一章ノ壱『人狼のロウ』
「ロウ、もうすぐ兄になるな」
父の言葉に俺は小さく頷く。
父とは違い狼の姿ではなく人の姿をしてる俺は、他の人狼よりも人の姿でいられる。
つまり人に近しい人狼であるだけで、ちゃんと狼の姿にも変わることができる。
「名前はムロというのだが、どうする先に名を呼びたいか?」
父がそう俺に言うと、俺は今度もまた小さく言う。
「俺が呼んでもいいの?」
「ああ特別だ、兄というものは父なんかよりも、弟と接することが多いのだ、だからお前が先に名前を呼ぶ方が兄弟仲良くなれるはずだ」
いつも厳格で俺には厳しい父が、この日はとても優しく、俺は弟の誕生と同じくらい嬉しかったのを覚えている。
そして、産婆が父を呼びに来ると、俺はその足に並んで速足に家へと入って行く。
木造の家の囲炉裏のある部屋の奥の部屋、そこに人の姿の母が汗まみれで疲れた表情を浮かべてこっちを見ている。時折、その視線が下へと向けられると、そこにおそらく弟がいると俺は思い近づいていく。
「ロウ……あなたの弟よ――さぁ、名前を呼んであげて」
正座して覗き込むと、小さな狼の姿がそこにあり、俺はその静かな息遣いを聞きながら呼んだ。
「ムロ……ムロ……」
すると、ムロは鼻をヒクヒクさせて俺の指のニオイを嗅ぐ。
「ニオイを覚えているのよ」
「違う、人の姿に驚いているんだ」
母と父はそう言うが、俺はどっちでもよかった。そんなことよりも、これほどカワイイ生き物が自分と同じであるという事に俺は驚いていた。
「ロウはすぐに人の姿に代わったけど、ムロはもう少し時間が要りそうね」
「無理もない、ロウは特別で人に近しく生まれ、賢いし、力も俺より強くなるそのうちにな」
その話は何度か両親から聞かされていたから今更だったが、この時の俺は〝ムロは自分より弱く幼いから守らなければ〟という考えを持つきっかけにもなった。
産まれて直ぐのムロはしばらく狼の姿でヨチヨチと歩いて、少し大きくなると、すぐに森を駆けまわるようになった。子どもの人狼の後を追いかけられるのは俺くらいで、ある日父が外へ連れて出た時には、ムロが迷子になった上に父は一人で帰ってきてしまった。
「ロウ!ムロが迷子だっていうの!探して連れ帰って来て!」
「迷子?父さんは?」
「そこで休憩中!もう!あなただけが頼りよ、お願いねロウ」
横たわる父は狼の姿でゼーハーと荒く息をしている。
俺はムロのニオイを追って森の中へと入って行くと、ニオイは森の奥へと向かっていて、途中で螺旋状に伸びた木へと行きつく。
ムロはその一番上の枝で、プルプルと震えながらク~ンと俺を呼ぶ。
「登ったまま降りれないのか……細い枝だ、俺が乗ったら折れてしまうな」
話すこともできないのに、行動範囲だけは広がって、この時期の人狼が一番手がかかると母は言っていた。俺の時は、人の姿で家の中をウロウロするだけで母は助かっていたと聞く。
「……怖くて自分でも動けないか、俺が乗ると折れるかもだな、なら、自分でこっちに向かってきてもらうしかないか」
俺は狼の姿で螺旋状の木のギリギリ乗れる部分まで登ると、その尻尾をムロに向けてゆっくり左右に振った。震えていたムロは、徐々に恐怖より尻尾へ好奇心が増して、不意に俺の尻尾へ向かい始めた。
「よしこい」
俺は触れるか触れないかの距離を保って螺旋状の木を降りていく。そうして地上まで降りたムロは、俺の尻尾へ飛びつきじゃれ始めた。
「ッ――ムロ、食べ物じゃないぞ」
尻尾に噛みつくムロを人の姿に変わって抱き抱えると、ムロは尻尾を素早く動かして喜びを表すが、それが実に可愛い仕草だった。
「さ、帰ろうムロ」
ムロが生まれてからは、厳しい父の教えも特に辛くはなかった。
ムロが俺と同じように父から教えを受けるようになった時、もう一度はっきりと使命感のように〝守らなければ〟と考えるようになる。
「さぁ、ムロ、やってみろ」
六つになった頃、父にそう言われたムロは、飛んでいる小鳥にオオカミの姿で飛び付こうとする。だが、地面を蹴ったその瞬間明らかに鳥にまで届かないその体は、そのまま地面に着地すると弱音を吐き出す。
「こんなに高いのに、無理だよ父さん」
ムロの言葉に父は小さく笑みを浮かべて、俺を見ながら言う。
「ロウはお前の歳にはこれを毎朝三匹捕まえていたぞ」
俺は、父に実際見せてやれと言われている気がして、オオカミの姿へ変わり助走も無しに家の屋根よりも高くを飛び回る鳥を銜えて見せた。
「ロウ!凄い!」
ムロがそう言うと、俺は少し誇らしげに口から鳥を放してやる。
「ムロ、俺のように捕まえるには少し訓練が必要だ、俺も訓練なしにこんなことはできない」
父の教育の仕方は厳しいものだったが、それがムロには例外で、できなければできなくていい、それが父のムロに対する教育方針だった。
対して、俺には厳しくて常に結果を求めていた。この日もクマ狩りを一人でやれと言われ、俺は単身で森に住む獣のニオイからオスのクマを探し、夕方にはそのクマを背負って帰った。
「さすがはロウだ、初日に発見し倒してくるとは」
「ロウは凄いな~さすがボクの兄さんだ!」
「クマはこの辺の生態系を崩すからな、鹿なんかがいなくなってしまったら困る、だからこうして時々雄を狩るんだ、覚えておけよムロ、いつか一緒に狩りに行くんだ」
「うん!」
父に褒められるよりも、弟であるムロに褒められる方が数倍は嬉しかった。
人狼の成人は雄が十七、雌が二十二、俺が成人する少し前には人間と俺たち人狼は剣悪な関係になっていた。
「そもそも、キリンが人に成りたがって、森から出たことが間違いだと俺は思うんだ」
聖獣の話になると俺はいつもキリンが人に成りたがることが理解できず、キリンに対する嫌悪感を口にしていた。
「いや、そもそも聖獣はどの方々も人に成りたがっているのだ、キリンが六つに自身を割いたのも人に成る方法だったのやも知れぬ」
「だけど、そのせいで森で過ごしていたキリンの眷属はもうすっかり生き残っていないし、結果キリンは人に巫子が宿ってしまうんだとしても、眷属が可哀そうだろ」
俺と父はこの話でまったく意見が合うことはなく、いつも互いに平行線な会話を続ける。それを理解している母も、絶対に会話に混ざろうとしなかった。
「全てはキリンの望むままに、それがメイロウが思うところだろう」
「いや、メイロウはキリンの尻ぬぐいに嫌味の一つでも言いたがっているはずだ。もともとはメイロウの方が先に人へと近づいていたのを、キリンが嫉妬したに違いない」
重い空気にムロはシュンとしている、俺はそれに気付かず父との会話に自身の考察を語り続けた。
「キリンの無茶でキリンの眷属は絶え、メイロウが森を守るために平地を捨てた。アンジャの恨みももしかしたら関係があるかもしれない、キリンのわがままなのは明らかだと思う」
「……ふぅ、だが私はキリンの行動は当然と考える、眷属は絶えるべくして絶えたのだろう」
その理屈は俺は嫌いだった、眷属は聖獣の奴隷じゃない、盟約に基づいて互いに尊重しあうべきだ。
「……父さんがそう思うのは勝手だよ、だけど、現に人はこの森を欲しがってる。盟約なんて無かったかのように、メイロウに森を守るように頼んだのは人の方なのに」
俺がそう言うと父の表情は暗くなる。
「もうやめましょう、早くご飯食べちゃって」
いつものように母が止めに入れば俺は黙り、そうして父との重い空気だけを残し食事も終わりを迎える。
「食事は楽しい方がいいよ、どうして食事中に話しをするなって村のじいちゃんが言ってたのか分かった気がする。食べ物が零れるからじゃない、ご飯が不味くなるからだよ」
ムロはそう言うが、俺にとって食事中の父との会話は、自身と父が対等に会話できる唯一の場であり、母には悪いが食事はついででしかない。
「ま、ムロは気にせず飯を食えばいい、母さんの様に無視してればいいんだ」
「……確かに母さんもそう言ってたけど――」
俺はムロの頭に手を置くと、少し笑みを浮かべて言う。
「別にケンカをしているわけでもないし、父さんだって俺の本音を聞いておきたいって思っている気がするしな、ムロはついてこれないだろうけど、ま、気にしないことだ」
そう言い終わると、俺はムロのまだまだ軽い体を持ち上げて肩車をする。
「そら」
「わ!高いよ兄さん!」
もう何度こうしてムロを抱いたり肩車しただろうか、そして、これから俺は何度こうしてあげられるのだろうか。
その日は俺と父の役目の日で、ムロが初めて一緒にそれに参加する日でもあった。
森の奥に定期的に湧いて現れる魔の物、それを退治するのは長年俺の先祖が担う役目である。
元々は平地でそれを担っていたが、キリンが森を去ったせいで俺の先祖が役目を受けた。そして、俺の先祖が森の魔の物を退治し続けた結果、平地には魔の物が現れなくなり、森の一部へとそれらが湧く地点を発見し、その周期も長年の役目で分かるようになった。
「私たちの一族はメイロウの加護を受けていて、それを持って魔の物を退治できる。集中すれば手に自分の加護が見えるはずだ」
父がそう言うと、ムロは父と同じように自身の手を見つめて集中する。
「……どうかな、できてるのかな」
ムロがそう聞くが、俺の眼にはムロの手には何も見えない。父の手に光る加護と自身の手に光る加護は見えるが、ムロの手にはそれが一切見えない。
「やはり、ムロには加護が無いのかもしれないな」
「父さん、決めつけるにはまだ早いだろ」
だが俺は、初めて父の役目について行く日にはちゃんと加護が出せた、それも父よりも輝く加護をだ。加護はどうやるのか、そう聞かれても説明ができないほど、簡単に出せてしまえた。
「理屈では説明できない以上、今できなければこれから先できる様になる可能性は低いだろう。加護が無い以上役目はムロを危険にさらすだけだ」
父の言葉は俺も納得のいくものだ、だが、ムロの悲しげな表情を見た俺は、もう少しだけ時間をあげて見てもいい、そう父に言ってしまう。
だが、結局ムロは加護を使えないまま、俺と父で役目は行うことになり、悲しい表情のムロを残し森の奥へと足を進める。
魔の物は、見た目は蜘蛛の姿をしていて、数体が群れて出てくる。
影の蜘蛛の状態の奴らは簡単に退治できるが、奴らはある条件で強くなる傾向にある。
「ロウ、鹿の死骸だ――」
奴らは動物を襲い、その顔を奪って鳴き声を出すようになる。そうなると、体が硬くなり爪が鋭くなるため注意が必要になる。
「はぁぁあ!」
蹴り飛ばした魔の物は、鹿の鳴き声を上げながら霧散していく。
「やはりロウはメイロウの加護が強いな、私の加護では鹿頭には何度も苦労させられた」
笑みを浮かべる父が言う通り、鹿を喰らった魔の物に、父が苦戦しているところを何度か見た覚えがある。
「でも、父さんは人の顔の魔の物を退治したことがあるんだろ?俺はまだ会ったことがないけど」
魔の物は、知能の高い動物になると途端にその体の強化が異常に上がる。
「私も死ぬかもと思った、どうにか朝日の入る場所へ誘導し弱らせて退治したが、この頬の傷はその時の物で、加護持ちの治癒力を持ってしても治りきらない傷だ、お前も気をつけろ」
「あぁ分かっているよ」
この時にはもう魔の物との戦いは、俺は死ぬまでの役目であると考えていた。一生をそうして生きることに不満はないが、ただ、人間の顔色を窺って配慮してというのには不満があった
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