終末にむけて

第118話

 十一月もそろそろ終わりが見えてきたある日。地球温暖化なんてのが嘘に思えるほどの寒さの中、織たちはいつも通りに登校していたのだが、いつもと違う点がひとつ。


「お前、それは着込みすぎじゃね?」

「これで丁度いいのよ」


 マフラー手袋耳あてコートと、完全防寒モフモフ装備の愛美を見て、織は若干呆れていた。まさかこいつがこんなに寒がりだったとは。モフモフで可愛いとは思うけど。

 織は女子の制服夏服派よりも冬服派であるからして。


「それにしても、先生はいつになったら動き出すのかしら」

「準備とか色々あるんじゃねぇの?」

「それにしたって、もう一週間以上経ってるのよ?」


 小鳥遊蒼がネザーへの本格的な攻勢を宣言してから、すでにそれだけ時間が経っていた。しかしその間、蒼からはなんの音沙汰もなく。というかそもそも、学院にいるのかどうかも怪しい。ここ最近は見ていない。


 朱音と翠は相変わらず龍とルークの世話になってるみたいだし、葵たちは今日も三人で仲良くしてるし、特別これと言った変化のない毎日だ。


 平和ではあるのだけど、逆にどこか落ち着かない。嵐の前の静けさ、とでも言えばいいか。

 直感でしかないけど、あの時と似ているのだ。学院祭が始まる前の平穏と。


「なんか、嫌な感じだな」

「あの時も、直前に先生と桃がいなくなったのよね……」


 今回も同じ。蒼がどこぞへ姿を消して、こちらにはなんの連絡もない。

 なにかあったのでは、と疑う方が普通だ。


 だからと言って、やはり織たちにできることはなにもないに等しい。

 だから今日も、歯がゆさを感じながら登校して、日常のひとつである教室へと足を踏み入れる。


「あ、二人ともおはよー」

「おはようさん」


 友人である香織と晴樹に軽く挨拶をして、しかしもう一人の友人がこの場にいないことに気づいた。


「あれ、アイクは?」

「まだ来とらんみたいやぞ。放っとったらそのうち来るやろ」


 なんて風に軽く考えながら、朝の時間を談笑で潰す。なんでもない日常。いつも通り、バカみたいな話でバカみたいに盛り上がって、いつもと違うのは、そこにひとり足りないだけ。


 授業開始の時間が近づいてくると、誰がなにを言うでもなく、それぞれが自分の席へ向かう。そうやって教師が来るのを待っていたのだが。


 背中に、ゾワリと悪寒が走った。


 織だけじゃない。教室内にいた全員が、吐き気すら催す気味の悪い魔力に気づいている。

 あるものは口を押さえ、あるものは両腕を抱いて震え、またあるものは痛む頭を抑えている。


 明らかな異常。愛美でさえ冷や汗を流すほどに。


「なんだ今の……なにか、起きようとしてるのか……?」

「とにかく行くわよ! 安倍! クラスのやつらはお願い!」

「任せとけ!」


 まだ症状がマシな晴樹にクラスメイトたちを頼み、織と愛美は急いで教室を飛び出した。なにが起きているのか分からないけど、まずは他のメンバーと合流だ。葵たち二年や朱音たち教師は、この魔力を受けてもまだ大丈夫だろうから。


 廊下を走っている道すがら、窓の向こうに、見てしまった。


 樹海の上空に開かれる無数の孔。その先に広がるのは虚無。魔術的事象の地平線と呼ばれる、異世界へと繋がる門が、開かれている。

 その孔から、巨大な影が出現した。


「ドラゴン……?」

「まさか、あの時の黒龍と同じやつじゃないでしょうね⁉︎」


 その種類は様々だ。岩の体を持つやつに、蛇のようにとぐろを巻いているやつ、翼を持たないトカゲじみたやつもいれば、全身が刃物で出来たやつまで。


 その一体一体から、異様な魔力がここまで届く。そのお陰で気分は悪くなる一方だ。生理的な嫌悪感が体の内側から這い上がる。各教室は今頃阿鼻叫喚と化しているのではないだろうか。

 愛美の言った通り、あの時の黒龍と同じ。いや、それ以上の魔力。


「どうなってんだよ!」

「あの孔を開けるやつなんて、限られてるでしょ」

「こっちから仕掛ける前に、わざわざ向こうからおいでなすったってことか!」


 急いで校庭まで転移する。他と合流している場合じゃない。あれがあの時の黒龍と同じなら、殺しきれるのは織たちキリの人間だけだ。

 俺たちがなんとかしないと。


 ホルスターを抜いて、瞳をオレンジに輝かせる。戦闘準備を整えたところで、また別の魔力反応。しかし今までとは違い、どこか安心感を齎すような、覚えのある魔力だ。


 無数のドラゴンたちが立つそこに、巨大な十字架が聳え立った。


「この魔術は……!」


 グランドクロス。

 既存の元素全てをミックスさせた、究極の広域殲滅魔術であり、禁術していされるほどの力を秘めたもの。

 それを使えるのは、この世界でただひとり。人類最強の男だけだ。


「織、やるわよ!」

「ああ!」


 突然のグランドクロスに面食らったが、これは好機だ。オレンジの輝きを増した織の瞳が、再生し始める無数のドラゴン全てを捉える。


 傍に立つ愛美が、居合の構えを取った。


「徹心秋水!」


 空色の刀身を抜き放つ。

 ただそれだけの動作で、全てのドラゴンが細切れに切断された。

 その場にいた敵は、ただのひとつも例外なく。愛美が持つ拒絶の力によって、呆気なく殺される。

 次いで、織が魔眼の力を使い孔を閉じた。


「しんどっ……」

「愛美⁉︎」


 幻想魔眼でサポートしたとはいえ、無理な力の使い方をしたせいか、愛美がその場で膝をついた。見れば、全身に小さな切り傷が。反動によるものだろう。下手すれば、愛美の体そのものが真っ二つになっていたかもしれない。


 だが、ドラゴンを退けて終わりではなかった。樹海からは未だ、魔力の反応が絶え間なく広がっている。孔から現れたドラゴンほどではないが、それでも数が多い。


「父さん! 母さん!」

「すいません、お待たせしました!」


 遅れてやって来たのは、朱音と葵。蓮、カゲロウ、翠の三人に、緋桜とサーニャもいる。

 先程ドラゴンを退けたのは見ていたのだろう。頽れた愛美を見て、察した葵が近寄り異能での治療をかけた。


「一体なにごとだよ、こいつは」

「ネザーの仕業なのは確定だろうけど、こんないきなりなんて……」


 困惑するカゲロウと蓮は、しかしそう言いながらもそれぞれ既に戦う準備を終わらせている。

 白銀の翼と同じ色の大剣に、対照的な黄金の聖剣。


「龍さんとルークさんは?」

「今日は見ていないな。先ほどの魔術といい、あやつらは先に別で動いていたのだろう。連絡の一つくらい、よこして欲しいものだが」


 サーニャの言う通りだ。なにも知らされないまま勝手に始めないで欲しい。


 たしかにあの時は、力がなかったのかもしれないが。今の織は違う。未だ遠く及ばなくとも、己が師の隣に立つくらいは出来るのだから。


「敵の情報は視える?」

「なんとか。でも……」


 言葉を渋る葵。問いかけた愛美は怪訝そうな目をするが、代わりに答えたのは翠だった。


「数は凡そ三万、と言ったところでしょうか。そのうちの一万ほどは、全世界の学院から集めた魔術師のようです」


 無感動な声音で告げられたのは、衝撃の事実。それはつまり、日本支部以外の魔術師全てが、敵に回ったということを意味している。

 なぜか、なんて考えるのも馬鹿らしい。どうせ無能な首席議会の仕業だろう。

 となれば必然、敵の正体にも辿り着く。


「残りの二万は、ネザーのゴーレムってわけか……お偉方があれこれ難癖つけて、ネザーと共謀してうちを潰そうって魂胆だろ」

「どうするの、父さん?」


 数の問題はこの際どうにでもなる。相手は有象無象の魔術師と、ただの機械人形だ。この場にいる全員の敵ではない。

 でも、まともに戦えば。間違いなく死人が出る。

 相手の魔術師は、首席議会の陰謀なんてなにも知らされていないだろう。本当に日本支部が悪者だと思って攻めて来ているはずだ。


 でも、だからって、戦わないという選択肢は存在していない。

 この場所を、学院を守らなければいけないから。人類最強の男とその仲間たちはいないのだ。織たちの背後には、多くの学友が残っている。まともに戦える状態のやつは殆どいない。


 覚悟を決めろ。こうして迷っている間にも、敵はすぐそばまで来ている。


「やるわよ、みんな」


 先に指示を出したのは、愛美だった。迷う織の代わりに、彼女は冷徹な判断を下す。


「私たちは、ここを守らないといけない。先生たちがいないんなら、私たちがやるしかないもの」

「でも、いいんですか? 相手の魔術師は、なにも知らされていないんじゃ……」


 当然、葵たちもその結論に至っている。今の首席議会がどれだけ腐ったメンツで構成されているのか、彼女らもよく理解しているのだ。

 その上で、愛美は首を縦に振る。

 守るべきもののためなら、相手が誰であろうと剣を取る。


「でも、誰も殺さない。手足の一本や二本は覚悟してもらわないとダメだけど、それでも、誰も殺したらダメ」


 そして、最も正しい道を行く。

 それが桐原愛美という少女だ。例えどれだけの理想論でも、それを叶えようと力を使うことに躊躇いがない。


 殺人姫の少女は、そのために力を求め、強くなったのだから。


「さあ、そうと決まればさっさと行くわよ。誰の前でどこに手を出したのか、連中に分からせてやりなさい」



 ◆



 この世界に現出した異世界のドラゴン。その全てが細切れに切断され、位相の孔が閉じられていく光景を、小鳥遊蒼は樹海の中から眺めていた。


「どうやら、向こうは上手くやってくれたみたいだ」

「あの数が出て来たのは、さすがに焦りましたけどね」


 傍に立つパートナー、彼方有澄が苦笑する。

 たしかに蒼も一瞬焦ったが、織たちが上手く察してくれたおかげで最悪の事態は免れた。

 いや、現状でも十分最悪か。


 なにせ首席議会の暴走を止められなかったのだから。


 しかし、次の一手は既に打っている。ここさえ凌げば、状況は好転するはずだ。


「などと、考えているのではあるまいな」

「だとすれば、甘いと言わざるを得ませんね。我々全員を相手に勝てるとでも?」


 蒼と有澄の眼前には、十人の魔術師が。全員が年老いた身でありながら、しかし魔術世界を牛耳るたしかな実力者。

 学院本部の首席議会、その全員が、この場に揃っていた。


「ひとつ、聞いておこうか。なぜネザーと共謀して、敵であるはずのグレイを利用までして、日本支部を消そうとする?」


 わざわざ聞かずともいい問いかけだ。時間の無駄でしかない。

 ただ、本人たちの口から、一度でもいいから聞いておきたかっただけ。


「ハッ、そんなことも分からぬか、小僧。目障りだからだよ! 我らの地位を脅かすものは、何人たりとも生かしておくわけにはいかんからな!」

「そうか……いや、それが聞けて安心したよ」


 これで心置きなく殺せる。


 なにもない空間から、刀を取り出した。それを見て、十人の敵が同時に魔力を練り上げる。なるほど、たしかに相当な魔力の量と質だ。この魔術世界を牛耳るだけはある。

 今まで直接ことを構えたことはなかったが、予想以上と言えよう。


 それでも、想定の範囲内。首席議会全員の力を合わせたとしても、人類最強には遠く及ばない。


「僕を人類最強と呼び出したのは、君たちだろう。その言葉の意味、身をもって教えてやるよ」


 一瞬のうちに敵集団の懐へ潜り込んだ蒼は、情け容赦なくそこにいた一人を斬り伏せる。まずは一人。

 仲間が容易く死んだことにも動揺せず、老人たちは冷静に魔術を放った。元素魔術、ルーン魔術、錬金術、陰陽術、呪術に死霊魔術。その道の達人が全力で唱えた最高峰の魔術だ。常人であれば、防ぐことなど不可能に近い。


 しかし、ここにいるのは人にあって人に非ず。肉体が魔術という概念そのものへと昇華した、人類最強の男。


「なにッ……⁉︎」

「貴様、なにをした!」


 蒼に殺到した九つの魔術は、直撃するよりも前にその動きを止めた。

 そもそも、小鳥遊蒼に魔術を以って挑むというのは、即ち勝ちを諦めているようなものだ。


 それが魔術である限り、蒼は絶対的な支配権を有するのだから。


 敵に動揺が走る中、瞬きの間に三人斬り伏せた。残り六人。

 動きを止めていた魔術が、それぞれの術者へ向けて襲いかかる。混乱の中冷静に対処することもできず、なす術もなく己の術に苦しめられている。


「派手に啖呵を切ったくせにその程度か?」

「くそッ! 調子に乗るなよ小僧!」


 一人が仕込み杖から刀を抜き、傍観に徹していた有澄へ襲いかかった。

 ため息をひとつ。どうしてこいつらは、こうも蒼の逆鱗に触れるのが好きなのか。


「その言葉、そっくりそのまま返してあげるよ」


 微動だにしない有澄へ向けて、刀が振るわれる。しかし、凶刃が届くことはなかった。

 蒼い炎が老人の全身を包み、その肉体のみならず、魂までも焼き尽くしてしまう。


「ひっ……」


 残された五人へ視線を向ければ、誰かが短い悲鳴を上げた。最初の威勢は見る影もなく、あろうことか全員が蒼に背中を向けて逃げようとする。


「逃がすわけないだろ」


 放たれた魔力弾が、逃げ出したうちの三人の心臓を的確に射抜く。残された二人は、蒼に直接啖呵を切っていた老爺と老婆。


「ま、待て、話せば分かる! 我々とてネザーやグレイに利用されていただけなんだ!」

「ここで殺してしまえば、魔術世界は混乱に陥るだけなのは、あなたとて分かっているでしょう⁉︎」


 醜い命乞いだ。それになんの感情も湧かず、淡々と蒼炎を放つ。断末魔を上げることすら許されず、首席議会と呼ばれた十人は全滅した。


「首のひとつでも取っといた方がいいかな。そしたら、学院の魔術師は止まるだろうし」

「汚いのでやめた方がいいと思いますよ。それに、あっちは織くんや愛美ちゃんたちがいますし、どうにかなりますよ」

「それもそうか。僕たちは、本命を叩くとしよう」


 ジッと睨め付ける先には、誰もいない。

 しかし、その空間が歪んだと思えば、ブロンドヘアの男性が現れた。不気味なほどに穏やかな笑みを携え、両耳には見覚えのあるイヤリングが。


「お初にお目にかかるね、小鳥遊蒼。私は異能研究機関ネザー代表、ミハイル・ノーレッジだ」


 慇懃な態度で腰を折るミハイル。

 そこに、赤黒い槍が殺到した。ミハイルを穿つその直前、しかし槍は不自然な動きで男の体を避ける。


 蒼の仕業ではない。だがこの槍には見覚えがある。


「ふむ、勢揃い、といったところか? どうも、丁度いいタイミングで来てしまったようだ。貴様はこの展開も知っていたか?」


 突然漂い始めた霧が一箇所に集まり、人の形を形成した。

 魔女の仇である、灰色の髪を持った吸血鬼。

 傷は完全に癒えていないくせに、どうしてこの場に現れたのか。


「君は完全に想定外だな」

「そういうな、転生者。私は今回、貴様らに構う暇がないのでな。目的はそこの男だけだ」


 人類最強と灰色の吸血鬼。その両者と相対してなお、ネザーの代表は笑みを崩さない。

 蒼ですら、この男の思考は読めない。こいつ自身に大した力があるわけじゃないのだ。魔術師として見れば、よくて中の上といった実力か。

 しかし、その異能は恐ろしいの一言に限る。蒼とグレイの両者を手玉に取るほどの頭脳も合わさり、厄介この上ない相手だ。


「ミハイル・ノーレッジ。貴様には、我が子が随分と世話になったからな。ひとつ礼をくれてやる」

「それには及ばないよ、グレイ。私は君に興味がない。君のことは、すでに全て知っているからね」

「ほざけ」


 ミハイルの足元の地面から、槍が伸びた。容赦なくその体を串刺しにして、あたりに鮮血が飛び散る。

 まさかそれで終わりなわけがなく、別の場所から無傷のミハイルが現れる。槍に刺された体は、霧散して消えた。


「少し落ち着くといい、グレイ。私は君に、ひとつ教えたいことがあるんだ」

「なんだと?」

「プロジェクトカゲロウに使われた、人間の遺伝子についてさ」


 プロジェクトカゲロウ。人間と吸血鬼の混ざり物を作り、位相へたどり着こうとしたネザー史上最大の計画。

 蒼はそのプロジェクトについて、あまり深く踏み込んでいない。当然情報は全て把握しているが、所詮はそれだけだ。

 言ってしまえば、蒼には関係ないから。


 けれど、目を見開いた吸血鬼を見るに、どうやらまだ隠されている真実があるらしい。


「貴様……やはり、やはりかッ! よりにもよって、俺を最も怒らせる選択をしていたとはなァ!」


 赤黒い槍を携え、激昂しながら肉薄するグレイ。振るった槍はミハイルの眼前で動きを止める。そこの空間が歪曲しているのだ。

 恐らく、イヤリングに込められた異能の力だろう。グレイの情報操作をもってしても打ち破れない異能。


「度し難いほどに愚かだな、ネザー! いや、人間! 貴様らはどれだけ、あいつを辱めるつもりだ!」

「おや、気に入らなかったかい? 君と君の愛した人との子供が、三人もいると分かったんだ。喜ぶべきではないかな」

「本気で言っているのだとしたら、救いようのない愚者だよ、貴様は!」


 あのグレイが、ここまで怒り狂うとは。

 二人の会話は少しも理解できないが、それだけのなにかが、グレイの中にあるのだろう。

 感情のままに何度も槍を振るい、笑みを崩さず全てを躱され、余計に吸血鬼の怒りは増していく。


「少し待ってもらおうか」


 ピタリと、グレイの動きが止まった。いや、蒼が止めた。なにか魔術や異能を使ったわけではなく、その背に向けた殺気ひとつで。

 こちらの言うことを聞かないなら、その背中を斬るぞ、と。言外に告げたのだ。


「邪魔をするな、転生者。こいつはこの場で、俺が殺す」

「いやいや、吸血鬼の手を煩わせるまでもないさ。彼には、彼自身の望みで破滅してもらうことにするからね」


 蒼の言葉の真意が伝わらなかったのか、グレイなら訝しげな目を頂戴してしまう。説明するより、実際に見てもらった方が早いか。


「有澄」

「はい」


 有澄に合図を送れば、彼女は取り出した杖を一振りして、孔を開く。


「おお、それは……!」


 興奮した面持ちのミハイル。

 それもそうだろう。有澄が開いた孔は、異世界への扉に他ならない。

 ミハイルが朱音の血から解析した位相の力、それによって使っているあの孔は、あくまでも向こうから一方的に力を取り出すものだ。

 先日の黒龍と同じように、愛美が刀の一振りで全滅したドラゴンたちは、異世界からその力だけを抽出し、この世界に現出させていた。


 それとは違う。本物の扉。

 力だけではなく、魂と肉体すらあちら側に送るための。


「その先に、私の知識にもない未知の世界が……!」

「お望みとあらば、ここを通るといい。安心してくれ、本来なら転生者やそこの吸血鬼レベルで強い魂じゃないと通れないけど、そのあたりは調整してやった。ただの人間の君でも、向こう側に辿り着けるよ」


 恍惚の表情すら浮かべ、ふらふらとした足取りで孔へ近づくミハイル。その体が、ついに孔の向こうへ完全に入った。


「貴様、どう言うつもりだ」

「どうもこうも。見ての通りで言った通りだよ。あいつには、自分の願いで破滅を迎えてもらう。ああいう狂人には、そんな最後がお似合いだからね」


 ジッと見つめてくるグレイに、蒼は不敵な笑みを浮かべるのみだ。

 やがて興味を失くしたのか、あるいは理解を諦めたのか。吸血鬼はこちらに背を向ける。


「そう簡単に逃げれると?」

「ふん、貴様は今から、あちら側に向かうのだろう。ならば誰が私の相手をするのだ?」

「そりゃもちろん、頼れる仲間たちさ」


 グレイの目の前で、空間が裂けた。

 ミハイルが使った歪曲とも違う。文字通り、斬り裂かれたのだ。その向こう側はまた別の空間に繋がっており、二つの影がおどり出る。


 咄嗟に槍を取り出したグレイへ、影が襲いかかった。防御もままならず呆気なく両腕を斬り落とされ、忌々しげな舌打ちが。


「やっとボクらの出番だね」

「予定とはだいぶ違う相手みたいだがな」


 頼れる仲間たちこと、剣崎龍とルーク。

 共に西洋剣を携えた二人が、灰色の吸血鬼の前に立ちはだかる。


「それじゃ二人とも、こっちは任せた。僕と有澄はあっちで後始末をしてくる」

「任された!」

「こりゃ骨が折れそうだ」


 有澄と共に、孔の中へ入る。

 真っ暗な虚無だけが広がるように見えるが、しかし実際は違う。一度その孔を通ることが出来れば、視界には異世界の光景がすぐに広がるのだ。


 めいいっぱいに広がる、一面緑色の草原。東の遠くに見える城下町は、彼方有澄の生まれ故郷。反対に西側には、深い森が。北には険しい山が聳え、少し南に進めば海も見えることだろう。

 それだけを見れば、随分のどかな光景に思える。しかし、その実態は全くの正反対だ。


「は、ははは……ついに、ついに私は辿り着いた! 私の知らない未知の世界! 位相の向こう側に!」


 先にこちら側へ入っていたミハイル・ノーレッジは、一人歓喜の声を上げていた。

 嬉しそうでなにより。まあ、そうやって喜んでいられるのも、今のうちなのだが。


「さあ、実験だ! まずは街に向かって、実験体の確保から、いやここはこの世界の魔物を使うべきか? ああ、迷う、迷うなぁ! この世界の人間の解剖もしてみたい! 魔術理論や異能に該当する力はどうなっている⁉︎ 国や土地の勢力図は⁉︎ いい、いいぞ、知的好奇心が刺激される! ハハハ、ハハハハ──」


 狂気じみた笑い声が、不自然に止まった。

 ボゴッ、と。人体から聞こえてはいけない声と共に、ミハイルの右肩あたりが物理的に膨張する。


「な、なんだ、これは、この魔力はなんだ……⁉︎」

「適応できないんだよ」


 次は左側頭部。次いで左の脇腹、右ふくらはぎと、ミハイルの体は内側から膨張する箇所を増やしていき、最早原型を留められていない。


「この世界は、僕たちの世界と違う魔力法則で動いている。当然、この世界の人間はこの世界の魔力に合わせた作りになっている」

「ごぼ、ごぼぼ、ぼ……」


 口のあたりも膨らんでいて、まともな言葉すら話せない。ただ、蒼からの残酷な事実を聞くことしかできなくなっている。


「位相というフィルターを通していないからね。普通の人間がこの世界に来たら、まず魔力に適応できず、内側から食い破られて体が破裂する。今の君が、これから辿るように」


 普通じゃない人間。蒼たち転生者や、キリの人間でない限り。

 こちらの世界では、生きることすら許されない。どのような世界なのかを知ることも出来ず、死ぬ。


 パンッ! と、風船の破裂するような音が鳴った。ミハイル・ノーレッジだったものは、あたりに血を撒き散らし、こんなにも呆気なく命を落とした。


「性格悪いですよ、蒼さん。普通に殺してあげればよかったじゃないですか」

「言っただろ、この手の輩は、こういう最後がお似合いなんだよ」

「それにしても、です。わたしの世界を汚い血で汚さないでください」

「ごめんごめん」


 苦笑しつつ、指を鳴らす。

 草原に飛び散った血と肉片は、蒼い炎に焼かれて消え失せる。

 これで本当に、血も肉も、魂さえも。

 この世に存在していた証明をなにひとつ残さず、異能研究機関ネザーの代表は、世界から消えた。

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