第160話

 額を床に擦り付ける、日本の伝統的な謝罪方法といえば。

 そう、土下座である。


 遥か大昔に存在した邪馬台国においても、平民が貴人から話を聞く際に行われていた、なんて記載もある、由緒正しき歴史ある行為だ。

 その姿勢は座礼の最敬礼にも類似し、極度に崇高高貴な対象に恭儉の意を示すのにも使われていた。


 しかし現代日本において、実際に土下座を敢行する者を見たことがある人は、果たしてどれだけいるだろう。

 某テレビドラマくらいでしか見ない。

 また、実際に土下座しようと思い行動に移す人は、無駄に自意識やプライドの高い現代日本人の中にいるのだろうか。


 結論を言えば、いた。そして初めて、桐生織は本気の土下座というものをその目で見てしまった。


「本当に申し訳ございませんでした」


 魔術学院本部に集められたのは、現在人類側の主要戦力全員。


 愛美、朱音、葵、カゲロウ、翠の風紀委員メンバーと、蒼に有澄、龍とルークの転生者組、サーニャや緋桜、アダムとイブも。

 織も合わせて十三人。随分と大所帯になったもんだと思いつつも、額を床に擦り付ける十四人目へ視線を向ける。


 めちゃくちゃ綺麗な姿勢で土下座しているのは、なぜか両頬を腫らせて頭にたんこぶを作った糸井蓮。

 織たちの後輩であり、闇に心を堕としていた少年だ。


 葵たちが向かった先で元の光を取り戻した彼は、無事にここへ帰ってきた。

 の、だが。


「顔あげろって、蓮。さすがに土下座はやりすぎだと思うぞ?」

「いや、桐生先輩。俺がやったことを考えるとこれでも足りないくらいです。本当は腹を切って詫びたいところなんですけど……」

「待て待て待て! 重く考えすぎだ!」


 沈んだ表情を見ていると、マジで切腹しかねない。

 たしかに蓮は敵として織たちの前に立ち、多くの被害をもたらした。ケジメとしてなにかしらの処分は必要となるだろうが、なにも命で償えとはこの場の誰も言うまい。


「そうだぞ。本当は俺が介錯してやりたいくらいなんだからな」


 いやいたわ。めっちゃ怒ってるバカなシスコンが一人いたわ。


「葵が止めるから仕方なく、俺からは鉄拳ひとつで勘弁してやったんだ。葵に感謝しろよ」

「緋桜あんたはちょっと黙ってなさい」

「お兄ちゃん黙ってて」


 どうやら頬の腫れの片方は緋桜にやられたらしい。愛美と葵に両サイドから脇腹を小突かれて悶えるシスコン。

 そちらにはもはや誰も見向きせず、この場を纏める立場にある人類最強が一つ息を吐いた。


「織の言う通り、重く考えすぎだよ。君による被害といっても、殆どが建物壊したりちょっとした怪我人が出たり、いくらでも取り返しのつくものだ。死人は出ていない」


 そう、蓮は多くの人を傷つけたが、それでも誰一人として殺していなかった。

 葵とカゲロウはちょっと危なかったらしいが、それでも一般人への被害は出ていない。蓮が手を出したのは、その全員が魔術師。戦う上で、死すらも覚悟しているやつら。


 ならば切腹なんて以ての外。ちょっとお灸を据えるくらいでいい。


「とはいえ、完全にお咎めなしとはいかない。状況は好転したことだしね。軽く罰は与えさせてもらうよ」

「好転したっていうと、悪魔を一体倒したことか?」


 織の問いに頷く蒼だが、どうやらそれだけというわけでもないらしい。

 ここ最近は世界各地を飛び回って戦っていた龍が、手に持っていた紙を掲げて説明した。


「こいつは学院の各支部から寄越された報告書だ。そのどこにも、アモンを倒した日から悪魔の数が減っていると書いてある。実際戦場にいた俺としても、この報告には完全に同意だ。数だけじゃなく、強さもある程度は落ちてるな」

「アモンの指揮下にあった悪魔が消滅した。そう考えるのが妥当だろうね。いやはや、葵たちは本当よくやってくれたよ」

「まあそれほどでもあるけどな!」

「倒したのは姉さんです。カゲロウが威張る理由がわかりません」


 胸を張るカゲロウと、相変わらずの無表情で淡々と突っ込む翠。一方で葵は、考え込むようにして顔を俯かせていた。

 表情もあまり明るいものとは言えず、せっかく蓮が帰って来たというのにどうしたのか。


「葵、どうかした?」

「うん、ちょっとね……」


 真面目に正座したままの蓮が尋ねるが、やはりその顔は暗いもの。

 織も一部始終は軽く聞いているから、葵の悩みに心当たりはあるが。


「次は崩壊の力を制御できる自信がないか?」


 声を発したのは、全身真っ黒コーデの織と同い年くらいに見える少年。しかしいくつもの世界を渡り歩き、実際は数百年以上を生きているアダム・グレイス。


 彼の持つ力、本人や蒼たち曰く体質は、あらゆるものを破壊してしまう。


「まあ、私の忠告も無視して使うくらいですので」

「うっ……」

「オレがいなかったらどうなってたことか」

「ううっ……」

「蓮のことも分からず見境がなくなるとは、吸血鬼としては最悪なパターンだな」

「ごめんなさい……」


 朱音、カゲロウ、サーニャに苦言を呈され、葵はみるみるうちに肩を縮こめる。


 しかし同系統の力を持つものとして、どこか思うところがあるのか。睨んでいると思われるほど鋭い視線を飛ばすアダムは、しかし気遣うような声音で葵に語りかけた。


「俺たちみたいな力は、敵味方関係なく問答無用で全てを壊してしまう。ようは、その方向性の手綱さえ握ってしまえばいい」

「方向性の手綱……」

「とは言っても、お前の場合はキリの力があるだろう。そいつがある限り、最悪のパターンには陥らん」


 黒霧が継承したキリの力は『心』。その者の心の強さを、想いの大きさをそのまま力に変える。

 葵に確固たる強い想いがある限り、例えグレイと同じ『崩壊』の力だとしても、制御するのは難しいことじゃない。


「その件も合わせて、今後の課題をまとめておこうか」


 真剣な表情と声で、蒼が全員を見渡す。

 自然と緊張の糸が場に走り、織はごくりと息を呑んだ。


「僕たちの当面の目的は、残りの悪魔を全滅させることだ。より具体的には、まずバルバトスをどうにかしたいと思ってる」

「アモン一体を倒すだけで、世界中の魔物がおよそ半分にまで減りました。つまり、魔物を使役している悪魔は残り一体。バアルは塔の前から動かず、ダンタリオンはこれまでの行動から魔物を使役するような悪魔ではないと推測します」


 補足を入れる有澄は、二つの大きなプロジェクターを魔力で作った。

 流れる映像はそれぞれで異なる。右の画面には塔の前に座るバアルがいて、こちらを睨んだと思えば映像が途切れた。

 一方で左の画面には、老婆の顔を愉快げに歪めたダンタリオンが。やつは人間の死体を使役して、まだ生きている人たちを襲わせている。


「ダンタリオン……この悪魔だけは許せない……」


 葵が忌々しげに画面を見つめる。

 許せないのは葵だけじゃない。織だって、友人の命を弄ぶような真似をしたこいつを、許すつもりなんて毛頭なかった。


 その二つの映像が切れると、また別の映像が流れる。右側は見たことのある狩人の姿をした悪魔だ。魔物を率いて魔術師たちと戦っている。


「バルバトスは狩人としては優秀ですが、ただそれだけです。逃げる獲物を追い詰める術に長けていますが、正面からぶつかれば恐れるような相手ではありません」

「問題はこっちね」

「桃さん……」


 左側の映像は、先日桐生探偵事務所の前で行われた戦闘。

 突如現れた魔女と、それに相対する四人。どうやら蒼は使い魔を飛ばしていたらしい。魔女の件は報告していたし、こうして張っていたのもおかしなことではないが。

 直前の愛美との会話も聞かれていたと思うと、織はどうにも羞恥心を覚える。


「これ、プライバシーの侵害じゃないんすか。人の家勝手に覗くなよ」

「中までは覗いてないから大丈夫」

「そういう問題じゃないんだよなぁ……」


 いや、致し方ないことであるのは分かっているのだが。魔女関連でなにか起きるとすれば、ほとんどの確率で織たちの周りだろうし。ならば事務所の近くに使い魔を配置しているのは正しい選択であり、プライバシー云々なんて言っていられる状況でもなかった。

 しかし感情的には別なわけで。


「今の魔女がどこまで戦えるのかは、正直未知数だ。生前の彼女は僕と対等に戦える、数少ない魔術師だったし。その実力そのままっていうなら、無駄に激突することは避けたい」

「織くんや愛美ちゃんが強くなったと言っても、あの人はそれ以上ですから。もしドレスが使えるなら、アダムさんと師匠以外に勝ち目はありません」

「僕は負けないけどね」


 てっきり、桃よりも蒼の方が強いのだと思っていた。なにせ人類最強の名を貰い、今もこうして魔術師のトップに君臨しているのだ。

 最強とはその言葉以上の意味はなく、この世界で最も強いということ。それに見合うだけの力を、小鳥遊蒼は持っている。


 そんな彼と対等に戦う桃の本気を、実は織は見たことがない。

 学院祭の日はグレイとの本格的な戦闘を行なっている時、織や愛美は彼女と離れていたから。


 二百年の研鑽に裏打ちされた技術と、賢者の石による圧倒的な魔力量。彼女が持っていたというキリの力、『創造』に、レコードレスまで。

 冷静に考えてみればたしかに、人類最強と対等に戦える唯一の人間だったのだろう。


「あの、ちょっといいですか?」


 蒼と有澄の説明に割って入ったのは、未だ正座したままの蓮だ。控えめに挙手する少年に、蒼が視線で先を促す。


「俺がダンタリオンにやられてすぐの話なんですけど……俺になにかの魔術をかけた人がいたんですよ。そのおかげで完全に呑まれずにいて、こうして戻ることができた。多分その人が、魔女なんだと思います」

「あいつならやりそうだな」


 どこか寂しげな笑みで言う緋桜は、どこか遠いところを見ているようだ。彼の中でもまだ感情の整理ができていないだろうに、全くそんなことを感じさせない。


「ダンタリオンとも軽くやり合ってたし、単純に敵に回ったとは思えないんです」

「グレイの味方ってわけでもない、とか言ってたな、あいつ」

「でも、私たちの敵であることはたしか、とも言ったわ……」


 魔女の存在は完全にイレギュラーだ。悪魔を倒して、グレイを倒して、世界をあるべき姿に作り変える。それで戦いは終わると思っていたのに。

 まさか、友人である彼女と戦うことになるなんて、誰が思っただろう。


「私は……私は、桃さんと戦いたくない、です……」


 弱々しく声を発したのは、まるで迷子のような顔をした朱音だ。

 あの時、朱音はなにもできなかった。ただ現れた魔女を前に立ち尽くすだけで、戦うことはおろか、声をかけることすら。


 三度だ。

 三度、目の前で彼女を失っている。

 いくら朱音が不屈の精神を持ち、己の弱さすらも仮面として纏っていても。それゆえに数えきれない転生を繰り返してきたのだとしても。


 その身に纏った弱さが牙を剥いている。


「無理はしなくていいよ。朱音だけじゃない。織も愛美も、彼女と戦いたくないならそれでいいんだ」

「これ以上、お前らに負担をかけるわけにもいかねえからな」

「たまにはボクたち大人を頼りなよ」

「子供の頃から無茶ばかりしてた人たちが言っても、説得力はありませんけどね……」


 転生者三人の言葉に突っ込む有澄だが、今の織にはその四人がとても頼もしく見えた。

 とはいえ、はいわかりましたと二つ返事で納得できるわけがない。


 彼女の目的を聞き出す。なんのために敵として立ちはだかるのかを。

 それまでは、立ち止まってなんかいられない。


「魔女の件は一旦保留にしておくぞ。やつの目的は見えない以上、対処のしようもないからな。まずは目先の問題だ。おいバカ、なにか策があるんだろ」

「もちろん。当面の討伐目標はバルバトス。ただそれと平行して、仲間も増やしておきたいんだ」

「わたしたちだけでは不安だと?」


 ちょっと不満げな翠の言葉には首を振り、蒼は指を三つ立てた。


「三割だ。世界がこうなってから続いている戦いの中で、再起不能、あるいは死んでしまった魔術師は、全体の三割。その意味がわかるだろ?」


 この場にいるメンバーは、全員が全員大きな力を持った者たちだ。悪魔とも対等に戦うことができるし、やつらが率いる魔物なんて敵じゃない。


 けれど当然ながら、全世界の魔術師がそうであるわけではない。

 魔物はより強力になり、悪魔と直接戦闘を行うところもある。そうなれば普通の魔術師では歯が立たないし、この状況が長引けば長引くほど、人間側の不利になる。


 魔力さえ補給できればそれでいい魔物とは違うのだ。人間はただ生きているだけでも、多くのエネルギーを必要とする。一度命を落としたらそれまで。感情を持つ以上は恐怖も覚えるし、集団であればその恐怖が伝染する。結果より多くの被害を生む。


「決して麻痺してはいけないよ。君たちが何気なく蹂躙する魔物一体にしても、他の魔術師にとっては十分な脅威なんだ。今のこの世界では、もう魔術師と魔物の力関係が逆転しかけてるんだよ」

「だから仲間を増やす、ってわけか。全体の被害をより減らすために」


 この場にいるのは十四人。そのうちの一人でも戦場に駆けつければ、状況は一変する。いわば戦略兵器のようなもの。


 しかし、世界は広い。十四人では足りないほどに。

 今でも世界のあちこちで、同時多発的に戦闘は行われている。魔物の数が半減したとしてもだ。


 そしてこの場の全員は人間であり、やはり補給というものは魔物よりも多く必要。常に動き回り続けることなど不可能。

 よって解決策としては、この場のメンバーと同程度の実力を持つ者のスカウトとなる。


「つっても、そんなやつ中々いないだろ。アテはあんのかよ」

「なかったら提案してないよ、カゲロウ。大丈夫、君たちもよく知る人たちだ」


 はて。ここにいる十四人以外で適任がいただろうか。いや、いる。

 織とほぼ互角の力を持っていて、厄介な武器を扱い、何度も辛酸を舐めさせられた大嫌いなやつが。


「怪盗アルカディア、あの二人を──」

「嫌だ」


 最後まで聞く前に答えた。

 蒼と有澄は苦笑を浮かべ、愛美と葵はため息を吐いている。


「織さん、そんな我儘言ってる場合じゃないんですよ。分かってます?」

「どんだけあいつらのこと嫌いなのよ」

「嫌なものは嫌だぞ。なんで怪盗と手を組まないとダメなんだよ」


 なにせあいつは気に食わない。フランスで匿ってもらっている時、どれだけ喧嘩したか。両手両足の指の数では足りないだろう。


「そもそも、あいつらがどこにいるのか分かってるんすか? フランスの屋敷はもう使ってないだろうし、どこぞに隠れてんでしょ」

「できれば、それを見つけるところから頼みたいけどね」


 露骨に嫌な顔をする織。捕まえるために探すならまだしも、なにが嬉しくて手を組むために探さなきゃならんのだ。


 しかしそう思ってるのは織だけのようで。実際に怪盗と相対したことのある他のメンバーは、随分と乗り気になってるようだ。


「怪盗っつーと、あの亀の時にいたやつらだろ? 織と互角に戦えるならデケェ戦力じゃねえか。渋る必要あるか?」

「ネザーでもあの二人は、要注意人物扱いでした。特にルミ・アルカディアの、体を光子化する異能は厄介です」

「味方になれば頼もしいってことだな。桐生先輩、もし先輩が嫌なら、俺たちが探しましょうか?」


 蓮の提案はありがたいが、そう言う問題でもないのである。

 仮に蓮たちに任せて本当に仲間になったとして、関わることは避けられない。そうなれば互いの顔を見るや否や喧嘩に発展するのは目に見えてるし、なんならこっちから喧嘩をふっかけてしまいそうなまである。


 なんというか、こう、魂の部分であいつと馴れ合うことを拒絶してるのだ。

 前世からの因縁とか言われても納得してしまう。


「とりあえず、怪盗のことは後回しにしましょう。先生、他のアテは?」

「うん。亡裏にも声をかけるつもりだよ」

「あの人たちは中立と言っていましたが」


 愛美の生まれた一族であり、キリの一員でもある亡裏。

 朱音の言う通り、やつらは以前中立の位置にいると言っていた。織たち学院側にも、グレイ側にも与しない。

 位相との狭間にあるあの里で傍観に徹するのだと。


「でも、あの時とは状況が変わっただろう? 実際に目撃情報はあるんだ。亡裏の一族と思わしき人間が、魔物と戦ってるってね」

「まあ、あいつらが戦場にいたら分かりやすいよな」


 現在の長である亡裏垓をよく知る緋桜が、苦情気味にしみじみと呟いた。

 亡裏の一族は魔力を使わない。その身一つ、体術一つで魔物や魔術師を殺す。


 愛美も使うあの体術は、力の流れを操ることができるのだ。それは魔力とて例外ではなく、まさしく魔術師たちの天敵。

 魔術師殺しとして相応しい実力を有している。


 魔物と魔術師の戦場に、魔力を使わない人間が現れる。

 まず間違いなく亡裏の人間だろう。


「ただ、僕らじゃ亡裏の里には入れない。緋桜と翠にはネザーの方をお願いしたいし、葵たちには休んでもらいたいからね」

「んじゃ俺たちがそっち行きますよ。怪盗の方は龍さんかルークさんにお願いします」

「ていよく逃げやがったな。まあ、最初からそのつもりだけどよ」


 ため息混じりの龍に言われ、誤魔化すように苦笑い。

 さて、では残りは今も話に出たあの組織だろう。


「ネザーはどうなっているのでしょうか」


 尋ねた翠の声は、いつもの無機質なもの。そこに宿った感情は計れない。計るべきではない、と言うべきか。


 緋桜がネザーの立て直しを図っているようだが、その進捗は織たちも聞いていないのだ。ミハイル・ノーレッジの遺した技術力は、うまく活用すれば大きな戦力になる。ならば利用しないわけにはいかず、蒼はそのための下準備を完了している。あとは緋桜が声をかけた元研究員たちを中心として、本格的な立て直しを行うだけだ。


「ネザーは現状、俺とクリスを中心にめちゃくちゃになった組織を立て直してる最中だ。まだあと少しだけ時間はかかるが、まあなんとか使えるようにはするさ。そのためにも、翠の力を貸してくれないか?」


 翠に向けられた笑顔は柔らかなものだ。そこになにを感じ取ったのか、あるいはネザーと再び関わることになにか思うところがあるのか、灰色の髪を揺らして俯く。

 ほんの数秒。しかしその間に決意を固めたのか、顔を上げた翠は強い瞳で緋桜を見つめ返した。


「分かりました。わたしでも、あなたの力になれるなら」

「ああ、頼れる妹がいたら百人力だからな」


 満足げに頷く緋桜は、果たして翠の内心を悟っているのか。


 ともあれ、これでやるべきことは決まった。

 パン、と手を打った蒼が、話を締め括る。


「よし。じゃあ龍とルークは怪盗の方を、織たちは亡裏の方を頼むよ。その間、各地の魔物は僕とアダムに任せてくれ」

「書類仕事や後方指揮ばかりで肩が凝っていたからな。精々、ストレスを発散させてもらうさ」



 ◆



 本部での話し合いも終わって解散したあと、葵は蓮も連れて東京の自宅に帰っていた。しばらく棗市に滞在していたから、久しぶりの帰宅だ。


「お、お邪魔します」

「うん、いらっしゃい。お茶淹れるから、適当に寛いでてよ」


 しかしなにより問題なのは、蓮も一緒にいる、ということで。

 一緒に住んでいる緋桜と翠は、本部からそのままアメリカのネザーへ向かった。つまり、今この家には葵と蓮の二人きり。


 お茶を淹れるためにキッチンへ向かって、煩く鳴り止まない心臓を落ち着かせようと頑張る。しかし一向に静かにならなくて、気を紛らわせるためにとりあえずお茶を淹れることに集中した。


 時間の流れとは無情なもので、集中すればするほど、時間が経つのは早く感じる。

 あっという間に紅茶を淹れ終え、ソファに座ってる蓮の元へ運ぶ。


「はい、どうぞ」

「ありがと」


 ソファに隣り合って座り、無言の時間が訪れた。互いの距離はサッカーボール一つ分くらい離れている。

 蓮もかなり緊張している様子で、それが葵にも伝播してしまい余計に何を話せばいいのか分からなくなる。


 こうして二人きりになるのは、蓮が元に戻ってから初めてのことだ。

 あの砂漠での戦いからはまだ数日しか過ぎていない。その日のうちに棗市に帰って、蓮はカゲロウからめちゃくちゃ文句言われた末に殴られてたし、なぜか壊れていた事務所を直していた兄も殴ってたし、そのあと数日休んで本部に向かい、今度は龍に拳骨を食らっていた。


 それだけ蓮が愛されてる証拠なのだろうけど。いや、兄は違うか。

 なんにせよ、そんなこんなで二人きりの時間が全く取れなかった。


 改めてこうなると、なにをどう切り出せばいいのか。

 あの砂漠での戦いは、葵も暴走してしまったし、死ぬ一歩手前まで血を吸ってしまった。まずはそのことを謝るべきだろうか。


「ごめん……」


 悩んでいると、先に蓮が口を開いた。出てきたのは謝罪の言葉。すでに何度も聞かされていたけど、そのどれよりも切実なものだ。


「俺は、許されないことをした。葵にあんなことするなんて、ヒーローどころか恋人としても失格だよな……」

「そんなっ! そんなこと、ないよ……」


 弾かれたように否定の言葉を発しても、蓮の表情は暗いままだ。ただの言葉だけでは、彼の心に届かない。

 だって、蓮が葵に剣を向けたのは、変わらない事実なのだから。


 過去は変えられない。

 蓮の行いも同じ。変えることができず、明確な事実としてそこに残る。


 だったらこちらも、過去の出来事を、起きた事実を、感じた想いを、そのままにぶつければいいだけだ。


「そんなことない……蓮くんは、私にとってのヒーロー。それは、今も変わらない」

「でも……」

「だって私は。私は、蓮くんに救われたんだよ。蓮くんがいたおかげで、私は私としてここにいるんだよ」


 全部全部、蓮のおかげなのだ。

 当然他の人たちも、葵を信じてくれてはいたけど。


 自分を見失って、黒霧葵なのかシラヌイなのかも分からなくて。

 それでも、糸井蓮という少年が道標になってくれたから。


 だから葵は、帰ってこれた。大好きなみんなが、蓮がいるここに。


「蓮くんがなにをしても、それだけは変わらない。私の気持ちは、蓮くんが大好きだっていうこの気持ちは、絶対に変わらない。だから、そんなこと言わないで?」


 半ば無意識のうちに距離を詰めていた。目の前に蓮の顔があって、決して逸らすことなくその目を見つめる。


 顔が熱い。絶対真っ赤になってる。

 それでも離れない。ようやく取り戻した大好きな彼から、離れたくない。


「それにさ、一回闇堕ちして戻ってくるの、いかにもヒーローっぽいじゃん」


 冗談めかして言うと、蓮の目がキョトンと丸くなる。再び流れる静寂。


 しまった、言葉を間違えたか。これ絶対滑ったやつじゃん。え、恥ずかしい。さっきまでとは違った理由で顔が熱くなる。


 しかしぷはっ、と吹き出した蓮は、やがて声を上げて笑い始める。どうやらツボに入ったようで、口元を手で覆ってめちゃくちゃ笑ってる。

 ここまで笑われると、それはそれで逆に恥ずかしいんだけど……。


「そっか、そうだな。それはそれで、テレビの中のヒーローみたいだ」

「で、でしょ? いかにもそれっぽいでしょ?」

「じゃあさ。俺はまだ、葵のことを好きでいていいのかな」


 まさかそんなことを聞かれるなんて思わなくて、今度は葵が目を丸くする番だった。

 そんなの、わざわざ聞くまでもないのに。


「当たり前じゃん。こんなことで別れようとか言われたら、私泣くよ」

「そっか、それは困るな。もう葵を泣かせたくはないから」


 まるで憑き物が落ちたように、蓮は晴れやかに笑っている。

 ああ、その笑顔は見慣れた、蓮らしい笑顔だ。そうやって笑ってくれるなら、その笑顔を見られるなら、葵も暴走してまで取り戻した甲斐があった。


 なんて思っていると、葵の顔を影が覆った。

 あっという間に蓮の顔が接近してきて、さらりと唇を奪われる。


 一瞬の出来事で頭が理解できず、ぼーっと離れていった蓮の顔を見つめることしかできない。


「だから、これは誓いってことで。もう葵を泣かせない、絶対に守るっていう、誓い」

「……いきなりは、ズルい」

「ごめん、嫌だったかな」

「嫌じゃない……だからこれは、お返し」


 今度は葵から近づいて、けれどその唇ではなく、首筋に狙いを定めて。遠慮なくガブリと噛み付いた。

 自分からキスするのは、恥ずかしくて無理だから。


「可愛いお返しだな」

「ふぁまっへへ」


 頭を撫でられる。優しい手つきが心地よい。血が美味しい。喉が潤う。


 この血は。いや、蓮の存在全部、私だけのもの。

 なんて、そんな風に伝えたら、重いって思われちゃうかな。それでもいいや。


 いつもよりちょっと多めに吸ってから顔を離せば、口の端からたらりと血が流れる。

 ぼーっと蓮の顔を見つめていると、もう一度口づけが落とされた。


「血の味だ」

「美味しいでしょ?」

「それ、なんて答えたらいいんだよ」


 お互い真っ赤な顔で笑い合う。

 日常が、大好きな彼が戻ってきた。その実感を今更ながら覚えて、胸の内にあたたかいものが広がった。

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