第8話 婚約者様のご登場

「ハァ……疲れた……」


 自室に戻った私は、着替えもせずにベッドに全身を投げ出す。ちょっとはしたないけれど、それを気にする気力もない。

 本当に、精神的にハードな一日だった。シエルは何故かうちのクラスに編入してくるし、ジェフリーの馬鹿はシエルに迫るし……。

 特にジェフリーに関しては前世の記憶の幻滅具合が凄いわね。そりゃそうよ。都合のいい部分しか見てないのと都合の悪い部分も全部見るのとじゃ、人間の印象なんてまるで変わってくるもの。

 ああ……もう今日は夕食とかいらないから、このまま泥のように眠ってしまいたい……。


「……お嬢様。カタリナお嬢様」


 そんな私の望みは、不意に聞こえたノックの音で呆気なく潰えた。私はのろのろと身を起こし、部屋の外に声をかける。


「どうしたの?」

「リオン殿下がお見えになりました」

「は!?」


 完全に予想外の返事に、思わず私の口から令嬢らしからぬ声が出る。……前世の記憶の影響かしら、最近言葉遣いが荒れてきてる気がする……。

 とにかく、リオンがここに来たってどういう事なの!? リオンがこの公爵家を訪れる事なんて、滅多にないのに……!


「……解ったわ。支度を整え次第顔を見せると伝えて頂戴」

「かしこまりました」


 扉の向こうで、足音が遠ざかっていく。とにかくこうしてはいられない。仮にも次期国王の婚約者として、恥ずかしくないようにしなくちゃ……!

 私は急いで制服から上品な青のドレスに着替え、乱れた髪を整え直すと、急いで部屋を出て一階の客間へ向かった。急ぐ、といってもドタドタと走り回る訳にはいかないので、上品に見えるような早歩きだ。

 客間の前で一旦立ち止まり、深呼吸をして息を整える。それが終わったらよし、と覚悟を決めて、私は部屋の扉をノックした。


「お待たせしたわ、リオン」

「カタリナですか。入って下さい」


 本来自分が客の立場だというのに当たり前のように部屋の主のような言葉を投げかけるのは、彼の方が身分が上なのだから仕方無い。私は努めて平静を装いながら、静かに扉を開けた。


「ご機嫌よう、カタリナ」


 部屋に入った私を、長椅子に座っていた超美形が立ち上がって迎える。肩より少し長い銀髪を藍色のリボンで一つに纏め、紫水晶アメジスト色をした優しげな瞳で私を見つめる彼こそ私の婚約者、この国の第一王子であり次期国王であるリオン・エルク・アストライア。

 ……ジェフリーと双子なのに、何で髪の色も瞳の色も一致してないのかと聞いてはいけない。二次元って、その辺りの色設定ガバガバな作品が結構多いじゃない?

 彼と私は婚約関係にあり、将来は王妃として彼の妻になる。……なんて思っていたのも、前世の記憶が蘇るまでの話だったけど。

 と言うのも、シエルが誰とのルートを辿っても、私は必ずリオンに婚約破棄される事になっているのだ。つまり、彼と結ばれる日は絶対に来ない。

 まぁ、元々、彼には「親の決めた婚約者」以上の感情はなかったからいいんだけど。ゲームの中でも、私とリオンの絡みなんて皆無だったし。


「ご機嫌よう、リオン。急な事で驚いてしまったわ」

「すみません。どうしても急ぎ、確認したい事があったものですから」


 とりあえず笑みを作った私に、リオンが眉を下げて答える。……ああ、解った。何でリオンがうちに来たのか。


「確認したい事とは?」

「……あなたの家の使用人に、ジェフリーが手を出そうとしたというのは本当ですか?」


 ほら、やっぱり。婚約者本人でなくても、その家の人間に身内が手を出したと知れればそうなるわよね。


「何故その事を?」

「やはりですか。……ジェフリーが空き教室に少女を連れ込み、そこに貴女が乗り込む姿を、私の使用人が見ていたのです」


 ああ……あの時は周りをよく見てなかったけど、いたのね。リオンとジェフリー付きの使用人は流石に王族だけあって何人もいるから、全員の顔までは把握してないのよね……。


「ジェフリーが本当に申し訳ない事をしました、カタリナ。まさか貴女の使用人に手を出すなど……」


 深々と、頭を下げるリオン。私はそれに、冷静に言い返した。


「顔を上げて頂戴、リオン。弟の不始末を貴方のせいにするつもりはないわ。ジェフリーもしっかりとこらしめておいたし、この件はこれで終わりにしましょう」

「……解りました。やはり貴方は聡明な女性だ」

「ありがとう。本気にしないでおくわ」


 我ながら、淡々としたやり取り。まぁ、お互いに恋愛感情のない許嫁同士なんてこんなものよね。

 だからこそ彼は、どのルートでもシエルを気にかけるようになるんだけど。もしかしたら一目惚れという奴なのかも。


「リオン殿下、お嬢様、紅茶をお持ちしました」


 そんな事を考えていると、不意に部屋にノックの音が響いた。あれ、この声……。


「ありがとう、入って下さい」

「失礼します」


 リオンが許可を出すと、鈴の鳴るような可憐な声と共に扉が開く。そこに立っていたのは……。


「!?」


 喉まで出かけた変な声を、寸前で抑える。そこにいたのは、メイド服に身を包んだシエルだった。

 目が合うと、シエルはニッコリと天使の笑みを浮かべる。この子……私を驚かせるつもりで、わざと何も言わなかったのね!?


「……」


 ふとリオンを見ると、その視線はシエルに釘付けになっていた。完全に心ここに在らずといった感じで、私がここにいる事を覚えているかも怪しい。

 ああ……これは完全に落ちたわね。シエルは本当に可愛いから、無理もないけど。

 シエルはと言えば、そんなリオンの様子には気付いていない素振りで黙々と紅茶を用意している。そして紅茶を注ぎ終わると、「それでは、ごゆっくり」と言い残してさっさと部屋を出てしまった。


「……天使だ……」


 そんなリオンの呟きだけが、静まり返った部屋に残った。

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