせたテーブルの向こう側に立った。もみあげから口の周りにまでつながっている、結構立派なひげに覆われた顔は衣装と実によく合って、本物のような迫力がある。神父さんが前に立つということが、これから始まるという合図なのだろうか、その場が一応ひきしまり、それらしい雰囲気になった。ただ、その神父さんがなぜかテーブルの上に厳かに置いたのは、どう見ても、小さなラジカセだった。

 ほどなく、パイプ椅子が並べられた間の通路に、花嫁が現れた。車いすに乗っている。新婦入場ということでBGMでも流すのかと思ったが、例のラジカセは沈黙したままだった。しんと静まった中を、神妙な顔をしたソノコさんが押す車いすがゆっくりと進んでくる。シーツとかレースのカーテンとか、そんなものではない。本物のウェディングドレスだ。腰の上あたりから足下にかけてふんわりと広がる白いレースのスカートは、どんな場所でも他を圧する迫力がある。僕はここが病院の屋上であることや自分がアルバイトで雇われていることもすっかり忘れて、一瞬目を奪われてしまった。まさか、こんな形でウェディングドレス姿の花嫁を迎えることになるとは。

 促されるままにテーブルの、もとい祭壇の前に立ち、僕は花嫁の隣に並んだ。純白の衣装に包まれて車いすに座る女性を横目で見て、着替える前に病室でソノコさんから聞かされた言葉を思い出した。末期がん。死ぬ前にどうしても。改めて、自分が引き受けたことの重みがずっしりと、生々しさを伴って僕の心にのしかかってきた。

 神父さん役がたっぷりと勿体をつけて、うやうやしくラジカセに手をやる。少々音質の悪い録音の音声が流れだした。

「あなたはこの女を妻とし、これを愛し、病めるときも健やかなるときも……」

 なるほど。どこかの結婚式で録音してきたものか。あのラジカセはこのために用意されていたのだ。感心していると、録音の音声が途切れ、咳払いの音が聞こえた。神父さん役が僕の方に顔を向けて、小声で

「誓いますか」

 とつぶやいている。もしかして僕の台詞なのだろうか。戸惑いながら横の方を見るとソノコさんがものすごい形相でこっちをにらみながら、口だけを動かして何か言っている。

「あ、えーと、誓います、はい」

 あわてて答えた。打ち合わせも何もあったもんじゃない。神父さん役が僕の答えたのを受けて、にこりともせずに再びラジカセを操作する。同様の音声が流れ、今度は花嫁の方がよどみなく答えた。

「はい、誓います」

 誓われちゃったよ。隣にいるウェディングドレスの「お客さん」を再びちらりとのぞき見るが、ベールで被われているため、顔までは見えない。再びラジカセから音声が流れる。

「神が結び合わせたものを引き離してはいけません」

 そこでラジカセは終わり、目の前の神父さん役が直接口を開いた。先ほどまでの神妙な顔とはうって変わって、にこにこしている。人の好さそうな、初老の紳士だ。本物の神父さんと言われても、疑わないだろうと思う。

「それでは花嫁のベールをとって、その美しい顔を会衆に披露してください」

 まるでマイクを通したかのようによく響く低い声にも、なんだか深みがあるように思えた。花嫁はこちらに向き直って、心持ち頭を下げ、僕がベールを外すのを待っている。相手はアルバイトで出会ってまだ数分の、「お客さん」のはずだが、なんだかドキドキした。ウェディングドレスのせいだろうか。それとも神父さん役の、包み込むような声のせいだろうか。それとももしかして、ソノコさんからさらっと聞かされた、「末期がんの患者さん」ということが影響しているのだろうか。いずれにしても、僕の心は誤作動を起こしかけていた。

 指先が震えるのをなんとか抑えながら、僕は花嫁のベールにそっと触れ、軽く持ち上げて、彼女の頭の上にふわりと乗せる。

「いっ……?」

 思わず、声が出てしまった。ベールの奥から現れた花嫁の顔は、確かに決して不美人というわけじゃない。でも、どう若く見積もっても、僕の母親よりは一回り以上は年上の、要するにおばあさんのものだった。深く刻まれた目尻のしわにそって涙が流れ、剥がれた化粧のあとが筋となっている。真っ赤な口紅が震えて、ありがとう、の形に動いたのが分かった。


「はい、お疲れ様でした。助かったわ、本当に」

 ソノコさんがほっとした表情で缶コーヒーを差し出してくれた。元のジーンズ姿に戻っている。

「あ、すみません」

 本当は紅茶がいいのだけれど、今更言えないので、そのまま受け取った。プルトップを開けて、一口飲んでみたが、よりによって微糖タイプなので、はっきり言って苦い。

「大山さん、喜んでたわよ。ああ、大山佐代子さんって、さっきのお客さんね。ずっと願ってた夢がかなったって」

 そう言われると、まあなんとなく、悪い気はしない。やった甲斐があるというものだ。大して何もしていないのだが、僕は軽く達成感に満たされた。

「さっきの衣装ってどうしたんですか」

「もちろん貸衣装よ」

 貸衣装といっても、ウェディングドレスとなると相当な値段がすると、いとこが結婚した時に聞いたように思う。ちょっと着てみるだけ、なんていう手軽なものではない印象があるのだけれど。

「あれって本物ですよね、貸衣装って結構するんやないんですか」

「そうね、その日のうちに返すからってことで安くしてもらったけど、それでも二ケタはいっているわね。一応新郎の衣装だってあったしね」

「二ケタって、十万円以上したってことですか」

 いくら何でも、偽物の結婚式のためにそんなお金を払うなんて、どうなっているんだろう、と僕は素直に驚いた。

「世の中にはね、色んな事情の人がいるものよ。お金の価値観だって、人それぞれなんだから。そうそう、これ、バイト料ね」

 ソノコさんがトートバックから無造作に取り出したのは、茶封筒だった。そういえば、アルバイトだった。これまで経験してきたものとはあまりに違い過ぎていたために、忘れかけていた。僕は封もされていないそれを受け取り、中身を引っ張り出した。少々行儀が悪いが、こんなに無造作に渡されると現金でなくて映画の割引券かなにかが入っているだけじゃないだろうか、と思ったのだ。ところが、中にはしわくちゃながら、立派に福沢諭吉が二枚、入っている。着替えや待機の時間まで含めても半日にもならないので、そんなにもらえるとは思わなかった。

「いいんですか、こんなに」

「大山さんはそれだけ喜んでたからね。それに大きな声じゃ言えないけど、彼女、結構なお金持ちなのよ。念願のウェディングドレスだからって、ひ……いやその、結構気前よくね。ここまでの謝礼は私としても珍しいけどね」

 ソノコさんが一瞬言いよどんだのを僕は聞き逃さなかった。確かに「ひ」とはっきり聞こえた。もしかして、受け取ったのは「百万円」と言いかけたのだろうか。だとすれば、貸衣装代や僕へのバイト料を差し引いたって、結構もうかったんじゃないだろうか。僕がどうこう言う筋合いではないけれど、ずいぶんな荒稼ぎだ。ソノコさんはそれに気づいたのか、すかさず話題を変えた。

「あ、ところできみ、この後時間あるの? ついでだからもう一件、つきあってくれないかな」

「え、これからですか。またあれ、着るんですか」

 正直、本番はほとんど立っているだけの三十分ほどなので、アルバイトとしてはかなり割のいい方だろう。もちろん、タキシードを着ることに抵抗を感じるわけでもない。けれども、大山佐代子さん、だったか、新郎新婦退場の際、腕に絡んできた彼女の体温は僕の記憶から簡単には消えてくれそうになかった。

 結構な金持ちだとソノコさんは言った。自分の母親よりも年上で、ずっとあこがれていたのに結婚をせずにいた彼女は、一体どんな人生を送ってきたのだろうか。間もなくその幕が下りそうという時に、アルバイトとして雇われた見ず知らずの若造と結婚式の真似事だけをして、それで満足だったのだろうか。こんなに色々引きずってしまうことを、時間があるからといって二つ返事で引き受けようという気にはなりにくい。

「あんなことばっかりしているわけじゃないわ。もう一件はまあ、簡単に言うと、家の整理ってところね。そんなに大変じゃないんだけど、他人の家に上がり込むから、できたら誰かと一緒の方がいいかなって思ったのよ」

「家の整理、ですか。まあ、そんなんやったらいいですよ。時間はありますから」

 そんな風にして僕は、そのままの流れでソノコさんの仕事を引き続き手伝うことになった。


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