第115話

 洞窟の最奥で椅子に座っていたのは、因縁深い灰色の吸血鬼。

 つい反射的に黒翼を広げ得物を手に持ち、カゲロウに諌められた。


「どういうつもりよカゲロウ!」

「落ち着けチビ」

「落ち着いていられるわけッ……!」

「いいから、ちゃんと視てみろ」


 ハッとして、映されたグレイの情報をよく視てみる。外傷こそないものの、彼の体は内側がズタボロだ。織から受けた傷は、まだ完全に癒えていない。


 グレイ本人からも戦意は感じられず。

 そもそも、そうしてちゃんと異能が使えていること自体が、彼に戦いの意志がないなによりの証左だ。


「それで、私になんの用があって、ここを訪ねた? まさか呼ばれていたから来てやった、とは言うまい」

「そっちこそ、なんのつもりでオレを呼んでやがった」


 呼んでいた、と。カゲロウは先ほどもそう言っていた。それがどういう意味なのかは分からないが、こうして葵を連れてここまで来たのだ。カゲロウはカゲロウで、なにかグレイに用件があったのだろう。


 逆に、この灰色の吸血鬼が、意味もなくそんなことをするとは思えない。


「親切心だよ」

「んだと?」

「そろそろ、色々と思い出したくなって来た頃合いだろう? となれば必然、私かネザーの代表に頼むしかあるまい」

「チッ……」


 露骨な舌打ちをするカゲロウを見て、どうして彼が葵を伴いこの場に来たのかを理解した。

 葵もカゲロウも、未だ記憶にロックがかかったままだ。カゲロウは五十年前より以前の、葵は十年前に黒霧家の両親が死ぬより以前の記憶が。


 それを思い出すために、ここへ訪れた。


「その通りだよ。オレは、オレたちの記憶を戻してもらうため、ここに来た。お前ならできるんだろ」

「たしかに、私の異能なら可能だ。だがいいのか? 知らなければ幸せなことも、この世界には存在しているんだぞ?」

「今更だな。話だけなら、サーニャのやつから聞いてんだよ」


 チラリと、グレイの視線が葵へ向けられた。お前はどうかと、その紅い瞳で問われている。


 でも、こんないきなり。記憶が戻る、なんて言われても。しかも戻してくれるというのがグレイだ。

 葵はまだ、この吸血鬼に対する自分の感情に、ちゃんと向き合っていない。


「ひとつ、教えて」

「答えられるものなら、いくらでも」

「どうしてあなたは、私やカゲロウにそこまでするの? 私達は敵でしょ?」


 根本的な疑問。今も、十年前も、この吸血鬼がなにを思い、葵やカゲロウに手を貸すのか分からない。


 自分たちは敵同士のはずだ。当初はグレイもカゲロウの身柄を確保しようと動いていたし、先輩たちの持つ賢者の石は、未だに狙われている。

 なのにどうして。


「貴様ら二人が、の血を分けた子供だからだ」


 答えは、まるで予想していなかったもの。

 この吸血鬼の口から、魔女の命を奪ったこいつから、そんな言葉が吐き出されるなんて。


「信じるか信じないかは、貴様ら次第だがな。少なくとも俺は、我が子というやつに多少の情を持ってはいるのだよ」


 苦笑と共に聞かされた言葉には、しかしその表情とは裏腹な真剣さが滲んでいる。


 直感した。

 なんの証拠もないけど。この吸血鬼は、根本のところで桐生織と似ているのだ。

 家族、なんて言うつもりはグレイにもないだろう。それでも葵とカゲロウ、翠の三人は、間違いなくグレイの遺伝子を受け継いだ子供だ。


 肝心なところで、非情に徹しきれない。

 織と程度の差はあれど、最後の一線を越えられない。


 だって、グレイが本当に手段を選ばなければ。カゲロウなんかとっくの昔に捕まっているし、葵と翠は今こうして普通に生きてなんかいられない。

 自分の子供だから殺せない。敵に回れない。それどころか手を貸してしまう。


 これは優しさなんてものではなく、グレイが持つ唯一の甘さであり、弱さだ。


 まるで正反対に思えて、織とグレイは根っこが同じだった。

 あるいは、織が道を踏み外してしまえば。世界を作り変えるという魔眼の使い方を、間違えてしまえば。

 その先に待つ彼の姿こそ、灰色の吸血鬼であるのかもしれない。


「さて、どうするシラヌイ。いや、黒霧葵。真実を知りたいか?」

「私は……知りたい。私が生まれた時から、今日ここに至るまでの全部を」

「望まぬ過去だとしてもか?」

「それでも。どんな過去でも、今ここにいる私が揺らぐわけじゃないから」


 文字通り、すでに過ぎ去ったことだ。

 どうでもいいとは言わないけれど。葵にとって大切なのは、過去ではなく今。

 大切な人たちと一緒にいられる時間こそが、なによりも大事だから。


 長く、重い息が、吸血鬼の口から吐き出された。感情までも一緒に吐き出してしまうようなため息が。


「黒霧の家に預けて、正解だったかもしれないな。いや、今こうして敵対している以上、私からすれば間違い、と言えばいいのか」

「それは、どういう──」

「その強い心を、大切にしろ。人間であろうが吸血鬼であろうが、芯がブレない者は強い。貴様や、桐生織がそうであるように」


 親愛が込められたその瞳を見てしまい、葵は言葉を返せなかった。

 葵がどう思っていようが、グレイにとっては我が子の一人。その事実が変わることはない。


 逆に、だ。グレイからそんなものを向けられたとしても、葵が心を許すことなんてない。

 だって、この吸血鬼は。


「あるいはあの魔女も、くだらないことにうつつを抜かさず、復讐だけに心血を注いでいれば、殺されたのは私だったかもしれないな」


 躊躇うことなく、刀を振るった。


 呆気なく胴体から離れた首が飛び、断面からは夥しい量の赤黒い血が流れる。

 しかし吸血鬼は、一瞬にして元の体へ再生した。飛び散った血は跡形もなく綺麗に消えて、不意の攻撃を受けたにも関わらず、グレイの表情は大きく動かない。


「あの人の決断を、バカにするな」


 グレイは逆鱗に触れたのだ。

 葵の。あるいはこの場にいない、あの三人の。


 広げた黒翼が鋭利なものに変化する。薄暗い洞窟内で輝く真紅の瞳は、その怒りを表しているかのようだ。

 蓮の血を摂取していないにも関わらず。葵はその怒りひとつで、自身が眠らせている力を現出させていた。


「私たちとの未来を求めてくれた、あの人の。桃さんの意思を、想いを、他の誰でもないお前が、笑うなッ!」

「いや、失敬。魔女の話は禁句だったかな?」


 怒りのあまり、刀を握る手が震えるほどに力を込める。体の周りに稲妻が迸り、バチッ、と火花の散る音がした。


 今の葵が桃と会ったことなんてない。彼女の前で表に出たことはあるけれど、言葉を交わしたわけでもなかった。

 それでも、彼女は。

 あの二人に優しくしてくれた。あの二人を守ってくれた。その奥にいた私のことすら見抜いていて、それでも変わることなく、あの二人と接してくれて。


 大切な人なんだ。恩人なんだ。


 あろうことか、そんな魔女の命を奪った張本人が、彼女のことを笑うなんて。

 そんなことは、断じて許さない。


雷纒・帝釈天インドラッ!!」


 空も見えない洞窟内に、雷が落ちた。

 雷の羽衣を纏った黒霧葵は、決して許すことのできない仇敵ちちおやに向かって吼える。


「過去の記憶なんてもうどうでもいい! この場で、殺すッ……あの人の仇を取る!」

「だそうだが。カゲロウ、貴様はどうする?」

「はぁ……こうなるとオレには手をつけらんねえよ。娘宥めんのは父親の仕事だろ」



 ◆



 本当は、こうなる前に止めるはずだった。


 その身体を完全に稲妻へと変えたツインテールの少女が、青白い軌跡だけを残して、赤黒い槍を持った灰色の吸血鬼と何度もぶつかる。


 そんな様子を見ながら、カゲロウはため息を我慢できなかった。できるはずもない。

 黒霧葵は直情的に見えて、理性的な性格だ。風紀委員の中で言えば、委員長殿に並ぶほどには。


 しかし相手はグレイだ。葵自身とも因縁深い吸血鬼。すんなり話が通るとは思っていなかったし、だから葵を止めるために、わざわざ血を摂取していたのに。

 それがまさか、こんな激情に囚われて、怒り叫ぶままに動くとは思っていなかった。

 だからこれは、位相の力を現出させる前に葵を止められなかったカゲロウのミス。


 動きが鈍った理由は二つ。

 葵が思ったよりも早く行動に出た、すなわち怒りのままに動くのが予想外だったから。

 そしてもうひとつ。彼女の言葉に、純粋な疑問を覚えたから。


「ッアァァ!」

「いい動きだ! 位相によって引き出される魔力、うまく使えているじゃないか!」


 今そこで戦っている彼女は、どうして。話したことも、会ったこともない人間のことで、そこまで怒れるのか。


 魔女、桃瀬桃。

 その話はカゲロウも聞いている。カゲロウが学院に来る二ヶ月ほど前。グレイによって殺された、桐原愛美の親友。桐生織の恩人。黒霧葵の姉貴分。

 しかしその葵は、今ここにいる彼女ではない。消えてしまった二人の妹だ。

 桃が生きている頃、本当の葵はまだ眠ったままだった。


 妹の大切な人。だから今の葵にとっても同じく。

 そうだとしても、躊躇いなく首を斬り落とすまで怒れるものなのか?


「分かんねえな……」


 カゲロウが守りたいと思う者たちは、彼自身が直接関わったことのある、極一部の親しい者たちだけ。

 糸井蓮、黒霧葵、桐生朱音、サーニャ。

 その四人だけだ。極端な話、それ以外はどうでもいい。彼ら彼女らのために他の人間を守り助けようとはしても、それは結局、その四人のためだ。


 いつだか、翠になぜ戦うのかと問われたことがあったか。

 あの時はラブ&ピースのためだ、なんて嘯いていたけど。


 半吸血鬼の少年は、本当に身近な者たちのそれしか守る気がない。


 だから、理解できない。

 蓮が、見知らぬ誰かのために戦おうとすることも。

 葵が、会ったことも話したこともない魔女のために怒れることも。


 しかしカゲロウは、そんな彼らの想いこそを守りたいと、そう望んだ。

 そのためにはやはり力が必要で、ならば自分のルーツを知らなければならず、だからこの場へやって来た。つもりだった。


 今も頭の中で燻っているのは、数日前からずっと感じている疑問。

 長くとは言わないが短くもない、あの敗北者の少女との付き合いの中で生まれた、純粋でシンプルゆえに難解な問い。


 家族っていうのは、なんなんだろうか。


 きっとオレは、それを知りたくてこの場に来たんだ。



 ◆



 葵とカゲロウに続いて風紀委員会室を出た蓮、朱音、緑の三人は、ある人物を求めて校舎内を彷徨っていた。


 蓮の師とも言える、剣崎龍だ。

 ついでにルークも。大体あの二人はセットだから。

 しかし、どこを探しても二人の姿は見えなかった。職員室、図書室、食堂、あるいは以前聖剣が置かれていた空き教室。そのどこにも二人はいなくて、最終的に行き着いたのは学院長室だ。


「それにしても、どうして龍さんなんですか?」

「たしかに朱音の方が強いかもだけど、あの人の方が経験は上だろ? ならあの人にしか出来ないアドバイスとか、あると思うんだ」

「むう、その通りですが」


 少し不満げな朱音に、蓮は苦笑を返す。翠は元より、誰に頼るかを蓮に任せているみたいだ。横から口を挟んで来ることはない。


 学院長室の中からは、複数人の声が聞こえる。目的の人物の声も混じっていて、ひとまず蓮は安堵した。

 しかしわずかに聞こえてくる単語は、頼る、今がその時、使い所だ、この世界、となにやら真剣な話をしているようだ。

 そして最後に聞こえたのは、アダムという、恐らく人物名らしきもの。


 入っていいのか逡巡している間に、中から扉が開かれた。


「おや、これは珍しい三人だね。蒼になにか用でも?」


 驚いたように言うのは、ついで扱いしていたルークだ。中を覗き込んでみれば、蒼と龍が向かい合ってなにやら言い合いをしていたようだった。

 邪魔をしたかと思いつつも、しかしルークから中へ促され、三人は学院長室へ足を踏み入れた。


「……龍、悪いけどこの話はここまでだ」

「まあ、しゃあないな。後でそのあたりはちゃんと決めるぞ。アダムに頼るなら、早い方がいいからな」

「頼るつもりはないけどね」

「お前な……!」

「ストップ! そこまでですよ二人とも! その話は一旦中断なんでしょう⁉︎」


 まだ言い合いを続けようとする二人を、有澄が遮った。二人とも納得していなさそうではあるが、渋々と引き下がる。

 なんの話をしていたのかはサッパリな蓮たちに、傍観に徹していたらしいルークが口を開いた。


「それで? 君たちはどうして学院長室に? まさかバカ二人の口喧嘩が聞こえたから興味本位で、なんてことはないだろうし」

「興味がない、わけではありませんが」


 朱音が真っ直ぐ、蒼を見つめる。

 なにを聞きないのか察したのだろう。しかし蒼はため息を吐くだけで、まともに答えてはくれない。


「まあ、朱音に関係ないことはないか……そのうち話すよ。それで、君たちの要件を聞こうか」

「剣崎さんとルークさんを探してたんです。朱音と翠のレコードレスを完璧に仕上げたいから、その相手をお願いしようかなと」


 二人の相手、しかもドレスを使ってとなると、相手をできるのは限られてくる。龍とルークは、そんな数少ないうちの二人だ。

 そして理由はもう一つ。


「それにあなたたちなら、俺たちや先輩たちよりも位相について詳しいですよね?」


 へぇ、と愉快げに口角を上げる蒼。その反応から見るに、蓮の言葉は正しいのだろう。

 実際、確証があって発した言葉だ。変に否定されると、逆になにかあるのではと疑ってしまう。


「君の弟子は、随分頭が回るね」

「まあな。だがそれくらいなら、普通に考えると気がつく」


 異世界からの来訪者。彼方有澄がいるからだ。キリの人間以外で、最も位相との関わりが深いのが有澄。そして、その仲間である三人の転生者も。


 織たちキリの人間と違うのは、位相との関わり方だ。


「位相そのものとの関わりは薄い方だよ。あれはこの世界に力を齎した扉。あるいは、その力をこの世界に適応させるためのフィルターだ。有澄が異世界から来たのは、もう知ってるよね?」


 三人ともが頷きを返す。翠が知っているということは、それはすなわちネザー側もその辺りを掴んでいる、ということだ。


「位相の向こう側、扉としての機能は利用していても、純粋な力としては理解していない。そういうことですね?」

「はい。わたしでもあれを力としては使えませんし、そもそもこの世界の魔術とも、わたしの世界に存在する術とも違いますから。位相の力、レコードレスは正真正銘、キリの人間にしか使えないものなんです」


 桐生、桐原、黒霧、亡裏の四家と、翠や桃のような一部例外。使えるのは本当に、限られた極一部の人間のみ。

 しかしレコードレスの真価は、位相の力を扱えることではない。


「ドレスを完全に使いこなしたいんだろ? だったら注視すべきなのは、位相の力じゃないと思うけどな」

「キリの人間としての特性、ですか」


 呟いた翠には、葵によって齎された黒霧の持つキリの力が備わっている。

 すなわち、心。

 緋桜と葵の二人が特に顕著だ。その者が持つ想いを直接力に変える。それを理解してからの緋桜を見れば、キリの力がどれだけ強大か理解できるだろう。


「レコードレスによる位相の力とは、すなわち純度100%の魔力や異能を引き出す、フィルターを通さずに行使すること。でもドレスの力はそれだけじゃない。それぞれが持つキリの力を増幅させること。違うかな?」

「父さんは幻想魔眼を、母さんは拒絶の力と繋がりの力を、完璧に使いこなせるようになりますが」


 その推測に頷いた朱音が、でも、と続ける。

 少し俯いた表情は浮かないものだ。


「私の持つ力は……略奪の力は、そこに起因するものじゃない……」

「可能性としては、三つの仮説があるんじゃないかな?」


 ピンと三本指を立てたルークは、ソファの上で横になっていた。こんな時でも自由奔放な人だ。


「一つは、色んなキリの力が混じって、略奪の力が形成された説」

「しかし朱音は、その力が真価ではない、と言われていたのをわたしも聞きました。その仮説はあり得るのでしょうが、朱音が求めるものとは違います」

「なら二つ目。純粋に使い方を間違えている、勘違いしている説。略奪の力は本来、魔女が使っていたものだろう? それが自分の使える力だと勘違いして、間違えた形で使っている」

「ならそもそも、桃さんが使っていた力はどこから来たものか、という話になりますが」

「……それが三つ目か」


 満足げに頷いたルークが、勢いをつけてバネのようにソファから立ち上がった。


「そう、それが三つ目だよ。亡裏も把握していなかった、全く別の力。後天的に生まれた、キリの特性」


 キリの人間自体、後天的にそうなることが可能なものだ。この場にいる翠も、黒霧の血を継いでいない葵も。もしかしたら、今は亡き魔女だって。

 だったら、その力も新たなものが生まれていたっておかしくはない。


 しかしそれにしても、一つ目の仮説と同じ反論が出来てしまう。

 朱音は亡裏の里で、略奪は真の力ではなく、本領は別のところにあると言われた。なら最も可能性が高いのは、二つ目の仮説だ。


「間違えて使ってるとしても、朱音は桐生と桐原の間に生まれた子だ。なら当然、その二つも使えるはずだし、桐原先輩が亡裏の血族だったんなら、それも例外じゃないはず……」

「はい。実際私は、父さんと母さんの異能を受け継いでますから。転生者として、ですが」

「それだけじゃないでしょう、朱音」


 傍に立つ翠が、紅い瞳で朱音を見つめている。彼女はその視界に、なにかの情報を映しているのか。

 だが翠の言い回しから、蓮も察するものがあった。


 まさかとは思うが、そもそもがキリという概念自体曖昧であやふやなものだ。後天的になれることと言い、愛美のように二つ以上の特性を継いでいたり。

 だから、あり得ない話ではない。


「もしかして、だけどさ。朱音って名前、誰につけられた?」


 恐る恐る聞いてみれば、朱音は不思議そうに小首を傾げる。どうして今更そんなことを、と言いたげな表情だ。


「未来の葵さんたちですが、それがどうか、した……」


 言葉が途切れる。

 気づいたのだろう。自分が受け継いでいる力が、一体どれだけあったのかを。


 未来の葵たち、とは。

 すなわち今この時代で生きている、シラヌイと呼ばれた葵ではなく。彼女の妹たる、消えてしまった二人のこと。


 まさか、こんなところに。彼女たちの置き土産が残っていたなんて。

 あの二人がいた証は、もう自分たちの心の中にしかないのだと、そう思っていたけど。

 でも、朱音が今ここで、桐生朱音として生きていることこそ。蓮が大好きだった、あの二人の生きたなによりの証だった。


 思いもよらなかった事実に、鼻の奥が僅かツンとする。

 未来では二重人格の呪いが解けていなかった、とは聞いていたけど。まさか、朱音の名付け親だなんて。

 脳裏には多くの思い出が一瞬で蘇って、けれど蓮は、それらを振り切るようにして言葉を発した。


「四つ目の仮説。いや、もはや仮説じゃないな。これで確定だ。朱音は、キリの人間が持つそれぞれの力、特性を、全部使えるんだ」


 その全ての意志を継ぎ、未来を変えるために戦う少女。

 敗北者ルーサー、桐生朱音。

 なんど敗北を重ねても決して諦めることなく、転生してまであがき続ける。

 終わりを迎えた世界を救い、まだどこにも記録されていない未来を作るために。


 それがどれほど困難で、ただの幻想に過ぎないのだとしても。


「答えは、見つかったかな?」


 優しい声がかけられ、朱音がハッとして顔を上げる。

 頷きが一つ。その瞳には、強い光と意志が宿っていた。


「はい。多分、大丈夫です。ご迷惑をおかけしました」

「こんなの、迷惑のうちに入らないですよ。朱音ちゃんはもっと、わたしたちを頼ってくれていいんですから」

「そうそう。これでもボクたち四人は、世界最強のチームだからね。お望みとあらば、いつだって力になる」

「今からだって付き合ってやるぞ。とりあえず、校庭で軽く手合わせでもするか?」

「はい。お願いします!」


 やる気満々な朱音の元気な返事に、他の面々はみんな笑顔になる。早速龍とルークを伴い、校庭へと向かってしまった。

 残された蓮と翠も、蒼と有澄に一礼して学院長室を出る。


「あとはわたし、ですね」

「でも、翠はドレスに慣れるのが目的だろ?」

「だから朱音よりも簡単だ、と?」

「そうは言わないけどさ」


 チロリと睨まれて、つい苦笑を返してしまう。翠はなぜか、蓮に対して若干当たりがキツイ時がある。

 葵のことが結構大好きっぽいし、その辺が理由かな、と思っているのだけど。


「翠の実力は、実際に戦った俺もよく知ってるつもりだよ。だから、翠なら大丈夫だって思ってるだけ」

「……そうですか」


 柔らかく笑顔でそう返してやれば、そっぽを向かれてしまった。照れてるのだろうか。姉に似て、可愛いところがあるものだ。


「さっさと行きましょう。でないと、朱音が一人で先に始めてしまいます」


 足早に先を行く翠の背中を見て、蓮はククッと喉を鳴らした。

 本当、姉に似て可愛い子だ。その姉から溺愛されているのも、少しわかる気がした。

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