第179話
「おいおい、どう言うことだよこいつは」
「織たちがしくじったかな?」
頭上に広がる先の見通せない孔を見上げ、目の前で広がる光景を見渡して、剣崎龍は絶句していた。
中国に出現した黙示録の獣。そいつをルークと二人で倒したのはいい。その他の場所に現れた獣も、異世界からの増援やらアダムやらサーニャやらが倒してくれた。
それで取り敢えず一安心、あとは雑魚を片付けるだけかと思いきや。
突如新たな魔法陣が空に広がり、その魔法陣が位相の扉でもある孔へと変わって、とんでもないことが起きている。
高層ビルやコンクリートの道路、信号機に車、ガードレール。自販機に電柱。
そこにある、およそ人工物と呼ばれるもの全てが、崩壊して灰になり、孔の向こうへと吸い込まれていく。
その被害は当然のように、人間にまで及んでいた。
「うわあああぁぁぁぁぁぁ!!!」
「助けてっ、助けてくれぇぇぇぇ!!」
あちこちから悲鳴が上がり、空に広がる孔へと人々が吸い込まれていく。人工物とは違い、灰になって崩壊しないのがせめてもの救いなのか。
不思議なのは、一般人にしか被害がないことだ。龍とルーク以外にも、付近には魔物と戦っている魔術師はいるのだ。しかし彼らは空へ吸い込まれることなく、さりとて人々を助けられることもなく、魔物の相手で手一杯。それは転生者である二人も同じだ。
どれだけの力を持っていたとしても、蒼やアダム、イブのような規格外というわけではない。所詮は個人が持てる範疇の力。
どうしても、取りこぼしてしまうものは存在してしまう。
「クソッ!」
また一人、近くの男性が空へ吸い込まれていった。紅炎を男性へ放ち、宙でその身を包むけれど。構わずに空へ消えていく。暗闇に呑まれる。
「無理はしない方がいいよ、龍。あの魔法陣、多分グレイのものだ。ボクたちの炎じゃどうにもできない」
「……分かってる」
分かっているつもりでも、ルークのように割り切れるわけではない。
剣崎龍の炎は紅。その力は、守護。
守るというそのことに関して、この男ほど拘るやつもいないだろう。
なにせ、その身が転生者となってしまった後悔そのものなのだから。
それでも、剣崎龍の最優先は見知らぬ他人じゃない。隣で戦う小さな女性だ。
だから踏み止まる。胸を、心を痛めつつも、その他大勢を切り捨てることができる。
「しかし、まるで世界の終わりだね」
街を彩っていたあらゆるものが灰になり、風に舞って散っていく様を見て。それでもルークは、どこか楽しげな笑顔すら浮かべていた。迫る魔物を斬り伏せ、いつ自分が他の人々と同じ末路を辿るかも分からないのに。
その事実、可能性を含めて、彼女は今のこの状況を楽しんでいる。
根本の部分で、転生者ルークとは善人じゃないのだ。
誰かの不幸を我が事のように悲しんだりはしないし、見知らぬ他人に見返りもなく手を差し伸べることもしない。
「もしも人類が滅亡したら、ボクたち転生者はどうなることやら」
「ゴキブリにでもなってたりしてな」
「うへぇ、それだけは勘弁。それなら魔物にでも成り下がった方がマシだよ」
などと言いながら、その魔物を手に持つ聖剣で蹂躙している。片手間に、それこそ虫を踏み潰すような感覚で。
「だけどまあ、ボクはまだまだ満足してないけどね。もっと、いろんな色に染まってみたいんだもの」
「お前がそう言うなら、世界を終わらせるわけにはいかねえな」
何者にもなれず、一生を塔の中に幽閉されて過ごした、真っ白な少女がいた。
そんな少女と唯一関わることができ、守りたいという願いを踏み躙られた少年がいた。
決して果たされることのない後悔を持つ二人は、転生者であり続けるしかない。
世界が終わるその景色の中であっても。
転生者は、その在り方を変えることはない。己の後悔を抱いて戦う。
世界の存亡もなにもかもを捨てでも。
だからこそ彼らは、転生者と呼ばれるものにまでなってしまったのだから。
◆
朦朧とする意識。不明瞭な視界の先には、空を見上げ、ただ一人佇む灰色の吸血鬼が。
なにが起きた? 何秒気を失っていた?
グレイが、なにかの魔術を発動させた。それは分かる。殆ど直感的に、やばいものだと悟った。だから思考の余地なく、反射で魔眼の力を解放した。
分かるのはそこまで。果たして幻想魔眼がどの様に作用したのか、考えることもなく使ってしまったから分からない。
思考が冷静になるにつれて、周囲を見渡す余裕が生まれる。
織と同じように倒れているのは、愛美に朱音、桃の三人。葵と翠は端の方で呆然としている。
そして、織たちを守ってくれたのか。パラパラと灰になって散っていく緋色の桜が。
「意図せぬ形での発動になってしまったか……やはりその目、早々に潰しておくべきだったな」
苛立たしげに、舌打ち混じりで呟くグレイが、織を睨む。
それで気がついた。頬を伝う、生温かい感触に。
「これ、は……」
「自分でも気づいていなかったか?」
流れるのは血涙。それはなぜか。
魔眼と呼ばれる異能を、限界以上に酷使すれば起こる現象だ。世界中を飛び回って石持ちの魔術師と戦っていた時、織も何度か見たことのある現象。
それが、自分の身にも起きている。
オレンジの輝きは、織の瞳から失われていた。
「織さん、あれ……」
背後から聞こえた葵の声に、頭上を見る。
そこに広がるのは、グレイが発動した魔法陣。ではない。
先の見通せない、闇だけが広がる孔。
それも、知っている。異世界へと繋がる扉だ。ならばなぜ今、それが開いているのか。考えずとも答えには至った。
「はっ、好都合だよ。最初からそのつもりだったんだからな」
痛む体を押して立ち上がり、無理矢理にでも笑みを作る。倒れていた他の三人も、傷だらけではありながらも立ち上がった。
同じ魔眼を持っているはずの朱音は、血の涙を流していない。
織一人では魔眼の出力が足りなかったはずだ。つまり、グレイの魔術がどのようなものだったのかは知らないが、そこに便乗する形で発動されたのだろう。
幻想魔眼、その本来の力が。
今の世界を、新しい世界で塗り潰す。
言い方を変えれば、異世界を一つ創り出すことになる。だからこそ、あの孔は開いた。
しかし未だ不完全だ。グレイの魔術による影響に加え、出力不足もある。
「さて。果たしてあの扉は、新たな世界への希望へ繋がるか。もしくは、人類滅亡という絶望に繋がるか。いい加減決めようではないか、キリの人間よ」
グレイの打倒は、織たちが勝利する絶対条件ではなかった。
つまるところ、幻想魔眼さえ発動してしまえば良かったのだ。だがここに来て、その条件が目の前に横たわる。
灰色の吸血鬼を倒し、やつの魔術を止めて。今度こそ、この目で新たな世界を作る。
「いいや吸血鬼。決着をつけるのは、私とお前の二人で十分だよ」
銀色の炎が、迸った。
織も、愛美も、桃ですら、反応が遅れる。
炎を纏った朱音がグレイへ向けて駆け出していた。ぶつかる短剣と槍。
崩壊と創造。正反対に位置する互いの力が拮抗しあい、容易に近づくことができない。
「朱音、お前……!」
「あなた、なに考えてるの! 戻りなさい!」
「ごめん、父さん、母さん。それはできない。だって私は、この時のために、この時代に来たんだから」
オレンジの輝きが増す。
織と同じで、しかし僅か異なるその魔眼には、世界を作り変えるために最も必要な力が宿っている。
「一人では行かせないよ、朱音ちゃんっ!」
魔女が放った緋色の桜は、二人に近づいただけで消えた。グレイの崩壊によるものではない。あの二人が放つ力に、桃の魔力が耐えられなかったのだ。
文字通り、全身全霊。己の命も、魂も、全てを使い切る勢いで、敗北者の少女は力を振り絞る。
「さあグレイ、誰にも邪魔されないあの扉の向こうで、最後の決着をつけようか」
「ぬうぅぅ……!」
やがて銀炎がグレイの体までも覆い、二人は空に広がる孔の向こうへと消えていく。
なにもできず、見ていることしかできなかった。自分の娘が、捨て身で立ち向かったというのに。
「クソッ! 朱音のやつ、なんで一人で行くんだよッ!」
「私たちも向かうわよ!」
「それは無理です」
取り乱す織と愛美に、どこか冷ややかな声が掛けられる。朱音とグレイが消えた先を見つめる翠は、その顔を悔しげに歪めていて。
「あの孔の先は、まだ情報がなにも確定していない。グレイがその口で言った通り、新たな世界へ繋がるのか、滅びだけが待ち受けているのか。そのどちらの可能性も同時に存在しています。だからあの先へ足を踏み入ることが出来るのは、術者であるグレイか幻想魔眼を持つ者だけです」
淡々と紡がれる言葉には、己の無力さへの恨めしさが滲み出ている。
だが他の誰でもない、あの吸血鬼と同じ異能を持った翠の言葉だ。それは紛れもなく事実なのだろう。
織にも、あの向こう側へ行ける資格はあった。それも過去形。今の織が持つ幻想魔眼は、正常に機能していない。未だ流れ続ける血涙がその証拠だ。
一度グレイの魔術と相殺する形で発動され、世界を作り変える土壌を形成した。その時点で、織の魔眼は役目を終えている。
そこから新たな世界を作り出すのは、『創造』の力を持った朱音の役割だ。
「手がないことはないよ」
「本当か桃⁉︎」
「使える魔眼を、新しく創ればいいんだよ」
桃の手が、織の頭に伸びてくる。
言われた意味もよく理解せずにいると、目から流れて止まらなかった血が、止まった。
オレンジの輝きが再び灯る。
同時に、魔女のドレスは緋色の花びらとなって散った。元の学院の制服姿に戻り、桜の髪飾りだけが見慣れない。
「お前、マジか……」
「これでわたしは、もうキリの力を使えないけどね。でもどうせ最後なんだし、使えるものは使い切っちゃわないと」
魔女が持つ『創造』の力。その全てを使い切って、織の瞳に再び、幻想魔眼を宿らせた。
言葉にすれば単純に聞こえるが、とんでもない。果たしてそれが、どれだけ規格外の所業なのか。考えるだけで頭が痛くなってくる。
でもこれで。あの孔の向こう側へ、朱音の元へ行ける。
いつも親であるはずの自分達を助けようとする、甘え下手な娘の元へ。
「織、これも持っていきなさい」
愛美から手渡されたのは、鞘に収められた刀だ。彼女が父から譲り受けた、桐原の継承した『繋がり』の力が宿された刀。
殺人姫のドレスが淡く光り、力が刀へと移される。愛美はここに来る前、学院本部のパーティに出席した時と同じ格好、赤いマーメイドドレスへと姿を変えていた。
本当なら、愛美も一緒に行きたいはずなのに。彼女にはその資格がない。できることはなにもなく、ただ織を見送ることしか。
短い間にも、その胸の内で多くの葛藤が過っただろう。
娘を一人で行かせてしまった後悔。織に託すしかない無力さ。
己の弱さを見せつけられて。それでも桐原愛美は、強がりを見せる。
いや、違う。
強がりなんかじゃない。これはたしかに、愛美の持つ強さのひとつだ。
託して、繋げる。
鮮烈な優しさと苛烈な正しさを秘めた少女の、最大の強さ。
「朱音のことは任せたわ。だから……だからまた、みんなで暮らしましょう。あの街の、あの家に。私と、織と、朱音と、アーサーと。家族みんなで」
この世で最も愛する笑顔が向けられる。涙を必死に堪えて、それでも隠しきれない感情が声を振るわせている。
もう叶わないと、分かっているから。
「ああ……絶対に、絶対だ」
強く言い切り、刀を受け取る。
叶わない、じゃない。叶えるんだ。そのための幻想魔眼だろ。不可能を可能に変える力だろ。
桐生織、お前はなんのために戦ってきた。
家族みんなで、笑って暮らせる未来を創るためだろうが。
それを忘れるな。その目に映す未来を、見失うな。
「それじゃあ、行ってくる」
「ええ、行ってらっしゃい」
帽子を深く被り直し、目元を隠す。
背を向けて飛び立ち、孔の向こう、先の見通せない暗闇へと飛び込んだ。
大切な家族を、いつも無茶なことばかりする愛娘を、叱り飛ばしてやるために。
◆
「行っちゃいましたね……」
頭上に広がる、先の見通せない孔へと飛び込んでいった織を見送り、ツインテールの後輩が小さく呟いた。
残されたのは、もう戦う力も殆どない四人だけ。葵と翠は魔力を完全に使えなくなったし、桃は魔術くらい使えるのだろうけど、幻想魔眼を新たに創る代償として、ドレスもキリの力も失った。
そして愛美は、自分の力の全てを、織に託した。
本当は一緒に行きたかったけど。あの二人と、最後まで一緒にいたかったけど。
それが叶わないから、せめてこの力と想いを、刀に乗せて。
「愛美ちゃん、よかったの?」
「よかったもなにもないでしょ」
すっかり再び味方になってしまった魔女が、気遣わしげに尋ねてくる。
きっとこの親友には、愛美の考えてることなんてお見通しなんだろうけど。でも多分、桃が考えていることとは、少し違う。
「私は、織と一緒に行くことができない。それでも、なにもできないわけじゃない。信じて託し、繋げることができる。それは、私にしかできないことだもの」
なにもできない弱さを嘆くことはない。
そんなもの、これまでの長くはない人生で掃いて捨てるほど経験した。
だったら私は、私として、あの二人の家族として、私だけにできることを。
今までは強がりだと自嘲していたけど。弱さを覆い隠すためのものでしかないと、そう思っていたけど。
これは私にしかできない、私の強さだ。
「……成長したんだね」
「あんたが死んでる間にね」
どことなく慈愛のようなものを感じる魔女の笑みに、なんだか背中のあたりがむず痒くなってそっぽを向いた。
年上のお姉さんみたいだ。いや、実際に桃はかなり年上のお姉さん、というかお婆さんなんだけど。
そんな桃が、んーっ、と伸びをひとつ。
「力も無くなって出来ることもないし、なんか肩の荷物が全部降りた気分だよ」
「今更外のやつらと合流しても、この状態の私たちが出来ることなんて限られてるものね」
なにせ消耗が激しい。グレイとの戦闘でもだが、なによりも織に全ての力を託したのだ。残された力は絞りかすのような僅かな魔力だけ。賢者の石もまともに稼働してないし、今ならそこらの魔物相手でも苦戦する。
そんな愛美たちが外の加勢に向かったところで、足を引っ張るだけだ。そもそも葵と翠に至っては、完全に魔力を失っているのだし。
「そうだっ、みなさん、平和な世界になったらやりたいこととかありますか?」
パン、と手を叩き、ふと思いついたように言う葵。真っ先に答えたのは、妹の翠だ。
「わたしは、学校に通ってみたいです。朱音や明子と一緒に、魔術学院とは違う普通の学校に。姉さんは?」
「私はやっぱり、みんなと一緒にいたいかな。蓮くんとかカゲロウとかお兄ちゃんとか、もちろん翠ちゃんも、桃さんと愛美さん、織さんに朱音ちゃんも。大好きな人たちと、普通に暮らせればそれでいい」
「わたしも似たような感じかなぁ」
続いたのは桃。苦笑を浮かべながら、頭の髪飾りに触れる。緋色の桜を象ったそれは、ここにいないあの男が遺したもの。
「普通にみんなと歳を取って、みんなと楽しく過ごせれば」
二百年の年月が、飾り気のない言葉に重みを与える。
普通の暮らし。魔術師であれば誰もが遠くなるそれも、魔女が口にすればまた違った風に聞こえる。
愛美も、葵も、魔術師の家で育てられはしたが、それでも本人たちは、それが普通の暮らしだと言い切れる。魔術師として、という注釈はつくが。
魔女の人生に、そんなものはカケラ程度しか存在しなかった。
だから、今度は。魔女なんて呼ばれることもなく、普通の人間として、普通に歳を取って、普通に暮らす。
面白みのかけらもない願いは、それでも彼女が心底から望んでいるもの。
「それで、愛美ちゃんは?」
「私?」
「そうですよ、愛美さんだけ言ってないですよ」
と言われても。
桐原愛美の願いは、いつだってひとつだ。
「さっきも言ったじゃない。あの街の、あの家で、家族みんなで暮らす。それだけよ」
自分がこの世界のことを忘れても。
新世界における朱音の存在が、不確かなものでも。
それだけは、絶対。
絶対に、叶う。
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