第75話 過去の出会いと再会の約束

 何も言えずにいるうちにどんどん出立の準備は進んで、遂にシエルが家を出る日を明日に控えてしまった。

 顔自体は毎日合わせていたのだけど、どうしても言いたい言葉が出てこない。シエルの顔を見た途端、言おうとした事が喉に引っかかって詰まってしまう。

 ……これじゃいけないのに。どうしても私の口から、シエルに言わないといけないのに。

 シエルがこの言葉を一番求めてるって事も、全部全部解ってるのに――。


「……よし」


 このままウジウジと、ただ悩んでたって仕方無い。伝えるチャンスは、今日を逃したらいつ来るか解らないのだ。

 今日こそは。シエルに私の想いを、ちゃんと伝える――!


「お姉様? いらっしゃいますか?」

「ひゃい!?」


 意気込んだ直後、ノックの音と共にシエルの声が響いて、私は思わず妙な声を上げてしまう。い、いけないいけない。深呼吸、深呼吸……。


「ど、どうぞ!」


 落ち着いたところで返事をすると、すぐにドアが開いて、シエルが入ってきた。その顔はいつもよりも、真剣なものに見える。


「……カタリナ」


 ドアを閉じてすぐ、シエルが私の名を呼ぶ。私はその真面目な声色に、思わず唾を飲んだ。


「な、何? シエル」

「……」


 声を震わせる私に、シエルは無言で近づいてくる。その足は私の目の前で、ピタリと止まった。


「……カタリナ」

「……」


 よく見ると、シエルは後ろ手に何かを持っているようだった。一体何だろうと思っていると、シエルが持っていた何かを突然私に差し出した。


「……これ……?」


 それは、随分と古びたクマのぬいぐるみだった。すっかり色あせているけど手入れはされているのか、毛並みは割と綺麗だし綻んだ箇所もない。

 けど、それ以上に。私はそのぬいぐるみに、どこか見覚えがあった。


「君にもう一つ、黙ってたことがある」


 ぬいぐるみに目を奪われる私に、シエルが口を開いた。


「僕と君は、本当は昔一度だけ会った事があるんだ。このぬいぐるみは、その時君がくれたもの」


 思い出す。子供の頃、お父様に連れられたパーティーで泣いている男の子と会った事。その男の子に、お気に入りのぬいぐるみをあげた事。

 目の前のぬいぐるみは、あのぬいぐるみにとてもよく似ていた。


「君の言葉が、僕に勇気をくれた。男が可愛いものが好きでもいいんだって、堂々とそう言っていいんだってそう教えてくれた。だから僕は、可愛い自分になる事を選んだんだ」


 ……そう、だったんだ。シエルがこういう風になったのは、私がきっかけだったんだ。

 そんなに前から、私がシエルの人生に影響を与えていたなんて……。


「君の事を忘れた事なんて、一度もなかった。君の言葉だけが、僕の支えだった。……だから、そんな君と一緒に暮らせると知って、とてもとても嬉しかった」

「シエル……」

「けど君は、僕の事なんてちっとも覚えてなくて。こっちは名前も告げてなかったんだから、そんなの当たり前なのに。その事が寂しくて、君とは距離を取ろうと最初は思ってたんだけど」


 言って、シエルはぬいぐるみを抱き込む。その顔には、とても穏やかな笑みが浮かんでいた。


「君は少しも変わってなかった。僕が男と知っても、それを受け入れようとしてくれた。その時、ハッキリ思ったんだ。……君の事が好きだって」


 その言葉に、私の胸が大きく高鳴る。顔がみるみる熱くなって、シエルから見れば、きっと真っ赤に見えている事だろう。


「ねえ、僕は、必ず君の元へ戻ってくるよ」


 私の目を真っ直ぐ見つめ、シエルが言った。


「必ず男に戻って、君の元へ戻って、改めてプロポーズする。君を愛する、一人の男として」

「……」

「その時、君の返事を聞かせて。君にとって、僕が今、どんな存在なのかを」


 力強く――女の子の姿なのに、頼もしい男の子の顔で笑うシエルに、私も笑顔を返す。本当は、今物凄く、言いたくて言いたくてたまらなくなってるけど――。


「解った。私、待ってる。だから必ず帰ってきて、聞いてね。私の答えを――」

「うん。約束だ」


 シエルが、そっと私の手を取る。そしていつものように、掌にキスをした。

 前世の記憶が教えてくれる。掌へのキスの意味。それは――『憧憬』。

 必ず戻ってきてね、シエル。私、貴方の想いを、憧憬で終わらせたりしない。

 次に会ったら、その時こそ、私――。


 そうしてシエルは、翌日、この家を発っていったのだった。

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