第83話
「まさか、壊滅させられた関西支部を再利用しているとはな」
「完全に灯台下暗しだったよ」
日は完全に沈み、真っ暗な空に月と星が上っている。
夜が訪れ始めたこの時間。大阪湾を一望できるとある港に、緋桜とサーニャは訪れていた。
目的はただ一つ。
未だ日本に潜む異能研究機関ネザーをあぶり出し、異能の力を宿した魔導具について突き止めること。可能なら、その生産ラインの排除も。
「しかし、よく居場所を見つけたな」
「職場での円満な人間関係のおかげだ」
「協力者がいるのか?」
「中と外の両方にね」
一応形の上では、緋桜はまだネザー所属となっている。その中で、ネザーの研究に不信感を抱く研究者を味方に引き入れた。
だが、外の協力者とは誰のことなのか。ただでさえ謎の多い組織だ。中からの手引きならまだ理解できるが、外の協力者が果たして役に立つのだろうか。
そんなサーニャの疑問に答えるかのごとく、ひとりの男が現れた。
「水臭いじゃないか緋桜。やつらを潰すなら、俺にも声を掛けてくれよ」
サーニャが咄嗟に身構える。
それもそのはず。現れたのは、灰色の髪を持つ吸血鬼、グレイだったのだから。
「貴様……!」
「おっと、落ち着きたまえよサーニャ。私はなにも、貴様と殺し合いをしに来たわけではないのだからな」
皮肉げに口元を歪め、両手を上げて戦う意思はないと示すグレイ。思わずため息を吐いた緋桜は、灰色の吸血鬼を睨んだ。
「こうなるから言わなかったんだ。どうして出てきたんだよ」
「なに、少し状況が変わっているようなのでな。貴様らだけでは心配だったのだよ」
「どの口が……」
舌打ちを一つ。こんなやつに協力してもらわなければならない自分が恨めしい。
グレイは紛れもなく、緋桜にとって仲間の仇だ。大切な友人を殺した張本人だ。しかし同時に、この吸血鬼に助けられた記憶も存在している。
「外の協力者ってのはこいつのことだよ、サーニャさん。愛美と織のこともあるし、対ネザーにおいてのみは信用できる」
「……いいだろう、今だけは共闘してやる」
警戒こそ解いていないものの、一先ずは受け入れてくれたらしい。
となれば、足並みを揃える、ことは無理でも、せめて情報の共有くらいはしておかなければならない。
「それで、状況が変わったっていうのはどういうことだ?」
「ここに、ネザーのトップが来ている」
ネザーに潜り込んでいた緋桜ですら、一度も顔を見たことがなく、人類最強にすら尻尾を掴ませなかったやつが、ここにいる?
俄かには信じられない。しかし緋桜自身が言ったように、ネザーを相手にする際のグレイはこの上なく頼もしい味方となるのだ。
グレイにとっても、ネザーは目の上のたんこぶどころか、かなり因縁の深い相手。
嘘を吐く理由もない。
「私が作った悪魔をかなり消費してしまったがね。今日この時間、ここにいることはたしかな情報だ」
逆に、その情報がたしかならば。グレイがここに現れる、十分な理由になるのだ。
この場の三人と、葵にカゲロウ。更には魔物であるグレイの眷属、ガルーダまで。
ネザーの手によって、記憶の改ざんを受けている。あるいは、ネザーのトップに接触できたのなら。その記憶を元に戻すことができるかもしれない。
「ならばさっさと向かうぞ。我の記憶などもはやどうでもいいが、朱音を傷つけた罪は償ってもらわねばならぬ」
「ほう、随分とルーサーに肩入れしているのだな。あの娘がそんなに気に入ったか」
くつくつと笑うグレイを、サーニャが睨む。
まさしく一触即発だが、ここでやり合う様子はなさそうなので一安心だ。緋桜としては、今くらい仲良くとは言わずとも、せめて煽り合うことはしないで欲しいのだが。
ため息を吐きながらも、緋桜が転移の魔法陣を広げる。灰色のクソ野郎だけ海の上に落としてやろうかとも考えたが、なんとか考えるだけに留める。
転移した先は、かつて緋桜も在籍していたネザーの関西支部跡地の人工島。朱音が暴れまわったお陰で島は荒れ放題だったはずなのだが、今ではすっかり綺麗に元通りだ。
「君たち、止まりなさい」
「見ない顔だな。どこの所属だ?」
島の中央にある建物まで歩いていると、白衣姿の研究員らしき男二人に捕まった。チラホラとだが、他にも辺りには研究員の姿が見える。以前に比べると、随分人数は少ないらしい。
正面から無策で乗り込めばこうなることは分かっていたから、緋桜としても対処法を考えていないわけじゃない。
幸いにして、緋桜はアメリカの本部所属だ。これが割と使えるもので、各支部の平研究員と比べれば権限が上。それを証明できるものも持って来ているから、ここは適当にやり過ごしてどこかにいるネザーのトップ様に会いに行こう。
なんて、そんな考えを吸血鬼の二人が考慮してくれるはずもなく。
声をかけて来た男の片割れが突然凍りついたと思えば、更にもう一人が体の内側から赤黒い槍に突き破られた。
「て、敵襲! 敵襲ーーー!!!」
その様子を見ていた他の研究員が叫び、騒ぎはあっという間に島中へ伝播する。
武装した研究員が二十人ほど建物から現れた。銃を装備しているが、まさかそれでこの二人を止めれると思っているのだろうか。吸血鬼からすれば、オモチャも同然なのに。
「あんたらな……」
「こちらの方が手っ取り早いだろう?」
「非常に遺憾だが、グレイに同意だ。どうせ全員殺すことになるのだしな」
「手順ってのかあるだろうが! ったく、あんたらといい愛美といい桃といい、なんで俺の周りには身勝手な奴らしかいないんだ……」
ため息混じりに振り返りながら、手元に収束させた魔力の刀を振るう。
金属音が響いた。
灰色の髪の少女、出灰翠がハルバードを持ち、緋桜の背後から奇襲をかけたのだ。
「おまけに可愛い顔したやつらはみんな物騒ときた。ちょっとくらいお淑やかな女の子ってのがいていいと思わないか?」
「チッ……」
小さく舌打ちを残し、転移で離脱する翠。それを追うこともなく、緋桜は隣に立つグレイをチラと見遣った。
「親の躾がなってないんじゃないか?」
「俺は放任主義なのだよ」
そもそもグレイは、最近で出灰翠の存在を知らなかったのだから、躾もクソもないのだが。
軽口を叩いていると、武装した研究員たちが一斉に射撃を開始した。単なる鉛弾だ。サーニャが緋桜を庇うように氷の壁を作り出し、グレイはろくに防ぐこともなく弾丸に身を晒す。直撃していても、吸血鬼の不死性は銃弾など意にも介さない。
その筈なのに。
グレイの体は一向に再生が始まらず、血は流れ出たままだ。
致命傷に近い状態でありながら、吸血鬼は呑気にも同族へ警告した。
「ふむ……サーニャ、この銃弾には気をつけたまえ。こちらの魔力を阻害する力があるようだ」
「我らの不死性を無力化するほどか?」
「私は問題ないがね。貴様の異能では再生できないだろう」
情報操作。
元々はグレイの異能である。彼の遺伝子を持つ三人よりもなお強力な異能は、吸血鬼の体を瞬く間に再生する。
一方でサーニャの異能は氷結能力だ。それ単体では完璧な再生など不可能。出来たとしても、怪我の一時的な治療くらいか。
「なるほどな。各地の特殊部隊に、こいつが配備されるというわけか。我らに通用するほどとなれば、そこらの魔物程度は楽に葬れるだろう」
「そういうことだ。つまらぬ死に方はしてくれるなよ」
「ほざけ、誰にものを言っておる」
銀と灰の吸血鬼が、蹂躙を始めた。
赤黒い槍と絶対零度の冷気が研究員たちに襲いかかる。生き残れるものは誰一人としていないだろう。
たかだか人間数十人を殺すには、明らかに過剰な戦力だ。
「あなた達の目的はなんですか?」
背後から声をかけられ、緋桜は灰色の少女と向かい合う。
プロジェクトカゲロウによって生み出された三人目。出灰翠。
そのプロジェクトの集大成を自称しているが、果たしてそれは真実なのか。いや、集大成ではあるのだろう。カゲロウのように、力を限定的にしか使えないわけではない。葵のように、吸血鬼の力に制限がかけられているわけでもない。
まさに理想的な存在だ。
グレイの異能と吸血鬼の特性を持ちながら、しかしその弱点の全てを克服している。
「集大成ではあっても、最終到達点ではない、って感じか?」
「質問に答えてください。あなた達の目的は? なぜここを襲撃したのですか」
「ああ、悪い悪い。俺たちの目的ね。別にシンプルなもんたぞ? お前らのトップに会いにきただけなんだからな」
「そうですか。では、排除します」
「おっと」
ハルバードを構えた翠に、先手を打って緋色の桜を放つ。巧みに躱しながら接近して来るが、振るった得物は空を切った。
緋桜の立っていた場所には、黒い霧が漂うのみ。
「緋桜一閃」
緑の背後、その上空に移った緋桜が、短く詠唱を口にする。弓に番た矢を力一杯引き絞り、地上の少女へと容赦なく放った。
音速を超えて飛来する矢は、翠に異能発動の隙を与えない。ハルバードの柄で上手く防御するも、小さな体は勢いに負けて後方へ吹き飛んだ。
「さっさとそっちのボスを出して欲しいんだが、まだやるか?」
「分かりませんね。あなたは賢者の石を宿さず、異能も持っていないただの魔術師のはず。それなのにこの強さ。どういうことですか?」
感情の篭っていない、機械のような冷めた瞳に、僅かながらの好奇心が宿っている。
たしかに緋桜には、特別な力なんてなにもない。あるのは親から受け継いだ霧の魔術と、自分で編み出した桜の魔術のみ。
魔力の量や質も優秀なものとはいえ、人間の域を出ない。吸血鬼の力を持っている翠に正面から敵う道理なんて、本来ならないはずなのに。
「俺にあって、お前にないものがあるからだ。それが分からないんなら、俺には勝てないぞ」
ニッと笑みを作り、再び矢を番える。だがさすがに、二撃目は簡単に許してくれない。灰色の翼を伸ばした翠が、空中の緋桜へと弾丸のように距離を詰めてくる。
先ほどと同じく、体を霧に変えて離脱する。矢を番えていた弓を消し、別の術式へと書き換える。
次に姿を現したのは、地上。翠の真下だ。
「縞パンか。可愛いの穿いてるじゃないか」
「……っ」
見上げれば、意外と可愛い下着が見えた。再び肉薄してこようとする翠を、緋色の刃が邪魔をする。
距離を取って地上に降り立つ翠の目は、ほんの少し怒りの色が見て取れた。
「よく勘違いされるのですが、わたしにも感情というものはあります。当然、怒りを覚えることもあるのですよ」
「だったら少しは笑ってみせたらどうだ? 可愛い顔が台無しだぜ」
「
炎の巨人が顕現する。
火の神の力を持った、出灰翠の全力。
さすがにからかい過ぎたかと後悔する。実力は緋桜の方が上だろうが、神氣を使われてしまってはどうしようもない。
同じ神氣か、あるいは例外的な異能を使わなければ太刀打ち出来ないのだ。
だが幸いにも、この場にはその例外的な異能を持つ者が一人いる。
突然飛来した赤黒い槍が、炎の巨人に突き刺さった。槍自体はあっという間に焼かれてしまうが、次の瞬間、巨人はその形を保てずに瓦解してしまう。
「いつまで遊んでいるつもりだ、緋桜」
「無茶言うなよグレイ。俺はただの魔術師。あんなもん出されたら手の打ちようがない」
「相手が女だから、手を抜いていたのではないか?」
「そいつは言いがかりだサーニャさん。そりゃ可愛い子をわざわざ殺そうなんて思わないけど、手を抜くわけないだろ」
どうやら、自分たちの相手は全滅させてきたらしい。吸血鬼の二人が緋桜の隣に並び、翠の前に立つ。
さすがに不利なことは理解しているのか、常に無表情だった顔は苦々しく歪んでいる。
「答えてもらうぞ、出灰翠。異能の力が込められたイヤリング型の魔導具。あれを作っているのは、ここだな?」
翠の周りを囲むように、氷の刃が展開された。彼女が離脱するよりも早く、刃は体を貫くだろう。
しかし、翠は答えない。無言のままで時間が過ぎるのと比例するように、サーニャの怒りは増し辺りの気温が下がっていく。
答えない翠と怒りを募らせるサーニャ。そんな二人を見かねたのか、口を開いたのはグレイだった。
「サーニャ、そいつは殺さないでくれよ」
「灰色の吸血鬼が、随分と甘いことを言うのだな」
「ふん、貴様には分からないだろうが、その娘は私の血を持って生まれた存在だ」
「情でも湧いたか」
「だと言えば?」
「信じられんな」
俄かには信じられない。
翠はたしかに、グレイの娘と言える存在だが。この吸血鬼が、翠に対して情を抱いているなんて。
と、普通なら思うことだろう。けれど緋桜は納得していたし、グレイのその言葉を信じていた。
緋桜の中にある、十年前の記憶。未だはっきりと思い出せない中でも、グレイに助けられた光景だけは思い出した。
そして葵とカゲロウのこともある。その気になればいつでもその身柄を確保出来るのに、なぜグレイはそうしないのか。
今こうして、緋桜の協力に応じてくれるのはなぜか。
信じがたいことだが、グレイは己の子供と呼べる三人に対して、本当に情を抱いているから。
その内の一人、葵の兄である緋桜に対しても、多少なりとも。
あるいは、その辺りが緋桜の中にあり、グレイが未だ思い出せない記憶に関係しているのかもしれない。
目的達成のためにカゲロウと葵の異能を使うとは言っていたが、それだって殺すつもりはないのだろう。いや、殺せないと言った方が正しいか。
魔女を殺しておいて、とは思わない。
大切な友人を殺されたことは事実だし、そのことに対する恨みもあるが。それを言えば、緋桜だって今まで、多くの敵を殺してきたのだから。
グレイの発言になにを感じたのかは分からないが、サーニャは氷の刃を消した。
それと同時だ。
あまりにも突然。緋桜も、サーニャも、グレイすらも気づかず。いつの間にか。
翠の隣に、ひとりの男が立っていることに気づいた。
「お話は終わったのかい? なら挨拶をさせてもらおうかな」
不気味なほどに穏やかな笑みを浮かべている、ブラウンの髪と碧眼の若い男。誰もがその場を動けず硬直している中、いっそ慇懃な程に畏まったお辞儀をして、男が名乗った。
「私は異能研究機関ネザー代表、ミハイル・ノーレッジだ。サーニャとグレイは初めましてではないのだが、覚えていなかったかな?」
吸血鬼の二人が動く。
サーニャが氷の剣を持って肉薄しようとし、寸前でグレイがそれを止めた。
「待てサーニャ」
「なぜ止める!」
「ルーサーのことがあるのは理解してやるがな。今の私たちでは、あれをどうこうすることは出来ぬよ。レコードレスでもない限りな」
グレイの目は、葵たちと同じだ。あらゆる情報を視ることが出来る。
その目になにを映したのかは本人にしか分からないが、それでも今の発言からするに、あの男がなにかしら規格外なのはたしかなのだろう。
灰色の吸血鬼ですら匙を投げるほどに。
そんなやり取りを尻目に、ミハイルは傍の翠へ視線を投げる。
「大丈夫かい、翠」
「申し訳ありません。お手を煩わせてしまいました」
「いいんだよ。全ては計画通り、順調に進んでいる。だからここは、彼らの望む通りにしてあげよう」
ミハイルが徐に手を掲げたと同時。
酷い頭痛に襲われた。
それは緋桜だけでなく、サーニャとグレイも同じらしい。二人とも頭を手で押さえている。
「なんだ、これは……」
「まさか、記憶が……?」
緋桜の頭の中に、十年前の光景が蘇る。
一斉に映像が流れるが、その情報量の多さゆえに細かく検分する余裕がない。
「さて、この島はもう放棄してしまおうか」
「かしこまりました」
「では、私たちは失礼するよ。また会える日を楽しみに待っている」
ミハイルと翠が姿を消し、島を覆うほどの巨大な魔法陣が描かれ始める。
自爆用の魔術だ。島ごと消してしまおうというわけか。
「なるほど、そういうことか……やはり賢者の石のオリジナルは必要、となれば、狙うべきは……緋桜、どうやら俺と貴様の協力も、ここまでのようだ。今後は手を貸してやれそうにない」
「どういう意味だ?」
「俺の計画も、修正を余儀なくされたということだよ。ではな。貴様らも早く脱出したまえ」
問い詰める暇もなく、グレイはどこかへと消えた。だがやつの言葉に拘泥している場合ではない。今この時も、魔法陣は完成に向けて描かれ続けている。
「グレイの奴め、そういうことか……! 緋桜、あの二人には連絡してあるのだな⁉︎」
「ここに来る前にしてるけど、それがどうしたって言うんだよ。今はさっさと脱出するべきだろ!」
「分かっておる! 事務所へ直接飛ぶぞ、グレイの目的は朱音の石だ!」
サーニャが叫んだのと同時だ。宙空に新たな魔法陣が描かれ、そこから人型の異形が何体も現れる。
「ギャハハハハ!」
「イヒヒヒヒ!」
グレイの生み出した、人工悪魔。以前朱音が屠ったのとはまた別の個体たちだろうが、その姿形は同じもの。
「厄介な置き土産をしてくれたもんだなあのクソ野郎!」
「朱音……頼むから無事でいてくれ……!」
そして、この数分後。
大阪湾に浮かぶ人工島が、天を衝く光にのみ込まれた。
◆
蓮と朱音と三人で料理して、狭い風呂に朱音と二人で身を寄せ合いながら入って、穏やかな時間を過ごしていれば、朱音の顔には少しずつ笑顔が戻ってきた。
「お風呂上がりの師匠、ちょっと色っぽかったですね」
「思い出しちゃうからそういうこと言わないの!」
今ではこのように、葵をからかう余裕もできている。いい傾向だ。本人がどうしたいにしても、まずは元気を取り戻すとこらから始めないと。
布団を二つ敷き、並んで横になる。
男子二人は一階のソファを使わせることにした。今からはガールズトークの時間、男子禁制なのだ。
「それにしたって、どうするつもりなんですか? 師匠とのこと、このままってわけにもいかないと思いますが」
「その通りなんだけどさぁ……」
「完全に母さんと同じパターンですが」
「あの人と一緒にされるのはちょっと……」
葵は断じて、恋愛偏差値クソ雑魚ナメクジではないので。その辺り一緒にされると困る。本人に聞かれたらめっちゃ怒られそうだけど。
しかし実際、あの日以降進展がないのも事実。今日なんか普通に血吸ったりしてたし、そろそろ次のステップに行ってもいいんじゃないかなーとか思っちゃってるのだ。
「好き合ってるのはお互い知ってるわけじゃないですか? これ、もしかしたら母さんと父さんよりも酷いですよ?」
「え、そんなに⁉︎」
「ですです」
ここ最近で一番ショックを受けたかもしれない。まさかあの二人より酷いなんて……やだ、私の恋愛偏差値、低すぎ……?
まあ、葵の場合は少々境遇が特殊というか、色んなことが重なってしまった結果の今なので、多少仕方ないところもあるのだけど。
しかし焦る必要もない。あの日、あの二人が本当に消えてしまってから、まだ数日しか経っていないのだ。時間はまだまだある。未来のことは未来の私に任せよう。
そう決めた葵は、話を逸らすべく逆に聞いてみた。
「そういう朱音ちゃんは、仲のいい男の子とかいないの?」
「私、ですか?」
「うん。学院の人たちはさすがにないと思うけど、街の人たちとかさ」
朱音の表情が僅かに沈んだのを見て、葵は後悔する。
失敗した。昨日起きたことを考えると、あまり街の人たちの話をするべきじゃなかったか。
カゲロウから、少し話を聞いていた。
昨日事務所に、ある男の子が来たらしい。どうやら朱音と一緒に野良猫の世話をしていたみたいなのだが、その男の子に正体がバレていたのだとか。
その辺りの機微に聡いあの半吸血鬼は、二人の間に漂う微妙な雰囲気を敏感に察知したらしく。その辺の話題は気をつけろよ、と念押しまでされていたのだ。
「葵さんは……」
謝ろうかと思っていたのだが、それよりも早く朱音が口を開く。おずおずとこちらの顔を覗き込んでくる瞳は濡れていて、先ほどまでなかった真剣さを帯びている。
「葵さんは、どうして戦うんですか……?」
「大好きな人たちと、一緒にいたいから、かな」
迷わず答えた。
それこそ、つい先日葵が手に入れた、自分の道標。私が私である理由。
「蓮くんも、朱音ちゃんも、サーニャさんも。愛美さんや織さんにお兄ちゃん。あとはまあついでにカゲロウも。みんなと一緒にいられる日常が大切で、大好きで、ずっと続いて欲しいから。みんなのいる場所に、私もいたいから。だから戦うって、決めたんだ」
優しく微笑みかけて、ゆっくりと語った。
自分の居場所はないと思っていた。自分はここにいるべきじゃないと思っていた。
だから、あの二人に明け渡すべきなんだと。自分が何者なのかも分からなくて、大好きな人たちに必要とされるべきは、自分じゃないんだと、思い込んでいた。
それでも、気づいた。あの二人に気づかされたのだ。
どうあるべきか、なにをすべきかじゃない。
「大切なのは、自分がどうしたいのか、どうありたいのか、なんだよ」
その結果として、葵はみんなと同じ場所にいたいと願い、その未来を求めて戦うと決めた。黒霧葵として、大好きなみんなと笑い合いたいと。
「私はさ、正直もう、細かいことはどうでもいいって思ってる。プロジェクトがどうとか、自分の中にある吸血鬼の遺伝子とか。実は百歳超えてたとかね。そういうの全部を引っくるめて私なんだって、そう言ってくれた人がいたから」
もしも今、出灰翠からかつてと同じ問いかけをされたとしても。これ以上隠された真実を教えられたとしても。
葵は迷わず、こう返すだろう。
それがどうした、と。
「そういう、私を取り巻く環境とか状況とか、あとは過去とかがどんなでも、私のやりたいことは変わらないから」
けれど、朱音は違う。
彼女の過去は、境遇は、葵のように簡単に切り捨てていいものじゃないはずだ。
ルークから聞いた、転生者になる条件。
何度転生しても消えないような、どうしようもない後悔を抱くこと。
「私から言えることなんて、あんまりない。もう一度頑張ろうとも、後は任せてとも簡単には言えない。まあ、本当は私たちに任せてもらって、朱音ちゃんには休んでもらいたいんだけどね」
苦笑を浮かべる。朱音に休んでもらいたいのは本心だ。けれどこの子が今まで、どういう覚悟で戦っていたのかを、その一端ながら知っている。
だからこそ簡単に休んでくれなんて言えないし、逆に同じ理由から、もう一度頑張れとも言えない。
なら葵が言えることは、一つだけ。
「朱音ちゃんは、どうしたい?」
「私は……」
「どうするべきかじゃなくて、朱音ちゃんがどうしたいのかを、私は聞きたいな」
戦いたくないのならそれでいい。朱音はもう、十分すぎるほど戦ったのだから。
そもそも、この時代の問題はこの時代の人間が解決すべきだ。朱音は少しでも、未来では決して経験できなかった幸せな時間を過ごすべきだろう。
でも、もしも朱音に、まだ戦いたいという思いが少しでも残っているのなら。
葵は、全力で朱音の助けになるだけだ。
「怖いんです……」
やがて漏れたのは、問いに対する答えとして少しズレたもの。
震えた声で、朱音は今の心情を吐露する。
「私に優しくしてくれたみんなを守りたかった。父さんと母さんも、葵さんも、サーニャさんも、師匠も。桐原家の人たちに街の人たちも。みんな、私に優しくしてくれたから。私にたくさん幸せをくれたから。だから守りたかった。その筈なのに、私は……守りたい人を、この手で……」
徐々に嗚咽混じりの声に変わって、葵はそっと手を握ってやる。少しでも安心できるようにと。
「また同じことになりそうで……怖い……もしかしたら、今度はもっと身近な人かもしれないんですよ……花蓮さんや英玲奈さんかもしれない、公園にいる猫たちかもしれない、丈瑠さんかもしれない。もしかしたら、って思うと、剣を握れないんです……」
なまじ強すぎる力を持っているから余計に、なのだろう。
人の命を容易く奪える異能。それを自在に操れるだけの技術。そして、実際に殺してきた数は果たしてどれほどか。
その気になった朱音の手にかかれば、葵だって片手間に殺される。
無力な一般人なんて、文字通り瞬きの間に殺せる。いや、殺してしまった。
だから、答えを出せない。自分がどうしたいのかが分からなくなる。
「ゆっくりでいいよ」
「でも、私が迷ってる間に……!」
気づいていないのだろうか。
そうやって返せるということは、朱音の中ではどうしたいのか決まっていることに。
心は完全に折れてしまっても。その根本にあるものまで抜け落ちてはいない。
ゆっくりでいいんだ。焦る必要はない。
今までが生き急ぎすぎただけ。この子には、時間が必要だ。
けれど世界は、現実は、そんな朱音たちに合わせてくれるほど優しくない。
「ぁ──」
「朱音ちゃん?」
不意に、朱音の瞳が橙色の輝きを帯びた。焦点は合っておらず、ここではないどこかを見ている。
これまでも何度か、こんな朱音を見たことがある。未来視を使っている時だ。
やがて瞳の色が元に戻った時。朱音の顔は蒼白になっていて。
「葵さん……街が……みんなが……!」
◆
『こちら葵、港町付近にいるけど、それっぽいやつは全然いないよ』
『駅前も同じく。魔力の反応もない。ちょっと人が少ないくらいかな』
「北の住宅地も同じく、だな」
頭の中に直接響くのは、葵と蓮の声。目の前を歩くカゲロウの声も。
魔術による通信で連絡を取り合っているが、今のところはどこも異常なしとの報告だ。
昨日見た未来を思い出して、朱音は身を震わせる。
街が、燃えていた。
幾多の魔物に襲われ、住人が無残に殺される光景。それを呆然と見ていることしかできない自分。魔物の牙はやがて、朱音のよく知る人たちにまで向けられて。
「ここでいいのか?」
「え?」
カゲロウの声に、ハッと意識を戻される。
いつの間にか、目的地である公園に着いていたらしい。
そもそも朱音がここにいるのは、猫たちがどうしても心配になったからだ。だから無理を言って、カゲロウについてきた。
今の朱音は戦えるような状態じゃないけど、それでも、この目で無事を確かめたかったから。
公園の茂みまで駆け寄り、その中を覗き込んでみる。世話をしていた猫たちは、みんなそこで丸まって寝ていた。この前魔物化した黒猫も、今では大丈夫そうだ。
ホッと胸をなでおろしていると、隣からカゲロウも茂みを覗きこんできた。
「ほーん、可愛いもんだな」
「はい。それに、みんな優しい子たちなんですよ」
自然と顔が綻ぶ。この猫たちと丈瑠とここで過ごした時間は、今でも朱音にとってあたたかい思い出だ。
それがもう、戻らないものだとしても。
「存外、年相応の娘らしい面もあるのだな」
突然かけられた声に、カゲロウと揃って振り向く。
そこに立っていたのは、忘れもしない憎き仇敵。大切な人たちを奪った、誰よりも殺したい相手。
灰色の吸血鬼、グレイ。
「なんで、お前がここに……」
「久しぶりだな、ルーサー。そしてカゲロウ。いや、カゲロウはまだ記憶が戻っていないのだったか」
「ああそうだな、初めましてだぜクソ親父……」
朱音を庇うように、カゲロウが一歩前へ進み出る。
なんでここに、なんて。昨日見た未来を考えれば、わざわざ問うまでもない。
つまり、また。この吸血鬼は、朱音から大切なものを奪おうとしている。
懐の短剣に手を伸ばそうとして、一昨日の光景がフラッシュバックした。剣を、握れない。手が震える。足が竦みそうになる。
「その様子だと、ネザーの奴らに随分なトラウマを植え付けられたか? 普段は邪魔な連中だが、いい仕事をしてくれたじゃないか」
「ちょっと黙ってろ!」
嘲笑するグレイに、大剣を現出させたカゲロウが白い翼をはためかせて肉薄する。
振り下ろされた重い一撃は、赤黒い槍に受け止められた。
「親子の感動の再会だというのに、これはまた随分な挨拶だな!」
「オレにテメェと会った記憶なんざねぇよ! 蓮、チビ! こっちにクソ親父が来やがった!」
『悪いカゲロウ、こっちにも魔物が出た!』
『私のとこも! 今は手が離せそうにない!』
一旦離脱して二人に連絡を試みるも、返ってきた答えは半ば予想通りのもの。
前触れもなく、複数箇所同時に魔物が現れるなんて。事前に準備していなければ不可能だ。
「チッ、まあいい。ここでこいつを倒せばいいだけだろ」
「ほう、貴様に私が殺せると?」
「反抗期の息子なめんなよ」
カゲロウの足元に、魔法陣が広がる。昼間とは言え、事前に朱音から受け取っていた注射器で血は摂取しているのだ。全力を出せる。
大剣が魔力を帯びる。吸血鬼の脚力をふんだんに使って、大地を蹴った。
「この程度か?」
しかし、カゲロウと同じ異能を持ち、賢者の石を大量に取り込んだグレイにとって、その程度の攻撃は子供の遊びに等しい。
「がッ……!」
「カゲロウ!」
斬りかかったカゲロウの大剣を折り、その体を槍で貫いた。真横に放り投げられ、公園の端まで転がる。再生は始まっているから殺すつもりはなかったようだが、再生速度があまりに遅い。異能のせいだろう。
灰色の吸血鬼が、ゆっくりと朱音に歩み寄る。
両親を、親友を、未来を奪った憎い相手なのに。戦う力を、持っているのに。
今は恐怖しか湧いてこない。腰が抜けて、その場に頽れてしまう。
「無様だな、ルーサー。カゲロウのみならず、ついにはそこの小動物にまで庇われるか」
「ぁ……ダメ、出てきたらダメ……!」
首だけで振り返れば、眠っていた猫たちが茂みから出てきて、グレイに向かって威嚇していた。
動物の本能が働いていれば、迷わず逃げるはずなのに。この猫たちは覚えているのだ。朱音が、自分たちに優しくしてくれたことを。
「魔女の時は上手くいかなかったが、今の貴様だと容易く石を取り出せそうだな。まずは、その心を完全に折るとするか」
言葉の意味にすぐ気がついて、朱音はへたり込んだままでも、猫たちへ向けられたグレイの足にしがみつく。
魔術や異能を使っていなければ、ただの少女だ。吸血鬼の力に敵うわけもなく、容易く蹴り飛ばされてしまった。
「いや、いやだ……やめろ……!」
「残念だったな、ルーサー。精々、弱い自分を恨むがいいさ」
「やめろォォォォォォ!!!」
槍が振り上げられる。泣き叫ぶ朱音の声は、吸血鬼の耳に届くわけもなく。
無慈悲に刃が振り下ろされ、鮮血が舞った。
猫たちのものではない。
グレイの腕からだ。
「
漆黒の髪が、靡く。
猫とグレイの間に躍り出ていた影が、横一文字にグレイの体を斬り裂いた。
呆気にとられていると、朱音と猫たちが公園の入り口まで転移で移動させられる。次いで、真っ二つになったグレイの身体は、再生が終わるよりも早く魔力砲撃に呑み込まれた。
「間一髪、ってところだな」
「ごめんなさい、遅くなったわね」
耳に馴染んだ大好きな声。
目の前に立つ、大きな二つの背中。
大粒の涙を流す朱音の胸は、言いようのない感情でいっぱいになって。
「よおグレイ」
「誰の前で、誰に手を出してんのよ」
探偵と殺人姫が、帰還した。
大切な家族を守るために。
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