第127話
魔女の襲撃から更に一週間、アリスがこの世界に来てから二週間と少しが経過したある日。あれ以降アリスを狙う輩はおらず、むしろ魔女を退けたということで避けられている様子すら見られる。
あるいは、そこも魔女の狙い通りだったりするのかもしれないが。
「クリスマス、ですか?」
十二月二十日。あと五日で聖人の誕生日が訪れるという日に、目の前まで迫るそのイベントを教室内で説明していた。
「そう、クリスマス。元はとある聖人の誕生日だったんだけどね。今や人々が騒いで遊ぶための口実に成り下がってる」
「言い方に気を付けろよ馬鹿。学院にはそっち方面のやつもいるんだぞ」
日本支部というだけあって生徒の殆どは日本人だが、やはり信仰している宗教は様々だ。魔術師にとってその辺りは馬鹿にならないもので、その宗教に合わせた魔術を使うやつだっている。
そもそも、この国では信仰の自由が認められているのだから、なにも不思議なことではないのだけど。
「アリスの世界にもなかった? 誰か昔の偉い人の誕生日で、今は記念日になってるような日」
「たしかに……ひとつありましたね」
「似たようなものだと思ってもらえばいいよ。ただ、このクリスマスっていうのはちょっと変わったイベントでね。その一年いい子にしてたら、白い髭を蓄えたおじさんがプレゼントをくれるんだ」
机の上にルーズリーフを広げ、そこにトナカイとソリ、サンタを描いてみせた。我ながら会心の出来だ。アリスも興味深そうに見ている。
「二十四日の深夜から二十五日の明け方にかけて、全世界の子供たちにプレゼントを配る赤い服と白い髭のおじいさん。その名をサンタクロース」
「サンタクロース……」
ごくりと息を飲むアリスは、果たしてどの様な姿を想像しているのだろう。あまりに純粋すぎて笑いが漏れそうになるが、なんとか我慢。
「たった一夜で全世界の子供に配るなんて……もしかしてサンタクロースも魔術を使っているんですか?」
「さて、どうだろうね。僕たちはなにも分からない。ただ、起きた時枕元に置いてあるプレゼントだけが、彼の実在を証明する唯一のものさ」
「いい加減にしろよ馬鹿。アリスが信じたらどうする」
アダムに頭を叩かれ、ごめんごめんと悪びれもせず言ってみせる蒼。あまりにも疑わないものだから、つい調子に乗ってしまった。
しかし、異世界からの来訪者は案外子供っぽいところもあるようで。
「サンタクロース、いないんですか?」
純真な瞳が、アダムを見つめる。
さしもの親友もそんな瞳には弱いのか、ぐっと言葉に詰まっている様子。
「サンタクロースの実在性については、その名が世に出始めたり時から様々な議論が交わされている。当然魔術的な議論だ。しかしどれも実在を証明するには根拠に足りてない。一説では悪魔の類ではないかというものもいたが、元来の悪魔とはその生態が異なっている。結局人間なのか、そもそも存在するのかすらも未だ解明されていない、全てが謎に包まれた存在だ」
「つまり?」
「……いない、とは言えないな」
パァっと表情が明るくなったアリス。一方のアダムはため息を漏らすのみ。
「優しいじゃないか」
「黙れ馬鹿……お前がどうにかしろよ……」
早速なにが貰えるのかと楽しみにしているアリスだが、この様子だと本当に枕元にプレゼントを置かないとダメだろう。
果たして蒼がアリスの部屋に入れるのか、というところから話は始まるが、まあなんとかなるはず。
「そのクリスマスだけど、なにも楽しみはサンタからのプレゼントだけってわけでもなくてね」
「他にもなにかあるんですか?」
「勿論。街はイルミネーションなんかで飾ってあるだろうし、クリスマスケーキだってある。サンタからじゃなくても、大切な人にプレゼントを贈ったっていいし、もしかしたら自分も誰かから贈られるかもしれない」
「なるほど」
「なにより最近のクリスマスは、恋人と過ごすのが一般的らしくてね」
「恋人ですか」
例えば、龍とルークは二人きりで過ごすだろうし、蒼の両親は妹の栞が生まれる前まで、毎年夫婦水入らずの時間を過ごしていた。
しかしこの場にいる三人には縁のない話。異世界から来たアリスは勿論、蒼もアダムもそんな相手はいない。
「別にそれが一般的と言うわけでもないだろう。家族で過ごす者もいれば、一人で過ごす者もいる。あるいは、仕事に追われる者もな」
「僕らも今年はお仕事かなぁ」
聖人の誕生日。それは大規模な魔術儀式を行う上で、この上ない好条件の揃った日になる。クリスマスという概念的象徴に、地脈を巡る魔力の動き。かの聖人の加護を得られるなんて眉唾もあるほど。
つまり裏の魔術師が暗躍するには、格好の日ということだ。
なにもクリスマスに限った話ではなく、例えばハロウィンだったり、正月や元旦だったり、バレンタインだったり。
今日におけるイベントというのは、その殆どが元を辿れば深い歴史を持つものだ。当然そこには、魔術の存在も隠れている。
特にハロウィンは顕著だろう。あれは元々、古来ケルトにおける悪魔崇拝の儀式だとされていた。一方で、日本におけるお盆のような日でもあったのだ。
先祖の霊が帰ってくる日。その際悪霊が紛れ込むことがあるから、魔除の仮面を被っていた。そこから転じて現代の仮装に繋がる、
閑話休題。
兎にも角にも、クリスマスという日は魔術師にとって断じて休みなどではなく、恋人同士でイチャイチャ聖なる夜を過ごすなんてもってのほか。そんなことしてる暇があるならさっさと戦場に向かって一人でも多く敵を殺して来い。
って感じの日だ。
蒼は去年まで適当に過ごしていたけど、学院に入学した今年からはそうもいかない。日本支部の最高戦力の一人として、あちこちに出動しなければならなくなるだろう。
「まあでも、アリスは好きに過ごしたらいいよ。久井あたりを誘えば、案外ノリノリで付き合ってくれるかもだぜ」
「あなたは戦場に行くのでしょう? それなのにわたしだけ遊んでいるわけにはいきません」
言うと思った。優しくて律儀なこのお姫様は、きっと元いた世界でも戦場において最前線に立っていたのだろう。
そして蒼は、そんなアリスに対して有効な説得の手段を持ち得ない。
短い付き合いの中でよく分かったが、アリスはとても頑固だ。理に叶った説得をすれば渋々ながらも引いてくれるが、ただお願いするだけでは絶対に引かない。
だから蒼の取れる手段としては、適当か軽口ではぐらかすくらい。
「なんだ、そんなに僕とクリスマスを過ごしたいのかい? 素直に言ってくれれば、素敵なデートコースを用意してやるぜ」
「もうこの際それでもいいので、わたしも連れて行ってもらいます」
はぐらかせなかった。それどころか、予想外の言葉が。
いつもなら蒼の言葉に否定の一つでも入れるはずなのに、今日は一体どういうことか。
面食らったままでいると、アリスはどんどん話を先に進めてしまう。
「それに、なにも当日だけが忙しいというわけでもないのでしょう? 事前に摘み取れる芽はあるはずです」
「その通りだけど……」
「なら今日から早速向かった方がいいのでは? そしたらクリスマスのあなたの予定は空きますよね」
「なに、そんなに僕とデートしたいのか?」
「違いますよ」
漏れるため息は存分に呆れを含んだもの。
ようやくこの美少女を口説き落とせたかと思ったのだけど、どうやら違うらしい。
はて、ではその心はいかに。
「アダムさんが言ってましたよね、クリスマスは家族で過ごす日でもあるって。時間が空けば、家族で過ごせるじゃないですか。栞ちゃんはまだ小さいんですから、あなたにもいて欲しいと思いますけど」
ジト目で見上げてくるアリスは、なにを当然のことを、とでも言いたげだ。
両親と、家族と簡単に会うことのできなかったアリスだからこそ、蒼が家族と過ごす時間を大切にしてくれる。
本当に、優しい子だ。その優しさを少しでも、自分自身に向けてあげればいいのに。
「分かったよ、君の言う通りにする」
「分かればいいんです」
「ただし」
少し強めの口調を意識すると、アリスは驚いたように若干後ずさった。上目遣いに小首を傾げる様が酷く愛らしい。
「家族で過ごすっていうなら、当然君も一緒だ」
「……どういう意味ですか」
「勘違いしないでくれよ、他意はないぜ。君は今、僕の家で一緒に暮らしてるんだ。なら今だけは家族も同然だろう。母さんも父さんも、栞だって、みんな同じことを思ってるよ」
今度はアリスが面食らう番だった。
やがてその頬は徐々に赤みを帯びて、羞恥心から逃れるように顔を伏せてしまう。
可愛すぎて頭を撫でてやりたい衝動に駆られるが、ここは我慢だ。
ややあって開かれた口からは、ぽしょりと小さな一言が。
「ありがとうございます……」
礼の言葉がたったひとつ。
けれどそれで十分だ。
さて、差しあたってはクリスマスの予定を完全フリーにするため、邪魔な悪者にはさっそとご退場願うとしようか。
「イチャつくなら他所でやれよ」
「ごめんごめん、家で二人きりの時にするよ」
「そんなのじゃありません! ていうかあなたも否定してくださいよ!」
◆
そんなこんなで、呆気なく四日が過ぎた。
この四日間、蒼はアリスを連れて日本国内あらゆる場所に出向いては、良からぬことを企む裏の魔術師たちを蹂躙して回ったのだ。
魔女との戦いではいいところを見せられなかったから、その憂さ晴らしというのもあったけど。
そもそも、現代の魔術師で蒼に敵うやつなんて両手の指で足りる程度にしかいない。
日本全国に使い魔を飛ばし、それを中継地点として超広範囲の探知魔術を行使。中でも特に危険性の高いものを優先して潰しに行ったから、これで今日明日は安泰だ。
アリスも順調にこの世界の魔力に馴染んでいるようで、少しずつではあるが本来の力を発揮できている。完全復活も時間の問題だろう。
そしてやって来た十二月二十四日。
クリスマスイブ。
前日までの疲労故に昼過ぎまで惰眠を貪っていた蒼だったのだが、目を覚ませば予想外の出来事が。
「なんで家に誰もいないんだ……」
「栞ちゃんも連れて、朝から三人で出掛けましたよ」
家の中には蒼とアリスの二人きり。家族はどうやら、三人でどこぞへ遊びに行ってしまったらしい。
多分、変な気を使わせてしまっている。
いやまあ、クリスマスにアリスのような美少女と二人きりなんてのは願ったり叶ったりだし嬉しいけど。しかしそれにしても、親に気を使われるというのは……。
いや、違うな。
思考をひとつ否定する。
アリスのような美少女、ではなく。アリス・ニライカナイその人と二人きり。
そんな状況にこそ、蒼は胸を弾ませているのだ。
「でも、クリスマスは明日ですよね?」
「ああ、今日はクリスマスイブ。最近ではこっちの方が本番って感じもあるんじゃないかな」
というよりは、イブの夜から翌日にかけてがクリスマス本番と言えるだろう。なにせクリスマスのメインイベントは、サンタからのプレゼントだ。
それに二日もあれば、色んな人とクリスマスを楽しめる。
「で、どうする? 多分母さんが変に気を回しただけだから、家でゆっくりしててもいいけど」
本音を言えばアリスとデートにでも行きたいところだが、彼女が乗ってくれるとは思わない。
先日は軽口混じりにデートなんて口走っても否定されなかったが、あれは蒼に家族との時間を過ごさせるための口実に使われただけだ。特に理由もないのに、この子が蒼と二人きりで遊びに出かけることはないだろう。
なんて、半ば諦めかけていたし、家で二人まったりするのもいいかなーなんて思い始めていたのだけど。
「いえ、せっかくなので外に出ませんか?」
「え、マジ?」
「なんですかその反応は」
思いもよらない提案をされて、思わず素でビックリした。そのせいでアリスは一気に不機嫌顔。頬を膨らませてジト目を向けてくる。
いやだって、まさかアリスの方から言ってくるなんて、今日までのことを思えば考えられないし。
「ごめんごめん、普通にびっくりしちゃった」
「あなたにはずっとお世話になってますから。お礼にデートくらいはしてあげますよ」
「それは身に余る光栄だね」
アリスがこう言っているのだ。ここはありがたく好意に甘えておこう。
諸々準備をしてから出掛けようということで、二人はとりあえず家で昼食を済ませてから支度を始めた。
焦る必要もないのでゆっくりしていると、気がつけば時刻は十七時。ゆっくりし過ぎた感じは否めないが、まあ丁度いい時間帯だろう。クリスマスデートといえば昼間よりも夜のイメージがあるし。
アリスは特に気合を入れて着飾っているわけでもなく、先日魔女の襲撃があった日に大阪で買っていたワンピースに、上からコートを羽織っていた。ついでにマフラーも巻いているから、なんだかもこもこしてて可愛い。
「似合ってるね。いつもより可愛く見える」
「ありがとうございます……」
もふっとマフラーに顔を埋めたアリスは、その頬を紅く染めていた。毎度お馴染みの反応だ。可愛い。
今から向かう先は、兵庫県は神戸市で開催されてるイルミネーションだ。また関西かと思われるかも知れないが、この付近のイルミネーションは蒼が見飽きている。
せっかくだし、有名らしいけど一度も行ったことがない場所がいい。
ここから転移で直接向かうので、玄関で靴を履いても扉からは出ず、戯けた調子でお姫様に手を差し出した。
「お手をどうぞ」
「エスコート、お願いしますね」
クスリと微笑むアリスが手を取り、二人は神戸の街まで転移した。
◆
「わぁ……」
頭上に広がる煌びやかな幾何学模様。地面を照らすアーチは光のトンネルとなり、二人は手を繋いだままその下を歩く。
隣を歩くアリスは、視線をずっと上にしたままだ。先程から何度も感嘆のため息が漏れている。
その気持ちを理解できる蒼は、柔らかな笑顔で隣の少女を見守っていた。
「昔、この辺りに大きな地震があってね。この神戸ルミナリエは、その鎮魂と追悼、街の復興を目的として開催されたものなんだ」
「こんなに綺麗で優しいな光なら、静かに眠れますね」
優しい、か。
イルミネーションを彩るのはあくまでも人工の光だ。たしかにこのルミナリエはとても綺麗だけど、蒼はそんな感想を抱かなかった。
きっと、そう言ってしまえるアリス自身が、誰よりも優しいから。
だから、このイルミネーションを飾り付けた人たちの心を、想いを、感じ取ったのかもしれない。
「それより、あまり上に気を取られていると危ないぜ」
「あっ、と……」
言ったそばから、アリスは他の観光客とぶつかりそうになる。蒼が手を引いてあげたからぶつからずに済んだが、危なっかしいったらありゃしない。
「す、すみません……つい……」
「気持ちは分かるけどね」
苦笑しつつ、勝手に高鳴る鼓動を必死に抑える。繋がっている手を引いたおかげで、アリスとの距離は完全にゼロ。さっきまでは一応隙間があったのに、今や互いの間にはなにもない。腕も肩もしっかりくっ付いていた。
らしくなく緊張している自分に、ため息が漏れる。これじゃあ思春期男子同然じゃないか。いや、今の蒼の年齢的にはまさしくなのだけど、これまで何度転生して来たと思っている。
いくら精神は現在の年齢に引っ張られるとは言っても、限度というものがあるだろう。
アリスの方も再び人とぶつかることを恐れたのか、蒼から距離を取ろうとはしない。チラと見遣った頬は赤く染まっているから、意識していないわけではなさそうだけど。
「人、多いね」
「そうですね」
沈黙を埋めるためだけに発した言葉は、それ以上会話を発展させることもなく、白い息とともに消えていく。
それ以降、交わされる言葉はない。人混みに流され、光のトンネルをただ隣り合って歩く時間。
心地いい沈黙に身を委ねながら歩いていると、やがて大きな広場に出る。
広場には藤棚に沿うようにして、スパリエーラと呼ばれる光の壁掛けが展開されていた。
流れる音楽に合わせて、光が躍動するように点滅する。
そして中央に大きく設置されているのは、ルミナリエの目玉とも呼べる
「綺麗……」
隣で息を飲む気配が。
元の世界にはこのようなイルミネーションがなかったのだろう。蒼だってルミナリエに来たのは今日が初めてだから、アリスのことを言えないくらいには感動していた。
人々の想いが篭った、美しい芸術作品。目に見えないものが言葉以上に宿っている。
それはこのイルミネーションを作り上げた人たちや、今この場に来ている観光客、少しでも関わった人全ての想いと祈り。
そんな美しいイルミネーションよりも、隣に立っている白い少女の方が綺麗だと。
あまりにも陳腐な考えが頭に過ぎる。口にしてしまえば嘘くさくなるけれど、紛れもなく蒼の感じたことだ。
煌びやかな光の聖堂より、それに魅入っている美しい横顔に、蒼の目は釘付けとなっていた。
◆
一通りイルミネーションを楽しんだ後、二人は大通りから外れて人の少ない場所に出ていた。
やはり人が多すぎたせいか、アリスの顔に疲労が見て取れたからだ。
途中で買ったホットの缶コーヒーを手元で弄びながら、ベンチに腰を下ろしたアリスは微笑を浮かべる。
「ありがとうございました。まさかあんなに綺麗なものを見れるなんて」
「最近は君にお礼を言われてばかりだね」
「それだけのことを、あなたにしてもらっていますから」
ここからでも見える光のアーチを、アリスは目を細めて眺める。
こんなに喜んでくれたなら、連れてきた甲斐があった。両親のいらぬお節介には複雑な気持ちを抱いていたが、今となっては感謝の念を禁じ得ない。
おかげでこの子と、また少し距離が縮まった気がするから。
「さて、この後はどうする? 近くに知り合いの転生者が経営しているレストランがあるけど、無理矢理予約を取らせようか?」
「転生者って色んな人がいるんですね……ていうか、それはその人に悪いですよ。会場に屋台がありましたし、そこで適当なものを買いましょう」
「君がそれでいいなら」
お姫様のくせに買い食いとかするんだな、と変な感想を抱く。
となれば、もう少し休憩したらまたあの人混みに身を晒さなければならない。アリスをここに待たせるのは心配だし、連れて行くしか選択肢がないか。
その後もイルミネーションの感想だったり、屋台にはなにが売ってあったのかだったり。他愛のない会話を交わしていると、アリスが缶コーヒーを飲み終えた。
手を差し出せば、躊躇うことなく取ってくれる。出会った頃では考えられないけど、これが今の蒼とアリスの関係。
明確な言葉で定義づけられるものでもないが、距離の近さをなによりも表すもの。
そして再び、人混みの中へ身を投げ出そうとした、その時。
「見つけたぞ、龍の巫女」
声が、かかった。
聞こえてきた方へ振り返れば、一人の男が立っている。
黒髪と浅黒い肌。ボロボロのマントに身を包む、蒼たちと歳の変わらなさそうな少年。
しかし直感した。人の姿をしているが、間違いない。あの少年は、龍とルークが世界中を探しても見つけられなかった、蒼たちの敵であると。
「エルドラド……!」
怒りのこもった少女の声に呼ばれ、少年、エルドラドは口の端を歪めた。
「どこに姿を隠しているかと思っていたが、まさかこんなところで男にうつつを抜かしていたとはな。力が戻っていないのはそのせいか?」
気がつけば、周囲から人の気配が消えている。蒼とアリスに察知されることなく、結界のようなもので別空間に隔離された。
楽しいデートはここで終わりらしい。
アリスを庇うようにして立ち、抜身の刀を右手に出現させた。
「そっちから来てくれるとは好都合だね。悪いけど、ここで倒させてもらう」
「人間の魔導師風情がデカい口を叩きおる」
静寂に響く嘲笑。
隠しもしない膨大な魔力は、蒼の肌にまで伝わる。恐らくはアリスと同じく、完全に力を取り戻しているわけではないのだろう。人間の姿でこの場に現れたのが証拠だ。
「
ならば力が戻っていない今のうちに、この場で殺す。
青白い光が暗闇に迸る。
イルミネーションよりもなお強い光。
残像をのこすほどのスピードで駆けた蒼は、エルドラドの首を容易く斬り落とした。
鮮血が舞い地面を赤く汚す。地に落ちた首は不気味な笑顔を浮かべたままで。
「まだです! まだ死んでません!」
少女の声に反応して、咄嗟に刀を背後へ振るった。鈍い金属音が響く。刀と腕が激突し、首を斬り落としたはずのエルドラドは愉快げな笑みを貼り付けている。
その腕は黒い鱗を纏い鋭い爪を伸ばしている。およそ人のものではない。
まさしく、ドラゴンの腕だ。
「カカッ! 少しは腕が立つようだな!」
「そいつはどうも!」
とてつもない膂力に弾き飛ばされるが、流星一迅はまだ切れていない。誰にも視認できない速度で態勢を立て直し、再び正面から突撃する。
概念干渉により、追いつくことのできない速度。光よりもよほど速いスピードの中。
エルドラドの腕が動くのを、蒼の目はたしかに捉えた。
「二度目はないぞ」
「……っ!」
再び金属音が響き渡り、刀と腕が交錯する。
あり得ない。が、事実として起きているのだから、認めるしかない。
流星一迅の速度についてきている。
「オーバーロード、限定解除! 絡み取れ、
叫び声に遅れて、エルドラドの真横から氷の茨が波のように迫った。
不意打ちに反応できなかったのか、少年の体は茨に飲まれ氷の中に閉じ込められる。しかし一瞬後には氷にヒビが入り、長く持たないことを示していた。
「一度退きましょう。あまりにも準備が足りません」
「賛成、と言いたいところだけど。簡単に逃してはくれなそうだ」
言ってる間に、ヒビは広がっていく。
ただ逃げるだけなら簡単だ。けれど今この場には、イルミネーションを見にきた多くの人がいる。そこで暴れられる可能性を考えると、蒼たちが背を向けるわけにもいかなくなる。
やがて黒い波動が広がると同時、氷の檻は完全に砕け散った。
愉快げな表情の少年が解放され、濃密な魔力を撒き散らす。普通の魔術師であれば吐き気を催すどころか卒倒するレベルの魔力。
「もう終わりか? もう少し楽しませてもらえると思ったのだが、やはり力が落ちたか龍の巫女」
「それはお互い様ですね、エルドラド。わたしの仲間をあれだけ殺したんです、その程度なわけがないでしょう」
やはり、そこに宿るのは怒りの色。
今の短いやり取りで察するものはあったが、詮索するのは後だ。
今はこの場をどう切り抜けるか考えなければ。
せめてあと一人。頼りになる仲間たちのうち、一人でもいてくれれば。
自分だけではどうにもならない状況。悔しさに歯噛みしていると、隔離された空間の中に、新たな気配を感じた。
「まさかこの可能性を引き当てるとはな。いや全く、ツイてないにもほどがあるだろ」
ゆっくりとした足取りで現れたのは、シルクハットを被り、瞳をオレンジに輝かせた青年。
以前見た時よりもほんの少し違う輝きを放つのは、自称一般探偵の桐生凪だ。
「初めまして、黒龍エルドラド。この世界は楽しんでくれているか?」
「貴様、何者だ?」
「桐生凪。どこにでもいるただの探偵さ」
不敵に笑ってみせる凪。強大な敵を前にしても怯む様子すら見せないが、感じられる限りだと凪は一般的な魔術師だ。
特殊な異能を持っているようだが、魔術師としてはよくて中の上。蒼たちのような強い魔力を持っているわけではない。
つまり、エルドラドと正面からぶつかれば、間違いなく負ける。
なのに、どうして。
「どうしてこんなところに、とでも言いたげな顔だな、小鳥遊蒼。答えは簡単だ。ここでお前がエルドラドとぶつかる可能性を考慮したから」
「……まるでストーカーだね。もう少し早く助けにきてくれても良かったんじゃないか?」
「そう言うな、これでも急いで来た方なんだよ。息子が中々解放してくれなくてな」
さて、と。エルドラドに向き直った探偵は、腰にぶら下げていたホルスターから銃を抜いた。
大型の自動拳銃は、マグナム弾を使用する特殊なもの。
デザートイーグルだ。
「お前と戦うにはまだ時期尚早でな。こちらの準備が整ってないんだ。悪いが、尻尾巻いて逃げてもらうぞ」
「カカカッ! これはまた面白いことを言う! 貴様ら人間相手に、ドラゴンの王たる儂が逃げるだと! 貴様、気でも触れているのか!」
「
エルドラドの嘲笑も意に介さず、探偵は静かに唱えた。
光が凪の体を包む。溢れ出る力は、蒼にも覚えのあるもの。あの時、魔女が使っていたのと同じ類の力だ。
やがて晴れた光の中から現れた凪は、裾の長いテールコートとシルクハットに身を包んでいた。
「
決して常識では測れない力が、この世界に顕現した。
魔女と同じ力だけじゃない。オレンジに輝く瞳。千里眼を自称していたその目は、明らかに異彩を放っている。
「その力は──」
「消え失せろ」
たった一言。
口にしただけで、エルドラドの姿が消えた。気配も魔力も残さず、黒龍たる少年は凪の言葉通りに消え去ったのだ。
残されたのは呆気に取られた蒼とアリスに、元の服装へ戻った凪の三人。
「さてお二人さん。これから時間はあるか? あるな? よし、だったら色々説明するからついて来い」
「いやいきなり言われても」
「問答無用」
瞳がまたオレンジに輝き、三人はどこかへ転移した。
こうしてアリスとのクリスマスデートは、黒龍と探偵のせいで台無しになってしまったのだった。
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