CHAPTER 12:アフター・カーニバル
無造作に吊り下げられた裸電球が古ぼけた店を照らしていた。
時刻はとうに夜半を回っているが、闘技場がはねるのはまだすこし先だ。
店内には何人かの酔客がいるだけで、カウンターにもテーブルにも空席が目立つ。
鉄板を差し渡した無骨なバーカウンターの向こうでは、伸び放題に伸びきった白髪と白髯にすっかり顔面を覆い尽くされた老店主が黙々とグラスを磨いている。その隣でこっくりこっくりと船を漕いでいるのは、店主の孫らしい十歳かそこらの少女であった。
きいん、と、ガラス同士を打ち合わせる音が店内に響いた。
「おふたりの初陣と初勝利を祝して、乾杯――」
言って、プリケルマ男爵はグラスに充たされた透明な液体をぐっと飲み干す。
一見するとウォッカやラムのようにみえるそれは、むろん本物の
燃料や塗料の
伝統的なワインやビールの製法が失われて久しいこの時代、
どれほど蒸留を重ねたとしても、もともと含有されているメタノールやベンゼン、イソプロパノール、アセトンといった有害物質を完全に取り去ることはできない。長年飲用をつづければ全身の神経と臓器が不可逆的に侵され、やがては死に至るという危険な品であった。
もっとも、それも人間であればの話だ。
強力な解毒・代謝能力をもつ
空になったグラスをテーブルに置いて、プリケルマ男爵はふうと酒臭い息を吐き出す。
「いやあ、勝利の美酒はしみますなあ。どうです? みなさんも一杯――」
「遠慮しとく。アタシたちは男爵ほど丈夫じゃないんでね」
すげなく言って、ケイトは自分のグラスに口をつける。
中身は酒ではなく、ノンアルコールの合成飲料だ。あざやかな蛍光イエローの色合いと、ぶくぶくと弾ける不気味な泡という見た目こそ禍々しいが、もともとは人類軍の兵士向けに開発された
アゼトとレーカのグラスに注がれているのもおなじものである。
「あいかわらずつれませんねえ、ミス・ケイト。せっかくの祝勝会なんですから、今日はパッと行きましょうよ。おふたりも食べたいものがあったら遠慮せずどんどん頼んでくださいねえ」
およそ吸血鬼らしからぬ砕けきった口調で言って、プリケルマ男爵はカウンターにむかって合成スピリッツのおかわりをオーダーする。
レーカはグラスに軽く口をつけると、おもわず眉をしかめる。頭をかなづちで殴られたような強烈な甘みと、口中に後を引く独特のえぐみは、味よりも兵士のカロリー補給という目的を優先した結果だ。その味のひどさたるや、最終戦争から八百年あまりが経過した現在でも、当時の在庫品が大量に存在しているというありさまだった。
アゼトはそんなレーカの様子を横目に見つつ、男爵に問いかける。
「男爵、ひとつ訊きたいことがある」
「はいはい。私に答えられることでしたらなんでもどうぞ」
「
アゼトがその名前を口にしたとたん、男爵の面上を剣呑な相がよぎった。
それもつかのま、男爵はあいも変わらず能天気な語調でアゼトに問いを返す。
「レディ・Mですか。私もそれほど詳しく知っているわけではありませんが、それでもかまわなければお答えしましょう」
「分かることだけでいい。……あの女は
「さあ? ――なにしろ、チャンピオンの素顔を見たことがある者はいませんからねえ。ああそれと、べつに吸血鬼とおっしゃってかまいませんよ。
プリケルマ男爵は飄々と言って、いましがたテーブルに置かれたばかりのグラスに手を伸ばす。
「彼女がはじめて闘技場に現れたのは、いまから五十年以上もまえのことだと聞いています。私も当時のことはよく存じないのですが、なんでも以前のチャンピオンは吸血鬼だったそうで……」
「ちょっと待て。それなら、チャンピオンも――――」
「さてさて、吸血鬼を倒せるのが吸血鬼だけとはかぎりませんよ。世の中には吸血鬼狩りを生業にしている人間もいるという話ですからねえ。私もあなたたちとウォーローダーで戦えば、たぶん手も足も出ずに殺されてしまうでしょう」
まるで他人事みたいに言いのけて、プリケルマ男爵はグラスを一気に飲み干す。
人間なら急性中毒で昏倒してもおかしくないペースだ。
「とにかく、彼女の素性について知っている者はだれもいないのですよ。いったいどこから来たのか? なぜあれほど強いのか? 愛機であるツィーゲ・ゼクスともども、すべては謎のヴェールに包まれているのです。分かっていることといえば、この五十年のあいだ無敗ということだけ……」
じっとプリケルマ男爵の言葉に耳を傾けていたアゼトは、わずかな沈黙のあと、ひとりごちるみたいに呟いた。
「教えてくれ、男爵。チャンピオンと戦うには、あと何勝すればいい?」
だしぬけな問いに驚くでも呆れるでもなく、プリケルマ男爵は興味深げにアゼトの顔をのぞき込む。
「ふつうの試合で何勝してもチャンピオンと戦うことはできません。どんな大物マッチメイカーが後ろについていようと、自分からチャンピオンとの対戦を申し込むことは不可能なのです。ただし……」
「ただし、なんだ?」
「彼女が実力を認めた闘士には、特別に挑戦権が与えられます。もちろん、権利を放棄することも、挑戦を先延ばしにすることも自由です。なにしろ、いまのところチャンピオンと戦って生き残った闘士はひとりもいませんからねえ。いくらチャンピオンであっても、対戦相手に死ぬと分かっている戦いを強要することは出来ないのでしょう」
プリケルマ男爵は薄笑いを浮かべながら、グラスの濡れた縁を指先でなぞる。
「そうそう……風のうわさによれば、今日あなたたちが戦ったバラッシュとワラギィは、ずいぶんまえに自分から挑戦権を放棄したそうですよ。それもまた闘技場での生存戦略というものかもしれませんねえ」
アゼトはしばらく考え込んだあと、プリケルマ男爵を見つめて言った。
「つまり、チャンピオンと戦うには、むこうから声をかけてくるまで勝ち続けるしかないということか?」
「そういうことです。マッチメイカーとしては、できるだけ先延ばしにしてくれたほうが助かりますけどねえ」
プリケルマ男爵はからからと笑うと、アゼトがなにかを言うまえに言葉を継いでいく。
「さて、質問に答えたところで私からもひとつ訊きたいことがあります。なぜそんなにもチャンピオンと戦いたいのですか?」
「報酬のためだ。チャンピオンに勝てば、莫大な賞金が手に入ると聞いた」
「ま、それはそのとおりですが――」
言いざま、プリケルマ男爵はちらりとケイトに視線を向ける。
懸賞金の件をアゼトに吹き込んだのは彼女であることを即座に見抜いたのだ。
ばつが悪そうにグラスに唇をつけたケイトを横目に見つつ、男爵はなおも続ける。
「くわしい金額は胴元に問い合わせなければわかりませんが――――私の記憶が正しければ、チャンピオンに勝った場合の報酬は百億
「勝てばそれが手に入るんだな?」
「いかにもいかにも。まさしく一攫千金の夢というわけです。むろん、勝てればの話ですがね」
プリケルマ男爵はいかにも含みのあるふうに言って、空になったグラスをテーブルに置く。
「残念ですが、彼女には勝てませんよ」
「なぜそう言いきれる?」
「これでもいちおうマッチメイカーの端くれですからね。たしかにあなたたちの腕前は相当なものですが、チャンピオンと戦えばまちがいなく殺されます」
「……」
「金がほしいのなら、リスクを冒して一攫千金をねらうよりも、地道に試合をこなして稼ぐことをおすすめしますよ。そのほうがずっと安全で確実ですからね」
アゼトはレーカに目配せをすると、慎重に言葉を選びながら、訥々と語りはじめた。
「……俺たちには、あまり時間がない」
「ほう?」
「いつまでもこの街に長居をするつもりはない。手っ取り早く稼げるなら、それに越したことはないと思っている」
「ふむふむ、ようするに
「なるべく金を稼げる試合を組んでもらいたい。俺たちへの気遣いはいらない。地道に試合をこなせというなら、毎日だって出場するつもりだ。相手がどんな強豪だろうとかまいはしない……」
アゼトはそれだけ言うと、レーカとともに席を立っていた。
「俺たちからの要求はそれだけだ。もし聞き入れてもらえないなら、べつのマッチメイカーを探すまでだ」
店の入り口に足を向けた二人にむかって、プリケルマ男爵はわざとらしく肩をすくめてみせる。
「分かりましたよ。次の試合は明日の夜です。くわしいことは追って連絡しますから、あなたたちはそれまでにしっかり身体を休めておいてください。人間は私たちほど頑丈に出来てはいませんからねえ」
アゼトは背を向けたまま「たのんだぞ」とだけ短く言うと、レーカとともにさっさと店を後にしていた。
***
「……アゼト、無理をしているんじゃないか」
アゼトの隣を歩きながら、レーカはぽつりと問うた。
夜更けのバスラルの裏路地はしんと静まりかえって、二人のほかには人の気配もない。
ときおり吹きつける寒風が容赦なく肌を刺す。灼熱の太陽が照りつける昼間とは打って変わって、荒野の夜はひどく冷えこむのだ。
「なんのことだ?」
アゼトは歩みを止めることなく、首だけでレーカのほうを振り返りながら問い返す。
「さっきの話に決まっている。いくらなんでも、毎日試合を組むなんて無謀すぎる」
「べつに無理などしていない」
「しかし、
レーカの言葉を遮るみたいに、アゼトはこころなしか語気を強めて答える。
「俺のことなら心配はいらない。いまは金を稼ぐことが最優先というだけだ。いつまでもここで足止めを喰らっているわけにはいかないだろう」
「アゼト……」
「それに、あのプリケルマ男爵という男、なにかを隠しているような気がする」
「私たちを利用しているというのか?」
「そこまではわからない。ただ、できるだけはやくこの街を離れたほうがいいのはたしかだろうな」
そこまで言うと、アゼトはふっと微笑みを浮かべる。
「レーカ、心配かけてすまない。もし無理なときは、素直にそう言うつもりだ」
「約束だぞ!! もし嘘をついたら承知しないからな!?」
「ああ――約束する」
アゼトの言葉を最後に、どちらもまるで示し合わせたみたいに黙り込む。
つかず離れずの距離を保ちながら、二人が街外れにあるケイトの工場に帰り着いたのは、それからまもなくのことだった。
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