ハロウィン狂騒曲

第96話

 トリックオアトリート。

 ハロウィンにおいて、子供達が口にする合言葉、のようなものだ。

 お菓子をくれなきゃイタズラするぞ。なんとも可愛らしい言葉じゃないかと、織は漫然と思う。


 元来ハロウィンとは、その起源を古代ケルトまで遡るものだ。生贄を捧げる悪魔崇拝の儀式。あるいは、現代日本におけるお盆のような、亡くなった人たちが現世に帰ってくる日とも。その際に悪い霊が紛れ込むため、魔除けのために仮面を被る。

 それに因んでジャックオランタンや仮装などが生まれ、現代の祭りとして定着した。


 魔術的な意味も多分に含まれた儀式、行事ではあれど、日本に住む織からすれば縁遠いものだ。俗世に染まりきったイベントの一つに過ぎない。


 そう思っていたのだ。今日この日までは。



 ◆



 黒龍との戦いから数日が過ぎた。

 その疲労が未だ抜け切らないままに週末が訪れ、気がつけば街はハロウィン一色。というか、今日がまさしくその日だ。


 相変わらず仕事なんて皆無に等しい桐生探偵事務所。自分の席に背中を預けて天井を仰ぎ見る織の目は、元の黒に戻っている。

 以前まで暴走していた賢者の石を、黒龍との戦いで無理矢理使った。あるいはそれが、一種の毒抜きのようになったのか。それとも、レコードレスを併用した影響なのか。


「世界を作り変える、ね……」


 クリスと話していた、幻想魔眼の力について思い返す。そうすれば自然と、死んでしまった四人のことが過って、どうにも気分が落ち込んでしまう。


 深い関わりがあったわけではない。隊長の村雨とは何度か言葉も交わしたし、比較的仲良くなれたとは思っていたけど。

 それでも、知っている誰かが死んでしまうということに、織は未だ慣れないでいる。


 世界中を飛び回り、石持の魔術師を倒していた時にも、似たようなことは何度だってあった。協力してくれた現地の魔術師が、次に会った時には死体と成り果てていたなんて、両手の指では足りないくらいに。

 その度に落ち込んで、でもやらなければならないことがあったから、飲み込み切る前に次の戦いへ赴いて。


 磨耗していく心を繋ぎとめてくれていたのは、いつだって彼女の存在だった。


「トリックオアトリート」


 天井を仰いでいた織の顔に、影が差す。長い髪を垂らして覗き込んできたのは、大切な家族で最愛のパートナー。

 つい先日までついていた猫耳と尻尾は、織が魔眼の制御を取り戻したことで消えてしまっているけれど。それでも、その笑顔が世界で一番可愛いことに変わりはない。


「父さん! お菓子くれなきゃイタズラするよ!」


 一緒に二階から降りてきたのだろう。頭に三角帽子を被り、黒いマントを羽織っている朱音が元気一杯に可愛い脅しをかけてきた。

 まあ、朱音の場合だと、イタズラがシャレにならない可能性もあるのだけど。


 体を起こした織の顔には、自然と柔らかな笑みが。愛美の気遣いが、心に染みる。


「そういや、今日ってハロウィンだったな」

「お菓子ちょうだい!」

「それとも、私たちからイタズラされたい?」


 クスクスと小悪魔じみた笑みの愛美を見ていると、それもいいかなぁ、とか思っちゃう。ただ、健啖家なこの親娘のことだ。本命はお菓子だろう。イタズラなんて、特になにも考えていないはず。


「イタズラは勘弁。だからなんか作るよ。材料買いに行かないとだな」

「やったー! じゃあ私、その間に他の人たちからもお菓子もらってくるね!」


 言うが早いか、朱音は早速どこかへ転移してしまった。おそらく学院に向かったのだろう。後輩三人は休みの日でも関係なく、学院にいるらしいし。


 後輩といえば、葵と蓮はその後どうなったのだろうか。まだ詳しい話を聞いていないし、今週も風紀委員会室ではいつも通りだった。上手く行っていればいいのだが。


「さて、材料買いに行くか」

「なに作るの?」

「無難なとこでパンプキンケーキ。商店街よりもスーパーの方がいいかな。お前来る?」

「もちろん」


 最近は二人きりになることが少なかったから、久しぶりにデートみたいなものだ。

 心を浮つかせながらも立ち上がったが、しかし。


 織の純情な男心を踏みにじるように、事務所の扉が開かれた。


「すいませーん……」


 現れたのは、二十代半ばほどの女性。なんともタイミングが悪いが、依頼人だろう。


「あの、桐生探偵事務所って、ここで合ってます、よね?」

「ああ、合ってますよ。どうぞ、ソファに掛けてください」


 愛美がお茶を淹れに行き、その間に織は女性をソファに勧める。お互い対面に腰を下ろせば、愛美が淹れたお茶を持ってきてくれた。

 その間ずっと、女性はそわそわと落ち着かない様子だ。こう言ったところに来るのが初めてだからだろうか。もしくは、床で寝ている狼に怯えているのか。


 そもそも、今まで事務所に来ていた依頼人はみんな、織の顔見知りだった。大抵が商店街の人から、探偵の仕事とは思えない修理やらなんやらを頼まれたり、知り合いの犬が迷子になったので探したり。


 こうして見知らぬ人が依頼に来てくれるのは初めてなので、少し気合が入る。


「それで、今日はどう言ったご用件で?」

「えっと、こんなこと探偵さんに言っても仕方ないと思うんですけど……」


 不思議な前置きに、思わず愛美と顔を見合わせる。そうして聞いた話は、このようなものだった。


 女性の名前は進藤加奈子。棗市街地にあるマンションに一人暮らし中で、その近くにあるアパレルショップで働いているらしい。

 そして、三ヶ月ほど前に同棲していた恋人、田辺雅樹を病気で亡くしているのだとか。

 そのショックから立ち直れないながらも、なんとか毎日仕事に精を出していたある日。

 自宅のマンションで、奇妙な現象に出くわしたらしい。夜中、物音がしてふと目が覚めリビングに向かうと、置いてある家具や調度品が、ひとりでに動き始めたのだという。最初は地震かと思ったが、翌朝起きた時にはそんなニュースもなく、それが何日が続いたらしい。

 不気味に思いつつ誰にも言えないまま日が経ち、そして昨日の深夜。日付が変わったくらいの時間に、自分を呼ぶ声が聞こえたと。

 恐怖に怯えながらも、それが聞き覚えのある声だったために声の発生源まで向かえば、そこには亡くなったはずの恋人が立っていた。


「そのすぐあとにあの人、雅樹はまたいなくなって……」

「それでさすがに無視できなくなって、うちに来たと」

「はい……」


 俯いた加奈子は、たしかによく見れば顔がやつれている。化粧で多少誤魔化しているものの、それにも限度があるレベルまで、精神が疲弊しているのだろう。


 ふむ、と顎に手を当て考えてみる。

 普通ならば、まず来るべきところは探偵事務所ではなく病院だ。恋人が亡くなったショックで、精神的な病気に罹った。そう判断出来てしまう。

 しかし、普通じゃないケースの場合を、織たちはよく知っている。


「取り敢えず、進藤さんのマンションを見せてもらっていいですか?」

「私の家、ですか?」

「はい。と言っても、俺じゃなくてこいつに行ってもらいます。男性を上げるのは気がひけるでしょうから」


 控えめながらも頷いた加奈子。

 それから書類やら契約やらの関係を片付け、加奈子は愛美に付き添われて事務所を出て行った。

 それらの書類を纏め終えると、織はスマホで知り合いの女子高生に連絡を取る。


「朱音にイタズラされちまうな」


 小さくボヤけば、寝ていたはずのアーサーがこちらを見上げている。その目は、嫌われてしまえ、と語っているような気がした。相変わらず、アーサーからは嫌われているらしい。


 ケーキを作るどころではなくなってしまった。微苦笑を浮かべながら、織はシルクハットと上着を取り、事務所を後にした。



 ◆



「トリックオアトリート! お菓子くれなきゃイタズラしますよ!」


 突然開かれた風紀委員会室の扉。元気よく現れたのは、三角帽子とマントで魔女の仮装をした桐生朱音だ。

 半ば予想通りの登場に、葵は苦笑しながらも快く出迎えた。


「おはよう、朱音ちゃん。来ると思ってお菓子用意してるよ」

「さすがです葵さん!」

「相変わらず食い意地張ってんなぁ」

「今のカゲロウが言っても、説得力ないよ」


 紅茶の準備をしている葵の他には、ソファで寛いでいる蓮と、パンプキンパイを手に持っているカゲロウが。

 たしかに、今のカゲロウに言われたところで説得力は皆無だろう。朱音が来ると思って多目に作ってきたパンプキンパイ。カゲロウは既に四枚目だ。


 淹れた紅茶をカゲロウの隣に座った朱音に渡し、葵も蓮の隣に腰を下ろす。

 早速一枚、朱音がパイに手を伸ばした。


「んー、美味しいです!」

「よかった。たくさんあるから、どんどん食べてね」

「はいっ」


 無邪気な笑顔でパイを頬張る朱音を見ていると、作った側としては嬉しくなるし、朱音が可愛いのでもっと食べさせたくなる。

 既に消えてしまっているが、もしも猫耳が残っていたら、今の朱音はご機嫌にぴこぴこと揺らしていたことだろう。


「それにしても、ハロウィンって不思議な行事ですよね」

「それ言ったらバレンタインもだろ」


 朱音とカゲロウが言っているのは、それぞれの行事の元となった出来事のこと。

 ハロウィンは古代ケルトまで遡り、日本で言うお盆と大晦日を一緒にした感じのものだった。それが今ではどうしてか、子供がお菓子を貰うためのイベントに様変わり。最近では子供だけでなく、中高生のカップルなんかがいちゃつく口実にもなっている。


 実を言えば、葵も蓮をデートに誘おうかな、と思ったりしたのだ。しかしなんというか、ハロウィンにかこつけてというのは、こう、バカップル感が否めなかった。

 そもそも、朱音が今日やって来るのはあらかじめ予想できていたし、パイを食べる朱音が可愛いのでこれはこれでよかったのだけど。


 バレンタインに至っては、バレンタイン司教の命日だ。それがどうしてか、現代日本では恋人たちのイベントに。


「ハロウィンは元々、悪魔崇拝の儀式でもあったのですが。どうしてこうなってしまったんでしょうね」

「有害な霊とかが来るから、魔除けのために仮面をかぶったりしてたんだっけ?」

「それが今じゃ、逆に魔女とか吸血鬼とかの仮装だもんね」


 まあ、葵は仮装するまでもなく半分吸血鬼なのだが。朱音も同じく、わざわざ魔女の仮装をしなくても、実際に魔女と同じ力を宿しているのだし。


「でも、その辺どうなんだ? ハロウィンだからゴーストとかが活性化する、みたいな話はあんのか?」

「日本では中々ないはずですが」

「海外のお祭りだしね。古代ケルトの行事なんだし、あるとすればローマの方じゃない?」

「そもそも、本来なら幽霊に良いも悪いもないはずだ。魔物化してるなら別だけど」


 現代魔術では、いわゆる幽霊というものの存在を明確に肯定されている。

 定義としては、死して尚その地に残る魂。あるいは、肉体から解放された魂魄。


 そもそもが魂というものは、器である肉体があってこそのものなのだ。肉体があるからこそ、魂は生命力を生み出し、転じて魔力を発生させることができる。

 それが器から解き放たれればどうなるか。


 殆どの場合はこの世を離れ、消滅する。

 そうでないケースは二通りだ。

 一つは、魂そのものを魔力に変えられた場合。これは裏の魔術師に普及してしまっている禁術によるもの。元来、生命力を生み出せるほどの力を持っているのだ。それをそのまま魔力へと変えれば、膨大な量が手に入るのだろう。


 そしてもう一つ。

 まだ生きている人間が、死んでしまった人間に対して、強い執着や未練を残していた場合だ。

 生者のそれに引っ張られ、魂は消えることなくこの世に留まってしまう。ただし、その魂自体はなにもできない。

 ただそこに在るだけ。

 器である肉体を失ってしまえば生命力、魔力を生み出せないから、魔物とも言えない。考える脳がなければ、動くための手足もない。

 ましてや、魔術師であっても視認することさえ叶わない。


 ということをカゲロウに教えてやれば、当然の疑問が返ってきた。


「ん? いや、待てよ。見えないんならなんで幽霊の存在を確認できたんだよ」

「逆算したんだよ」

「蓮くんが言ったでしょ? 魔物化するって」


 ただそこに存在しているだけで、なにもできない魂。自我というものすらなく、本当に、ただ在るだけ。

 そんな幽霊が視認できるようになるとすれば、魔力を持った場合だ。ただし、自身で生成することは出来ない。外的要因がなければ、魔物化することなどあり得ない。


 本来見えることのない、何百年も前には全ての魂が消滅すると思われていたはずなのに、魔力を持ち魔物化している。

 どういうわけだ、と何百年も前の魔術師たちは、躍起になって原因を解明したらしい。


「魔物化した霊は、生前と同じ姿を取る。お伽話とかフィクションとかでよくあるでしょ? 足の先だけないとか、透けて見えるとか。まさしくあんな感じなの」

「ほーん。つーことは、こっちの攻撃も透けたりするのか?」

「物理的なものは効かないな。魔力的な干渉か、あるいは異能を使ったら倒せるけど」

「面倒なのはそこじゃないんだけどね」


 チラと、話の途中から全く入ってこなくなったと思えば、ひたすらパイを食べ続けている朱音を見やる。

 視線が合って、どうしたのかと小首を傾げてくるが、なんでもないと被りを振った。


 転生者。

 成り立ちは幽霊と正反対でありながら、どこか似たような存在。

 彼らと同じだ。記憶というものは、魂に残される。頭が忘れてしまっても、そこだけは決して忘れることがない。


 魂だけの存在となり、魔力を注がれ魔物と化した霊も同じ。


「魔物化した幽霊、いわゆるゴーストっていうのは、生前のことを覚えてる。だから強い思い入れのある場所や人の前に現れるけど、考える脳がない」

「つまり?」

「つまり、例えどれだけ愛した人の前でも、大切だった場所でも、見境なく暴れるの」



 ◆



 街に出てから一通り魔力探知を行なった織だが、全く反応がなかった。

 なにかしら魔術的なことが絡んでいる事件なら、まず敵の魔術師がいるはずだし、そうでなくとも魔物の反応くらいあってもいいものなのに。


 だが、進藤加奈子の狂言、あるいは精神的な病から来るもの、と簡単に断言はできない。それはもっと調査を進めてからだ。


 一先ず織は、連絡を取った女子高生二人組と落ち合うことにした。商店街の中にあるカフェに入ると、どうやら既に来ていたらしい。


「お、来た来た」

「こっちだよ」

「おう、悪いな。土曜なのに連絡して」


 窓際のボックス席に座っていたのは、この街の市立高校に通う現役JKの二人組。花蓮と英玲奈だ。

 中高生の間で顔の広いこの二人には、色々と情報を提供してもらうことが多い。織たちが魔術師であることも知っているから、話も通しやすいのだ。


「気にしなくていいよ。うちらも暇してたし」

「その代わり、ここは織の奢りだからね」

「わかってるよ。そんくらいは払わせてもらう」


 やって来た店員にブレンドコーヒーを頼む。いつも事務所や学院では紅茶ばかりだが、たまにはコーヒーを飲みたい時だってある。

 織は無糖でも飲める大人の男なのだ。


 店員がコーヒーを運んで来てもらってから、早速本題に入った。


「で、どうだった?」

「ポルターガイスト現象、でしょ? 何人かに心当たりないか聞いてみたけど、割といるみたい」

「でも、幽霊を見たなんて子はいなかったね。精々が部屋のものが勝手に動いてたとか、それも起きた時に違和感に気づいた程度だったし」

「なるほど……それって、学生にしか聞いてないのか?」

「いんや、色んな人に聞いたよー」

「先生とか、近所の奥様とかね」


 ポルターガイスト自体は、この街の至る所で起きている。ただし、加奈子のように幽霊を見た人間はいない、と。

 そもそも見えてしまった時点で、それはただの幽霊じゃない。魔物だ。その辺りの知識は織も有している。

 そうであるなら、田辺雅樹の魂を魔物化した犯人がいるはずだ。第三者の手によるものでなくとも、なにかしら外的要因があるはず。


「てかなに、またそっち系の事件?」

「まあな。でも安心しろ。街を壊すような真似はしないし、お前らに危害は加えさせないからな」

「そこは心配してないし」

「そうそう。棗市には正義の味方がついてるもんねー」

「なんだそれ」

「知らない? ルーサー、朱音のことは前から噂になってたし、みんな知ってたんだけど、最近になってその評価が変わり始めてんのよね」


 それは初耳だった。

 朱音がルーサーとして、街の人たちから疎まれているのは分かっていたが。それが、正義の味方になっている、と?


「もちろんうちらが根回ししたのもあるけど、こんだけ朱音から守られてたら、バカでも気づくし」

「ルーサーが本当は、この街の味方なんじゃないのか、って」


 完全に受け入れられた、ということではないのだろう。徐々に変わり始めてるということは、逆にまだ朱音を敵視している人もいるということ。

 それでも、自分の娘の。未来からやって来て、さらに多くのものを抱えることになってしまった、あの小さな少女の。

 その頑張りが実を結び、こうして報われていることが、自分のことのように嬉しくて。


「ありがとな。朱音のこと、お前らに頼んで正解だった」

「ちょっ、なに急に」

「なんか気持ち悪いんですけど」


 気持ち悪いとは失礼な。本心から礼を言ったつもりだったのに。


 娘がそんなに頑張ってくれたのだ。なら父親として、それに報いてやらねばならない。

 手始めに、この依頼をさっさと終わらせて、あの子にケーキを作ってやろう。



 ◆



 進藤加奈子の住んでいるマンションは、駅から南に徒歩五分圏内に位置していた。周囲にはコンビニも飲食店もあり、職場のアパレルショップまでも歩いて行ける距離らしい。

 中々の立地だ。うちの事務所とは大違い。


「ここが私の部屋です。特に変わったところはないと思うんですけど……」

「結構広いわね……動いてた家具と言うのはどれですか?」


 加奈子の言う通り、部屋自体は普通のものだ。一人暮らしには広めの1LDK。魔術的な意匠が施されているわけでもない。


 動いていたと言う家具は、テレビとその前に置かれている丸机。さらにその近くの音楽プレイヤーとスピーカー。観葉植物。

 近い場所に集まっているとはいえ、それらの家具なども普通のもの。そもそも、この家の中から魔力の反応はない。


「雅樹さんが立っていた、という場所は?」

「ベランダの方です」


 ベランダに繋がる窓は、テレビのすぐそこだ。このポルターガイスト現象が幽霊となった田辺雅樹の仕業だと言われれば、納得はできる。

 しかし、状況証拠しか揃っていない。魔力でも術式でもいいから、物的証拠が残っていればいいのだけど。


 念のためベランダの方も出てみるが、やはりなにもない。外を見渡しても、見慣れない角度で見慣れた街が見えるだけ。


 しかし、そこから見えたコンビニの軒先に立った旗を見て、愛美は一つの可能性に思い至った。


「可能性はある、かしら……?」


 考え込むように呟き、部屋の中に戻る。動いていたと言う丸机、その下のカーペットを指でなぞり、一つ息を吐く。


 ──見つけた。


「すいません、このカーペットの下を見てもいいですか?」

「え、ええ……別に構いませんけど、なにもないと思いますよ……?」


 許可をもらい、丸机をどかしてからカーペットをめくった。

 その下にあったものを見て、加奈子が小さな悲鳴じみた声を上げる。


 フローリングの上。そこには、一定の規則性を持った幾何学模様と、奇妙な文字が描かれた紙が貼ってある。

 普通の人が見れば気味の悪いものにしか見えないだろうけど。

 紛れもなく、これは魔術式とルーン文字だ。


 今の時代に直接手描きする魔術師なんて早々いない。そもそも、現代魔術は手描きの術式では発動できないのだ。

 構成といい、文字と言い、間違いなくルーン魔術だろう。魔力を感じない理由もよく分かった。ルーン魔術による高度な隠蔽。


 愛美も織も、扱う魔術は全て現代魔術に属するものだ。それは桃も同じで、賢者の石に記録されている魔術は全て現代魔術に依るものとなっている。

 故に、余計気づくことが出来なかった。


「これは……欠乏、喜び……贈り物……?」


 文字を読むことはできるが、そこから発揮される効果が分からない。文字の組み合わせによってその力を変えるのがルーン魔術だ。

 こんな事なら、学院でルーンの講義を受けておくんだった。軽く後悔するが、しかし調査が一歩前進したのも事実。


「あ、あの……それがなにか、分かるんですか……?」

「ええ、まあ……」


 少しまずいか。

 自分たちが魔術師と明かすのは、果たして吉と出るか凶と出るか。朱音の例もある。怖がられて依頼取り消し、なんて事になりかねない。


 そう考えると頭とは裏腹に、しかしここで依頼人に対して誠実でありたいと思うのが、桐原愛美という少女だ。

 意を決して立ち上がり、加奈子と視線を合わせる。


「黙っていてすみません。私たち、実はただの探偵じゃないんです」

「それは、どういう……」

「魔術師、といえば分かりますか?」


 加奈子の目が大きく見開かれた。一歩後ずさり、口をわなわなと震わせている。


 魔術の存在が表社会に明るみになってから、早くも四ヶ月以上が過ぎている。世界は魔術師をテロリスト扱い。連日ニュースでは、どこで魔術師が暴れていただの、その対応はどうなっているのかなど、評論家気取りのナルシストたちが言いたい放題だ。

 いいイメージは持たれていない、だろう。


「もしも私たちの素性に対して、進藤さんに思うところがあるなら、依頼を取り消してもらっても構いません。私たち、テロリスト扱いされるような人間ですから」


 肩を竦め、自虐的な笑みさえ浮かべてしまう愛美。

 なにがテロリストだ。自分はそんな可愛らしいものじゃないだろう。この身に秘めた狂気は、血に汚れた手は、それ以上に忌み嫌われるべきものなのだから。


「依頼は……取り消しません……」


 聞こえてきた言葉に、耳を疑った。今度は愛美が目を見張って驚く番だった。


「私も、ずっとそう思ってました……街で暴れる悪い人たちなんだって……雅樹さんがいなくなってから、余計に怖くなって……でも、助けられたことがあるんです。仮面を被った魔術師の人に」


 この街に現れる、人を助ける仮面の魔術師。そんなの一人しかいない。

 愛すべき家族。自慢の一人娘。


「それで、最近は街の人たちもみんな、あの仮面の人、ルーサーって呼ばれてた人は、悪い人じゃないんじゃないかって。街を守ってくれる正義の味方だって言ってる人もいて……私の話を笑ったりせず聴いてくれたあなたたちも、悪い人とは思えませんから」


 強がりで、無理矢理に浮かべた笑顔は、加奈子が事務所に来てから今までで、初めて見せたもの。


 娘がそう思われていることも、自分たちを信じてくれたことも、加奈子の言葉全てが嬉しくて。

 拳を強く握り締めた。感情を噛み殺す。それを表に出していいのは、この仕事が終わった後の話。


「ありがとうございます。進藤さんの依頼、必ずどうにかしてみせます」


 強い光を宿した瞳が、床の上にある紙へ注がれた。

 幸いにして、ルーン魔術について詳しい元神様がいらっしゃるのだ。存分にその力を借りるとしよう。

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