第90話 葉月との恋人代行⑧

「もう……大丈夫よ」

「満足していただけました?」

「ん……」

 あれから何分ほど撫で続けただろうか。静まった空間でその声を聞いた龍馬はゆっくりと体勢を起こし、葉月のドライバーズシートから退く。


 龍馬と葉月、お互いに同じくらいの精神ダメージを負っているが分があるのが代行者である龍馬だ。

 葉月は疲れを見せない方に長けた力を持っているだが、その一方、依頼時に何度も平然を装っていたことで、照れを隠すことに長けた力を持っている龍馬。

 この状況での適応が効くのは龍馬であるのだから。


 もう一つ。龍馬がここで素を見せた場合、会話が弾まない気まずさ最大の空気が流れることになる。

 片方は冷静に、何事もなかったかのように風を装っておくのが事が上手く進むのである。ただ、赤くなった顔だけは時間に任せるしかない。


「ではすみません、車のダイアル回しますね」

 そして言葉通りに、車内に音楽をONにさせた龍馬はスニーカーを履き、助手席の背もたれに腰をつける。


「……」

「……」

 龍馬が車に音楽を流したタイミングは完璧だった。撫での事後、この静寂の支配を逃れることが出来たのだから。


 そこから一分に近い時間が経った。


「斯波くん……。あなた、それはダメよ……」

 背もたれを起こすことなく、横になった状態のまま腕で顔を隠し続けている葉月は、震えたような声を出す。


「今の顔、誰にも見せられないじゃない……」

「なんかそう言われると意地でも見たくなってきますよ、自分は」

「そ、そんな強引なことしたら訴えるから。このお仕事辞めさせてあげるんだから……」

 顔を背けたままは続いている。それでも本気のトーンで話す葉月。泣き顔を見られたくないのと同様に、赤くなった顔は見られたくはないのだろう。

 

「それは勘弁してください。……葉月さんの慰め役は他の人には取られたくありませんから」

「そ、そんなこと言って斯波くんは他の依頼者さんに今みたいなことしてるくせに……」


 葉月が少し嫉妬を含ませたような、拗ねた声色だったことを龍馬は気づかない。会話を続けさせるために普段通りを作っている。余裕が生まれることはないのだ。


「いえ、葉月さんが本当に初めてですよ」

 龍馬は嘘は言っていない。確かに姫乃にベッドドンをしてしまったが、そこから頭を撫でた、、、、、ことはない。

 屁理屈のようではあるが、誰にでもこんなことをしているだなんて印象を与える方が良くは映らない。


「嘘よ……。初めての人がこんなこと出来るはずないもの……」

「なら、今の自分の顔……見てみます? なんか顔が熱くて仕方がなくって……」

「嫌よ……。そ、そうしたら私の顔も見られるじゃない……」

「ははっ、そうですね」

「馬鹿……。油断も隙もないんだから」


 葉月に罵られる龍馬だが嫌な気持ちには全くならない。あくまで照れを隠したような感じである。


「……葉月さん、これからどうしますか? まだ時間は余っていますけど」

 時刻は22時31分龍馬が代行をできる時間は24時まで。

 あと1時間と半分くらいは残っていることになる。


「斯波くんは……まだ私とお出かけしたい?」

「それはもちろんです。葉月さんと一緒にいられるのは楽しいですから」

「……っ」

 お金を稼ぐためにも、龍馬はできるだけ長い時間の代行を望んでいる。

 その気持ちがありつつも、葉月と一緒にいるのは楽しいのだ。できることなら、最後まで過ごしたいという思いが根付いていた。


「そ、そんなこと言わないでちょうだい……。な、治るものも治らなくなるのよ……」

「それはすみません。でも、事実なので撤回はしないですから。葉月さんが良ければ24時の最後まで一緒にいられたらって思います」

「んっ、ならファミレスにでも行きましょう……。体を動かして斯波くんも小腹が空いていると思うから」

「そうですね、ありがとうございます」


 代行者が依頼者に延長を要求、強要することは暗黙の了解とされている。代行会社に情報が伝わった場合は厳重注意をされる。全てを決めるのはあくまで依頼者側にあるということだ。


「斯波くん。ファミレスに行く前に、私……もう少し私このままで居て良いかしら。あと少し時間が経てば顔向けできるようになるから」

「はい、全然大丈夫ですよ。ならこの間に自分は飲み物買ってきますね。バッティングで体を動かしたおかげで喉が渇いて……」


 代行前に買った飲み物はもう空だ。ファミレスでドリンクは飲めるが、今買っておいても損することはない。そして、心を落ち着かせるために外の冷たい空気に触れたかった。


 こうして何不自由なく会話している二人だが、今漂っている空気はどことなく甘くもあり、重くもある。


「葉月さんは何がいいですか?」

「冷たいお茶をお願いするわ……。あとでお金は返すわね」

「いえ、気にしないでください。では行ってきますね」


 龍馬は片手に財布を持って外に出た。この時に思うことがあった。

 あんなことを言ったが——葉月の顔を見らずで助かったと。


 きっと、見惚れてしまうだろうから。

 それだけで装った自分が簡単に壊され、会話が止まっていただろうから……。



 ****



「……この気持ちは気のせいよ。ただ、嬉しいからこうなってるだけ……」

 一人になった車内。胸に手を当てながらボソッとした声を漏らす葉月。それでも、内心では分かっていた……。

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