CHAPTER 15:アンヴェイルド

 カナンの運転するトラクターは、スクラップヤードの一角でふいに停止した。

 ヘッドライトの青白い光条が前方を照らし、闇のなかに張り巡らされた鉄条網を浮かび上がらせる。

 ”魔女の婆さんバーバ・ヤガ”の庭に到着したのだ。

 

「リズ姉ちゃんはここで待っててよ。いま婆さんを呼んでくる――」


 助手席のリーズマリアにそう告げたが早いか、カナンはすばやく運転席から飛び降りる。

 そのまま鉄条網の近くまで足早に駆けていくと、

 

「婆さん、ケイトのとこのカナンだ。門を開けてくれよ!!」


 喉も枯れよとばかりに、あらんかぎりの大音声を張り上げたのだった。


 返事はない。

 カナンもそれきり口を閉ざしたまま、じっと沈黙に耐えている。

 そのまま数分が経過し、あたりにふたたび静寂が戻ったころ、どこかで機械の作動音が生じた。

 大地を震わせて細長い箱が地中からせり上がってきたのは次の瞬間だった。

 全高およそ十メートルほどのそれは、戦時中に建設された地下格納式の対空砲台だ。

 八百年の歳月を経た外観はすっかり錆びついているが、その複雑怪奇なメカニズムはいまなお朽ちることなく、巨大な兵器システムを稼働させているのだった。


「おやおや、が夜遊びとは感心しないね――」


 砲台の最上部から降ってきた嗄れ声に、カナンはほとんど無意識に顔を上げていた。

 視線の先には、灰色のローブをまとった老婆――” 魔女の婆さんバーバ・ヤガ”が佇んでいる。


「誰がお嬢ちゃんだよ。婆さん、コンピュータのスクラップをすこし分けてほしいんだ」

「ふふん……なるほど、ケイトに使いっぱしりをやらされてるってわけかい?」

「そんなとこさ。納得したなら、さっさと門を開けてくれないか。急ぎの用事なんだ」


 バーバ・ヤガはなにも言わず、ただ指をわずかに動かしただけだ。

 有刺鉄線に切れ目が生じ、トラクターが通れるほどの隙間が開いたのは、それから数秒と経たないうちだった。


「ありがとう。礼はあとでお師匠が持ってくるよ」


 カナンは運転席に戻ると、有刺鉄線の切れ目にむかってトラクターを前進させる。

 そのまま対空砲台の傍らを通りすぎようとしたとき、


「お待ち――」


 バーバ・ヤガのするどい声が頭上から降り注いだ。

 先ほどまでとは打って変わって剣呑な声色に、カナンはおもわずブレーキを強く踏み込む。


「な、なんだよ?」

「そのままじっとしておいで。いいかい、すこしでも動いたらただじゃおかないよ」


 バーバ・ヤガの声には、有無を言わさぬ迫力が宿っている。

 灰色のローブが闇に翻ったのは次の瞬間だった。

 吸血鬼と人間のあいだに生まれた混血児――ダンピールは、純血の吸血鬼には及ばないものの、人間をはるかに凌駕する寿命と身体能力をもつ。

 人間ならまず複雑骨折は免れないだろう高さも、ダンピールにとってはちょっとした段差と変わらない。

 着地と同時に地を蹴ったバーバ・ヤガは、そのまま数メートルも宙を舞い、トラクターのボンネットに飛び乗っていた。


 赤く濁った瞳に見据えられ、カナンはたまらずにうわずった悲鳴を上げる。


「婆さん、勘弁してくれよ!! お礼を後回しにしたのが気に障ったなら謝るからさ!!」

「安心おし。べつにあんたを取って食うつもりはないわえ」


 言って、バーバ・ヤガは助手席に視線をむける。

 突然のことに顔を強張らせたリーズマリアをじっと見つめたまま、バーバ・ヤガはまるで石像と化したみたいに動きを止めた。


「おお、そのお姿……やはり……」


 長い沈黙のあと、ダンピールの妖婆は、ひからびた唇を震わせながら呟いた。


「あなたは……いえ、は――」


 言い終わらぬうちに、バーバ・ヤガの姿はボンネットから消えていた。

 転瞬、カナンとリーズマリアの目交まなかいに飛び込んできたのは、ヘッドライトの光を浴びてうずくまる灰色の人影だった。

 顔そのものを大地に埋めるように平伏したバーバ・ヤガは、そのままの姿勢で語りはじめた。


「輝くような白銀の御髪おぐし、そして世にも麗しき御尊容……よもや見紛うはずもございませぬ。まっことお美しくなられましたのう」

「――――」

「憶えておられないのも無理はございませぬ。最後にお目にかかったとき、あなたさまはルクヴァース侯爵夫人の手に抱かれてすこやかにお眠りになっておられました。あれはそう、いまからもう百年ちかくまえのこと……」


 バーバ・ヤガはすすり泣くように、ときおり声を詰まらせながら、訥々と言葉を継いでいく。


「このような身の上に落ちぶれるまえ、私はにお仕えする婢女はしためのひとりでございました。同胞からも人間からも忌み嫌われる私どもダンピールに、あの御方は畏れ多くも側仕えをお許しくださったのです……」


 バーバ・ヤガはほんのわずかに顔を上げると、心底から恐懼しきった様子でリーズマリアを見上げる。


「ああ……本当にによく似ていらっしゃいます」

「ちがいます――」

「なぜ否定なさるのです!? あなた様の身体に流れている血は、まちがいなく……」


 バーバ・ヤガの言葉を遮るように、カナンが運転席から立ち上がった。


「二人とも、さっきからなんの話をしてるんだよ!! あの御方がどうとか、オレにはさっぱり分かんないよ」

「おまえは黙っておれ。人間には関係のない話じゃ」

「寝ぼけてんなよ、魔女の婆さん。リズ姉ちゃんだって人間だぜ」


 カナンが言い放ったのと、バーバ・ヤガが立ち上がったのは同時だった。

 濁った血色の瞳ははげしい怒りに燃え、おおきく裂けた唇からは黄ばんだ犬歯が覗く。

 ヘッドライトの光に浮かび上がったその姿は、まさしく異形異類の化生けしょうにほかならなかった。


「だまらぬか、無礼者――そこにおわすは至尊種ハイ・リネージュのなかで最も尊貴な血を引くただひとりの御方。断じて人間などではないわッ!!」


 トラクターにむかってじりじりと歩を進めながら、半人半鬼の妖婆はなおも叫ぶ。


「姉ちゃん、嘘だよな……?」


 怯えきった様子で問うたカナンに、リーズマリアはゆるゆるとかぶりを横に振った。


「いままで黙っていてごめんなさい――」


 白くほそい指がサングラスのにかかる。

 濃い色のレンズの下から現れたのは、大粒の柘榴石ガーネットをはめ込んだような紅い瞳だ。

 深く澄みきった双眸は、闇夜にあってなお爛々と妖しいきらめきを湛えている。

 人間の血が混じったダンピールとは別格の、美しくも恐ろしい佇まい――。

 正真正銘の吸血鬼の証であった。


「いやだ……うそだと言ってよ……」


 必死に訴えかけるカナンの視線から逃れるように、リーズマリアは紅い瞳を伏せる。


「悪い冗談だったら、どんなによかったかしれません。……私は吸血鬼。人間の生き血を啜り、太陽の下では生きられないおぞましい怪物です」


 それだけ言って、リーズマリアは助手席を離れた。

 ヘッドライトのまばゆい光芒を浴びながら、あくまで優雅な足取りでバーバ・ヤガに近づいていく。


「私はリーズマリア・シメイズ・ルクヴァース。十三選帝侯クーアフュルストルクヴァース家当主にして、至尊種ハイ・リネージュの次期皇帝……」

「愚老が為したる非礼の数々、なにとぞご宥恕のほどを――」

「あなたを咎めるつもりはありません。おもてを上げなさい」


 リーズマリアに言われるがまま、バーバ・ヤガはおそるおそる顔を上げる。

 

「このような場所でおもいがけず拝顔の栄に浴し、冥加に尽きる思い……」

「それほど私はに似ていますか」

「ええ、ええ、まるで亡き皇帝陛下がよみがえられたようにございます」


 感極まったように掌を合わせたバーバ・ヤガは、ついに気づくことはなかった。

 リーズマリアの秀麗な面上に怒りと憎悪が入り混じった複雑な感情が兆し、すぐに霧散したことを。


 ふいに闇の奥にあらたな気配が生じたのはそのときだった。


「やはりルクヴァース侯爵、いや、殿であらせられたか。帝都に向かうならかならずこのバスラルに立ち寄ると見て、しばらく網を張っていた甲斐があったというものだ――」


 闇の奥から投げかけられたのは、ひどく錆びた男の声だ。

 リーズマリアはほとんど反射的に声のしたほうに視線を向けていた。


「婆、ご苦労だった。先帝陛下と姫殿下の御尊顔をどちらも直接拝した者は選帝侯にもおらぬのでな。かつて先帝陛下に近侍していたおまえがそう言うなら、まぎれもなく本人とみて相違はあるまい……」


 ひとりごちるように語りながら、全身に濃厚な闇をまとわりつかせた人影は、悠揚迫らぬ足取りでリーズマリアのほうへと近づいていく。


「――ここからさきは私の役目だ」


 影の右手が動いた次の刹那、ヘッドライトの光があらぬ方向を向いた。

 同時に鳴り渡ったのは、ぎりぎりと金属がきしる不快な音だ。

 トラクターの表面に銀色の細い線が縦横無尽に走ったかとおもうと、無骨な車体は、まるで積み木を崩すみたいにひとりでに瓦解していく。

 砕けたボンネットとフロントガラスの破片がきらきらと舞い散るなか、リーズマリアの意識は、底知れない昏い淵へと落ち込んでいった。

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