八章ノ肆『闇に巣食う影』


 スイリュウの護石から現れたものに、カロナは影に触れることを阻まれた。

「……お願い、助けたいの」

 そう言いながら右手を伸ばし続けるカロナ、それでもその水の竜は彼女を阻み続けた。

 護石はカロナに近づこうとする悪や影を阻み、そして、彼女が悪や影に近づこうとすればそれを阻むためのものだ。本来の用途ははたしている、だけど、カロナが父であるロウから貰った初めてものという想いから、それはあらゆることを解決してくれると感じていたのだ。

 実際は、カロナを守ることができても、その他を救うことなどその護石には無理であった。

「ん?まだいたんですか?カロナ院生」

「……すみません、すぐに出て行きます」

 本当に自身の言いなりにならない者に興味が無い様子のタンダに、カロナは視線を落として教室をあとにする。

 自室へ向かうカロナは、スイリュウの護石を見つめながら小さく落胆の溜め息を吐く。

「お帰りなさいカロナちゃん」

「ただいま、ノノちゃん」

 そうして、何もできないまま二日が過ぎ、カロナがその日以来に久しぶりに見た影は、タンダの体を包むほど巨大になっていた。

 授業を受ける間に吐き気で気がおかしくなりそうなカロナは、周囲がそれに全く気にも留めない様子にも違和感を感じていた。

 影は常人には見えない、どちらかと言えば境界線の向こう側の存在なのだから当然なのだ。

 ただ、カロナは境界線の上に位置する存在であるため、その存在に気づき、その気配の危うさも肌で感じてしまっていた。

「カロナ、大丈夫かい?」

 トスルの言葉にカロナは珍しく、「す、少し限界かも」と言うと手を上げて言う。

「タンダ教諭」

「ん?カロナ院生、どうしました」

 殆ど影に覆われた彼の姿を見ながら、カロナは体調不良を伝えた。

「はいはい、では他の院生の邪魔にならないように出ていなさい」

「……はい」

 こうして話すと、彼の行動は真面目な教諭と言える。だが、裏でははっきり悪事をしているのは確かで、カロナは少し頭を悩ませていた。

「私はどうすればいいんだろう……」

 教室の外で中庭を見つめてるカロナに、姿を隠す白猫は付かず離れずでいる。

「きゃぁ!」

 急に教室から悲鳴が聞こえると、カロナは驚いて体をビクつかせた。

 白猫も急いで教室に向かうカロナの後を追う。

「きゃぁああ!タンダ教諭!」

「タンダ教諭が倒れた!」

 その日唐突にカロナの目の前でタンダ教諭が倒れた。そして、カロナはそれを見てしまう。

 影がタンダからゆっくりと離れ、狼とも犬とも言えない化け物の姿へと変化した。

 あの影は次の捕食の対象を探しているのよ、そう白猫はカロナを見ながら思う。だけど、それを伝えることは禁じられていて、何も理解していないカロナが戸惑う様子を見ているしかなかった。

「タンダ教諭――」

 そう呟いたカロナの視界では魔の物がゆっくり、教室の一番前の右側へと移動し、一人の女子へと擦り寄る様子を目にしていた。

「あれは、ネアちゃん」

 カロナの学友であるネアは、倒れたタンダを見ながら不敵な笑みを浮かべていた。

 そして、その瞬間ネアの傍にいた影がまた少し大きくなった。

 影がタンダを殺し、それを喜ぶネアの何かを影が食べた様にカロナにはハッキリと見えた。

「まさか、今度はネアちゃんに――」

 カロナはようやくその影がどれほど危険なものなのかを理解し、そして、タンダがどうなったかを知った時恐怖する。


「タンダ教諭が亡くなりました。明日は彼の葬儀になります、皆さんも午前中は葬儀に出席し、午後の授業は休みとします」

 教諭の死から二日で葬儀、その間もカロナの視界ではネアに付いた影の大きさが増し、その形も変化していた。

「どうしよう、あの影また大きくなってる」

 周囲がソワソワとして休日の話をする中、カロナはネアから視線を離せない。

 タンダが亡くなった理由は不明であると発表され、解剖するか否かで職員は噂する。

 だが、カロナだけはあの日、タンダから離れた影が、何かをタンダから剥がしたような気がした。それもあって、今ネアに付いているあの影を恐れている。

「今度はネアちゃんが死ぬかもしれないし……はぁ~」

 深い溜め息にノノは心配そうにカロナに話しかけた。

「カロナちゃんはタンダ先生……じゃなかった、タンダ教諭のこと悲しいんですか?」

「え?そうだね、悲しいな、知っている人が死ぬのは……」

「でも、タンダ先生……また先生って言ってしまいました。タンダ教諭が亡くなって、私は良かったと思ってます、理不尽な成績を付けられることももうないわけですし」

 ノノもカロナと同じようにタンダが担当していた教科では、最低の成績を常に付けられていた。学院側にも何度も抗議し、その度に却下されて内心腹立たしい想いを募らせていた。

「私から言わせれば自業自得、因果応報ですよ。悪党め!参ったか!と言いたいです」

「……私は――」

 カロナは影がタンダに悪いことをさせていたのだと言いたげだが、彼女自身影が取り付く前からタンダがそう言う教員だったことは理解していた。

「悲しいけど、タンダ先生は……教諭は当然の報いを受けたと思ってますよ、きっと神様に罰せられたんだと思います」

「……そうかも、だけど、やっぱり人が死ぬのは悲しい事だと思うな」

 カロナがそう言うと、隣にいたトスルは口元に笑みを浮かべて耳元で囁く。

「カロナは優しいな」

「いやぁ、トスル、耳元で囁くの止めて……」

 カロナがそう言うと、さらにトスルは口を耳に近づけて言う。

「あれ?前は何も感じなかったのに、気になるようになっちゃったかい?」

「カロナちゃんにいやらしい事をしないで下さい!この色助平!」

 ノノはカロナとトスルの間に割って入りそう言う。

「色助平というのはどういう意味だいノノ」

「女の子にいやらしいことをする男のことです、軽蔑の言葉です!」

「じゃ、ノノもこうやって囁かれるのは嫌かい?」

 身長の低いノノの耳元でそう言うと、その瞬間にノノは膝から崩れてカロナにしがみ付いた。

「にょあにをするんですか!」

「あれれ、ノノも耳が弱いのかい?」

 二人のやり取りにカロナは少しだけ笑みを浮かべた、だが、すぐに視線をネアへと向けて再び悲しげに見つめだす。


 カロナが気にするのは当然であるけど、影だけはどうしようもない。

 白猫もその気になれば簡単にあの影を消し去れる、けれど、カロナを見守る義務と見極める使命の前に、彼女が傷つかない限りは手を出すことはない。

 そうして、タンダの葬儀が終わると、また日常が訪れた。

 ネアに付いていた影は、今も彼女の傍にいて大きさを増している。

 時折、その視線のようなものがカロナへと向けられているのが気になってはいた。

 カロナ自身もそれには気が付いていた、そして、白猫は深夜に一人暗い闇の中でネアのいる部屋の前に行く。人の姿へと変わった白猫は、シャンリンメイとして術を行使する。

「アンジャの影よ、己が主の命にて欲するは何や。北方の光、南方の火、西方の木、東方の水、四方の属性にて汝を縛らん」

 廊下で空中に描く紋は、それ自体が仙の術である。影が無理矢理に扉の外へと引き摺り出されると、いくつもの口や牙のようなものをみせ、いくつもの爪で周囲を引き裂く。

 シャンリンメイの周囲にも爪は疵を付けるも、彼女が傷つくことはない。

 彼女の周囲には見えない壁があり、それに爪は阻まれているからだ。

「縛!」

 二本立てた指を左から右へ払うと、その影は鎖のようなものに縛られてしまう。

「……滅せよ!縛花!」

 鎖だったそれが花のツルへと変化して、蕾が開いて花が咲くと、その瞬間に影は一片も残らず塵となる。

「……倒せたわけじゃないけど、これでカロナも安心できるニャ」

 影は消滅したわけではない、あれは人の内から湧くものであり、人がいる以上は常に発生する可能性がある。

「あ~カロナに褒めてもらいたい気分ニャー」

 そう言って、シャンリンメイは再び白猫へと姿を変えた。

 翌日、ネアの部屋の前が荒らされていると騒ぎになって、カロナも心配して様子を見に行くと、影は消え去りネア自身もどこかスッキリとした表情で、カロナはホッと一安心した。

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