第94話 葉月との恋人代行⑫
次の信号で赤信号に引っかかり、少しして葉月の頭から手を離した龍馬。
もっと撫でた方がいいのか? なんて逡巡もないことはなかったが、これが葉月の指示であり代行者として背くわけにはいかなかった。
「……頭を撫でられながらだと運転しづらいのね。初めて知ったわ」
「はははっ、それを早く言ってほしかったですよ」
真顔でそんなことを言いながらハンドルを握っている葉月の姿はユーモアがあるようで面白かった。龍馬は車内に笑声を漏らす。
「斯波くん。ついでだしもうこのまま送って行くわね。私にご自宅を知られたくないのなら、その周辺で降ろすわ」
「いえ、葉月さんは明日お仕事でしょうからそのまま自宅に向かってください。自分は歩きで帰りますから」
葉月から龍馬の家は遠くはあるが、タクシーを使わなくても帰れる距離だ。0時を跨げばもう平日だ。明日から多忙な仕事が始まる葉月に甘えることは出来なかった。
「一つ聞くけれど、斯波くんは私にご自宅を知られることが嫌では無いのよね……?」
「はい、それは違いますよ」
「それなら素直に甘えてちょうだい? 外も寒いでしょうし斯波くんを送っても大して時間はかからないでしょうから」
「それでも、です」
確かに車なら、龍馬を送ることにそう時間はかからないだろう。それでも、龍馬の気持ちはもう決まっていた。
「ファミレスでもそうだったけれど、こうなった時の斯波くんはなかなか折れないわよね」
「な、なんですかその顔は……」
赤信号で止まっているおかげで少しのよそ見が出来る葉月はほくそ笑んでいた。
まるで、この崩し方をもう考えていると表情で伝えるように。その捉え方をする龍馬は決して間違ってはいなかった。
「斯波くんがそこまで私の自宅にまで行きたいのなら、そのままお部屋に連れ込まれても文句言えないわよ」
「えっ!?」
ファミレスのレジ前と同じ。葉月は有利に進めるためにこんな要素を含めたのだ。
「大学生が相手だから言うけれど、このまま私の自宅に来るのなら斯波くんを襲うわよ。抵抗されないようにいろいろ工夫をして……ね?」
「お、襲う!? は、葉月さんちょっと待っ——」
「——私達は特別な関係なのだから、女性から男性を招くと言うのはそう言うことよ。斯波くんがそれでも良いのなら今からコンビニに寄って夜のお帽子を買いに行くけれど」
「そ、そんなからかいはやめてくださいって!」
二十歳でそれなりの知識もある龍馬はそのことをしっかりと理解している。
「あ、あのですね、そもそも葉月さんは未経験じゃないですか。その手には乗りません!」
何度も経験をしているのならこの誘いをしても不思議ではないだろう。しかし葉月は違う。からかい混じりに送らせようとしていることを察した龍馬だったが、これで勢いを削ぐことはできなかった。
「未経験だからこそ体験したい。この捉え方も出来るわよね? 正直、斯波くんもシたくないわけではないのでしょう……?」
「……っ」
一度流れを掴んだ葉月ほど強いものはない。こうした話を恥ずかしがることなくするのだから。
少しでも気が緩んだのなら龍馬は一瞬で呑まれるであろう。
「も、もうなんですかこの流れ……。葉月さんに一つ言いますけど、自分をもっと大事にしてくださいよ」
「ふふっ」
「な、なんですかその笑みは……。葉月さんは知らないでしょうけど、並大抵の男はこんなことを言われたら本気に捉えてしまうもんなんです。ただでさえ葉月さんは美人なんですから気をつけてくれないと——」
「——私は本気よ」
二度目の言葉被せ。途端、葉月の声色が変わる。龍馬の面様を変えるほどに。
「え……?」
「自慢じゃないけれどこの年にもなって一度も経験がないのよ、私って。人との巡り合わせもあるでしょうけど、ナンパとか一晩だけとか、そんな誘ってくるような軽い男は相手していないのよ。……私は私の身体を大切にしているわ」
言い終わった瞬間に信号が赤から青に変わる。エンジンを鳴らして車をスタートさせた葉月は、正面を見ながら言葉を続けた。
「……あのファミレスの店員さんも言っていたわね。『お姉さんはこちらのお兄さんが大好きなんですね』って」
「……えっ」
「あの店員さんは良い感性を持っているわ。少し焦ってしまったくらいだもの」
「…………」
葉月が言葉を並べれば並べるだけ独特な空気が車内を包み込む……。
龍馬はこの空気を高校生の時に体験したことがあった。
それは元カノの、花音から告白される前のような——。
龍馬は口を開くことを忘れ、心臓を強く跳ねさせた。呼吸も忘れて葉月に視線を向けていた。
「さて、斯波くんはどうするの? 私に
「……っ、はぁ」
ここでようやく葉月の狙いに気づく龍馬。これが緊張の鎖が緩んだ瞬間。
「も、もうっ! 告白する前のっていうか、それより先のことをしようって空気を作ってまで自分を折れさせようとします!?」
ムキになる龍馬だが、こればかりは葉月のやり過ぎと言ってもいいだろう。
ベテランキラーの女王、その名に
「ふふっ、冗談に決まっているじゃない。純粋よね斯波くんは。私は依頼者なんだから、そんな素直な告白をしたら気まずくなるでしょう?」
「そ、そうではありますけど!」
「私が想いを伝えるとしたらこっそりよ。……確信に触れさせないように、こっそりと」
これもからかうためなのか、妙に気持ちのこもったように言う葉月は妖艶に微笑む。
「はぁ……。葉月さんらしいですよ全くもう……」
そして、こんなにも弄ばれてしまったと悔しさを露わにする龍馬。手玉に取られないように頑張ってきたわけだが、その最後の最後にやられてしまったのだから。
「それで斯波くんのご自宅はどこら辺かしら?」
「あおのそら保育園って知ってますか? 多分、ここから10分ほど先にあるところだと思うんですけど」
「小さな橋を超えた先にあるところよね?」
「はい。そこで降ろしていただけると助かります。そこからは一直線なので」
「あら? 私の仕事仲間と近いところに住んでいるのね、斯波くんって。……斯波、くんって……」
「そ、そうなんですね?」
「……え、ええ」
ここで一瞬、嫌な予感を働かせる葉月。だがそれは気のせいだと自身で納得させる。
「……じゃあ、そこに向かうわね」
「はい、お願いします」
場所を把握している葉月は、ナビを使うことなくその目的地に車を走らせていく。
先ほどの告白のような流れ。一番緊張していたのは葉月であることに龍馬は気づいていなかった……。
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