さらば悩ましき声

冷門 風之助 

TAKE1

 その女が俺の事務所、つまり『乾宗十郎いぬい・そうじゅうろう探偵事務所』に現れたのは、秋も深まった月曜の事だった。

 年の頃30代半ば、パープルのプルオーバーに淡いグリーンのフレアスカート、セミロングの髪には軽くウエーブがかかっており、ピンクの縁の眼鏡をかけたスリムな体系の女性である。



 どこかで見た顔だな、とも思ったが、思い出せない。

『千草しおり、といいます』

 彼女が自分からそう名乗り、やっと俺も思い出した。

 何でも、今所属している事務所の顧問弁護士から紹介を受けたのだという。


 自分の名前を名乗った後、彼女は傍らに置いたバッグから、スピーカー内蔵のCDプレーヤーを取り出し、一枚のディスクをセットすると『ON』のスイッチを押した。


 狭い俺の事務所オフィスに流れ出したのは、男女のあられもないシーンを一瞬で想像させる『声』である。


 それは一種のドラマ仕立てになっていて、一人のOLが中年の作家と知り合い、濃厚な愛欲の日々を繰り返す・・・・という、まあ、ベタ中のベタなポルノだ。


 内容とか、ストーリーの面白さなどはそっちのけ、ひたすらどぎついばかりの官能表現と、あえぎ声がこれでもかという具合に続く。


『この声・・・・・分かりますよね?』


 彼女はそこでスイッチを切り、俺の顔を覗き込むように見た。


『あなたの声でしょう?』


 俺が答えると、彼女は顔を真っ赤に火照らせてうつむき、小さくうなずいた。


 彼女・・・・千草しおりは、最近多く発売されているアニメや声優関係の雑誌を開けば、名前も顔も必ず見かける有名人だ。


 現在幾つかの人気アニメで主人公を支える『優しくて清純なお姉さん』的なキャラクターや、或いは洋画の吹替えなどでも重要な脇役の声を担当し、歌唱力まで見込まれてCDを出したり、ラジオの DJもやっている。

 

 今やその名は、アニメファンなら知らないものはいないくらいだ。


 彼女曰く、今から15年ほど前、声優の養成所を卒業して、苦労した末にようやくデビューした。


 しかし芸能界というのは、何処どこでもそうであるように、デビュー出来たからと言って誰もがその道だけで順調にメシが食えるようになれるほど甘いものではない。


 まして、ちょうどその時代は『第〇次声優ブーム』とかいって、とにかく新人が大量に世の中に出た。


 そうなれば勢い、実力のないものは淘汰させる、そんな時代だった。


 だから、彼女も生き残るために何でもやらねばならない。


 くだんのCD音源も『苦闘時代の所産』という訳だ。


 そうした積み重ねが実ったのか、あるアニメの脇役出演をきっかけにブレイクし、現在の地位を掴むことが出来た。


 今ではもうすっかり過去の仕事について忘れてしまっていた。いや、忘れようとしたというのが正解だろう。


 事務所も幾つか変わり、CDを発売していた会社も倒産してしまったため、もうすっかり音源も失われた。

 彼女もそう解釈していたのであるが、そんなある日、彼女の元にこのCDが、レターパックで送られてきた。


 中には手紙が入っており、そこには冒頭に、

(KAREN様へ)とあり、

(自分はある筋から、貴方の過去のこうした音源を幾つか持っている。これが世の中に出れば、貴方にとってもまずいことになるのではないか。無理な注文をするつもりはないが、出来るだけ考えて欲しい)


と、思わせぶりな文章が並んでいる。


『要はこの人物が貴方を強請ゆすっている。貴方としてはこの手紙の主と交渉して、音源を取り戻して欲しい。そういう訳ですか?』


 彼女は再び無言のまま小さくうなずいた。



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