ヒーローの資格
第72話
「そうか……日本支部は功を焦ったのだね……しようのない吸血鬼だ……」
異能研究機関ネザー。その本部たるワシントンD.C.に建つ超高層ビルの、最上階。
帰還を果たした出灰翠は、日本支部で起きたことの一部始終を報告した。
相手はこの機関を統べる男。翠の主人であり、凍結していたプロジェクトを再開させた張本人。つまり、翠の生みの親でもある。
外見年齢は二十代前半に見えるが、これでも既に四十を越しているというのだ。
かく言う翠も、自身の外見と実年齢がチグハグなことは理解している。そも、普通の人間でもないのだから、不思議なことではない。
「翠、計画を次の段階に移しなさい」
「かしこまりました」
厄介な吸血鬼の手先と、邪魔な学院の魔術師を、同時に排除する。
その為にはどうすればいいか。簡単な話だ。
世間を味方につければいい。
根回しは既に終えている。
これから先は、更に混沌とした時代がやってくるだろう。
だが翠には関係ない。主の命令であれば、それに従うのみ。生まれた時からこの日まで。いや、この命が尽きるまで。出灰翠という存在は、目の前の男のためにあるのだから。
「果たして、カゲロウとシラヌイは神の領域を超えられるかな。今から楽しみだ」
これでは、あのツインテールの少女のことを言えないな。
内心で自嘲して、翠は部屋を出た。
◆
糸井蓮の生まれた家、糸井家はさして大きな家でもない。魔術的な歴史があるわけでもなく、両親は魔術師ではあるものの、現代社会で普通に働き、普通に生きていた。
ごくごく一般的な家庭。時たま父親から魔術の手ほどきを受け、それ以外は普通の暮らしを送っていた。
本来なら、学院に通う予定もなかったのだ。普通の中学から普通の高校に進学し、普通に卒業して普通の企業に就職する。なんて、中学生ながらに欲のない未来予想図を描いていた。
変化は、なにも劇的に訪れたわけではなかった。何気なくテレビを見ていた日曜の朝。
流れているのは、子供向けのヒーロー番組。
世界を、見知らぬ誰かを、あるいは大切な人を守るヒーローを見て、ふと思った。
魔術という神秘の力があれば、俺でもこのヒーローみたいになれるのだろうかと。
純粋な問いだった。深く考えたわけではない。ただ、疑問に思っただけ。幼い頃は、そのヒーローに憧れた。そんなヒーローに、俺もなれるだろうかと。
それを父に投げたのが、なによりのキッカケだったのだろう。
「その意志さえあれば、お前でもなれる」
父は、魔術の弟子であり息子である蓮に、そう言った。続けて、こう言い聞かせたのだ。
「いいか、蓮。世界や見知らぬ誰かなんて、お前が気にする必要はない。でもな、自分の手が届く限りは、その手を伸ばせ。そしてなにより、いつか大切な誰かが出来た時。その相手だけは、お前が守るんだ。ヒーローっていうのは、案外それだけでなれるんだよ」
力があって、世界にその手が届くからこそ。ヒーローというのは、見知らぬ誰かをも守ろうとする。
必要なのは意志と覚悟。そして力。
そうありたいと、漠然と思い始めるのに時間はかからなかった。いつしか自然と蓮の中で明確な形を持ち始め、テレビで見たヒーローは憧れの対象になっていた。
魔術学院へ通うことを決めるのに、迷いはなかった。
いつか、本当のヒーローみたいに。色んな人を守れるだけの力が欲しいから。
でも、現実はどこまでも残酷だ。
糸井蓮にはそんな力、ありもしなかったのだから。
◆
「バックアップ?」
ネザー日本支部での校外学習。その中で起きた騒動の、翌日。
蓮は葵、朱音、カゲロウの四人と共に、授業も放ったらかして風紀委員会室にやって来ていた。
そもそも、昨日は二年生全員がネザーからの襲撃を受けたのだ。久井の活躍によって負傷者は出なかったどころか、襲ってきたやつらは全員返り討ちにされたのだが。
念のためということで、二年生に限り今日は休みとなった。しかし、蓮としては素直に休んでもいられない。
消えたと思っていたはずの友人が。どういうわけか、今目の前にいるのだから。
「正確にはちょっと違うんだけどね。でも似たようなものかな。あの子の異能で、私と碧がまた表に出てきた。あの子は内側に引きこもっちゃったって感じだよ」
向かいのソファに座るのは、友人であるツインテールの少女。けれど、昨日まで笑い合っていたあの子とは、違う。
同じ黒霧葵ではあるけど。葵が妹と呼び、蓮が黒霧と呼んだ、もういないはずの、蓮が守れなかった女の子だ。
「ていうことは、碧さんもいるんですか?」
「もちろんいるよ。今はちょっと出てこれないけど、後で交代しようか?」
「い、いえ、遠慮しておきます……」
なぜか頬を引きつらせ、怖がっている様子の朱音。碧となにかあったのだろうか。蓮の知らないところで交流はあっただろうし、碧のことだから朱音を揶揄ったりして遊んでたのかもしれない。
「でも、だからってなんで……消えたはずじゃなかったのか……?」
未だに信じられないのだ。
こうして目の前にいて、言葉を交わしていても。一度消えてしまった二人が、ここにいるなんて。
あの時、自分にはなにも出来なかったからこそ。再会の喜びよりも、戸惑いが優ってしまう。
「消えた、って言うのも、ちょっと違うみたいなんだ。一つになった、って言ったらいいのかな。ほら、糸井くんと一緒に依頼に行って、ガルーダと戦った時。あの子が出てきたでしょ? その時のあの子と、今のあの子。結構違うんじゃないかな」
言われて思い返すのは、湖の水質調査に向かった時だ。突然グレイの眷属であるガルーダが現れて、葵と初めて会った日。
蓮は遠目からしか見えていなかったけど。あの時の葵は、ただ怒りと復讐心に駆られて戦っているだけだった。
まるで、自分にはそれしか残されていないかのように。
いや、まさしくその通りだったのだろう。
多重人格の呪いによって三つに分かたれた人格。葵と碧。その二人が生まれたことで、本当の黒霧葵には、怒りや復讐心といった負の感情しか残されなかったのだ。
たしかに、黒霧が怒ったところなんて、見たこともなかったな、と。今更ながらに思う。
「私たち三人が一つになって、ようやく元の黒霧葵として戻ったの。私たちの異能があれば、こうやってまた呪いの再現ができちゃうんだ。まあそれでも、かなりおかしな状況なのはたしかだけどね」
あはは、と苦笑する葵の言う通り、説明されたほど単純な状況ではないだろう。
葵の異能は、たしかに強力だ。彼女自身の演算能力があれば、不可能はないだろう。それこそ、人格を増やすなんて容易く行えるかもしれない。
一度消えて一つになった。だと言うのにそこからサルベージするかのように、あの頃の葵のままで現れた。
つまり、葵たちは完全に一つになったというわけじゃなかったのだろう。
もっと言えば、可能か不可能かと実際に行うかは、また話が違ってくる。
昨日の戦闘で、葵になにかあった。だからこうして、黒霧が出てくることになったんだろう。
そう予想することはできても、じゃあなにがあったのかとは聞けない。なぜか憚れてしまう。
「多分だけど、そのうち元に戻ると思う。いつになるかは分からないけど、いつか。それまでは私が基本的に表に出てるから、またよろしくね」
その笑顔を、直視出来ない。
かつての日常では、毎日隣にあったのに。
まるで自分の無力さを突きつけられてるみたいで、それが単なる被害妄想の類だと分かっているのに。
それでもこの子は、紛れもなく。蓮が守れなかった大切な一人だから。
まさかそんな心境を悟られるわけにもいかなくて、無理矢理にでも笑顔を浮かべる。
「なんにしても、黒霧ともう一度会えてよかった」
「うん、私もだよ。あの時は、ちゃんとお別れできなくて、それだけが心残りだったからさ」
それだとまるで、別れの言葉を言うために出てきたみたいじゃないか。
胸が、痛む。その痛みが、なによりも教えてくれる。
俺はやっぱり、この子が好きだったんだと。
そして分からなくなるのだ。この身に残ったその気持ちが、今はどこに向けられているのか。
こうして再会出来てしまったから、尚更に。
「おい蓮。ちょっとついて来い」
不意に、カゲロウが声をかけてきた。その真意が分からず首を捻っていたのだが、半吸血鬼の友人は頑なだ。
「いいから来い。悪りぃけどちょっと外すぞ」
「ちょ、カゲロウ!」
二人からの返事も待たず、半ば強引に手を引かれ部屋を出る。そこで手を離してくれたが、カゲロウは蓮の方を振り向くこともなくどこかへと足を進めた。
観念してその後ろについて歩けば、廊下の一角で立ち止まる。
「お前、あのチビのこと好きだったのか?」
出し抜けに言われて、蓮は咄嗟に言葉を返せなかった。
ポーカーフェイスは得意なつもりなのだが、どうして。なんて疑問は、わざわざ問わずとも教えてくれる。
「視てれば分かる」
「……異能、か」
「ああ。仮面女の血が濃いせいだろうな。この前もそうだったが、俺の場合二日は持続すんだよ」
葵はその限りでもなさそうだったが、そこは吸血鬼としての差だろう。カゲロウの方が葵より、吸血鬼の遺伝子を多く持っているから、と言う理由も考えられる。
だが、その辺りはどうでもいい。それよりもなぜ、カゲロウは突然そんなことを言い出したのか。
「あのチビ、って言うのはどっちのことだ?」
「どっちもクソもないだろ。多重人格だかなんだか知らねえけど、あれはどっちも黒霧葵なんだろ?」
ああ、そうか。カゲロウは、そう言ってくれるのか。
なぜだろう、まるで我が事のようにうれしいのは。
本人も言っていたように。今表に出ている葵も、まだ姿を見せていない碧も。紛れもなく、黒霧葵の一部だ。
それでありながら、別人でもある。人格が違う。思考は共有しない。感情は別々だ。ならば全く同じ人間なわけがなくて。ただ、一部が同じと言うだけのこと。
「カゲロウの言う通りだよ。俺は、黒霧葵のことが好きだ」
だから、分からなくなる。
今の自分は果たして、どっちの葵が好きなのか。
沖縄で、あの子の影をまだ見てしまうと話した。どうしても、想い人のことを忘れられなかった。だから、友達という関係を改めて定義づけた。
その言葉で雁字搦めに縛り付けて、二人は違う人間なのだと、まるで彼女の弱さに付け入るように。
ではない。
その時から。いや、それ以前から。分かっていたんだ。自分が葵に。かつて黒霧と呼んだあの子ではなく、本当の黒霧葵に惹かれていることを。
でもそれは、本当に葵自身に惹かれたからなのか? 黒霧への未練がそうさせてるだけじゃないのか?
そんな疑問が湧いて、いつまでも消えることがなくて。
だから、自分に言い聞かせるようにして、黒霧葵は糸井蓮の友達だと、関係を再定義させた。
端的に言えば、逃げたのだ。
「なんだかんだで、俺が一番分かってなかったんだろうな。葵たちはみんな、ひとりの同じ人間なんだって」
「だから、いつまでもケムに巻いて逃げてるってか?」
「自覚したところでどうしようもないんだ。俺の中では、やっぱり黒霧と葵は別人で。こうして黒霧ともう一度会えたから、余計に分からなくなった。気持ちの置き所も、俺がどうしたらいいのかも」
小さく舌打ちがひとつ。明らかにイラついてる様子のカゲロウを見て、仕方ないなと思う。彼のような性格の人間からすれば、今の優柔不断な蓮は見ているだけでムカつくだろうから。
そう言えば、カゲロウと初めて会った時。彼は言っていたか。
お前みたいな自分の気持ちに素直なやつは、嫌いじゃない、と。
なら果たして、今の蓮はどうだろうか。
自分の気持ち。それすら分からないのだから、カゲロウが見込んだ男とは程遠い。
「どうしたらいいか、じゃねぇだろ。肝心なのはどうしたいかだ。それすら分からねえか?」
「ああ、分からないさ」
「だったら分からせてやるよ」
白い翼が、現出した。
カゲロウの背中に形成された、魔力による三対の翼。彼が全力の状態であるなによりの証拠を見て、蓮は困惑する。
「なんのつもりだ?」
「喧嘩だよ、喧嘩」
右手に握った身の丈以上もある白銀の大剣を、なんの躊躇いもなく振るわれた。
訳も分からないまま咄嗟に回避すれば、剣は容赦なく床を砕く。ただの人間である蓮に当たれば、確実に命はない一撃。
「分かったら拳を握れ。ご自慢の糸を撃ってみろ。じゃなきゃ死ぬぞ」
「くそッ……!」
灰色の半吸血鬼の冷酷な宣言を前に、術式の構成を開始した。
カゲロウの真意は全くもって分からないけど、彼は本気だ。
◆
蓮を連れてどこかへ向かったカゲロウ。その二人を見送って、朱音はそっとため息を吐いた。
相変わらず、色々と気の利く半吸血鬼だ。
友人の心の機微を決して見逃さない。とはいえそれは、朱音であっても分かるほどの違和感だったのだけれど。
「そう言えば、朱音ちゃんとはあんまり話したことなかったね」
「……たしかに、この時代のお二人とはあまり関わりがなかったですね」
二人が出て行ってからソファの位置を移動したため、今は向かい側に座る葵が笑顔でそう言った。
朱音からすれば、彼女の笑顔はある種恐怖の象徴でもあるのだけど。この時代の葵たちが知るところではない。
「ずっと気になってたんだけど、未来で私か碧になにかされた? ていうか確実に碧からなにかされたでしょ」
改めて今の葵を見ると、その表情は碧や本当の葵と比べて幾らか幼い。おそらくだが、黒霧葵の純真さの大部分を、この葵が担っているのだろう。
だって碧さんに純真さとか、全くないですし。本人に言ったら怒られそうだな。
「なにかされた、と言うほどでもないのですが……その、未来で私の正体を知っていたのは、葵さんたちとサーニャさんだけでしたので……」
「あー、そっか。視えちゃうもんね」
自身が転生者であることを、朱音は両親を始めとした周囲にひた隠していた。
きっと教えてしまえば、彼らは朱音を戦いから遠ざけようとしただろうから。
それでも、黒霧葵の持つ異能の前では、いくら隠そうが無意味だ。
朱音が二度目以降の生を受けた時。生まれたその時から既に、葵たちは気づいていた。朱音の持つ力について。それでも織や愛美にはなにも言わないでいてくれたのだ。
それはありがたかったのだけど。問題は、朱音が物心ついてからの話で。
「碧さんに、バラされたくなかったらって脅されたもんですよ……」
「子供相手になにやってんの未来の私……」
いや本当全くもってその通りである。
実際にはなにがあってもバラすつもりなんてなかったのだろうけど、それ以外でも色々と弄ばれたものだ。
と、少しの違和感があった。
今葵は、未来の私と言った。彼女ではなく、碧の話をしていたのに。
「碧さんのことも、そう呼ぶんですね」
「うん、まあね」
朱音の記憶にある限り、未来の葵でも、そんな呼び方はしなかったはずだ。
一度消えて、こうしてまた表に出てきて。なにか、心境の変化でもあったのだろうか。
「さっき言ったでしょ? 私たちは元からひとりの人間で、消えた訳じゃなくて元に戻っただけだって。だから、あの子が悩んでることも、全部分かっちゃうんだけどさ」
一体自分は何者なのかと。
彼女は、しきりにそう悩んでいた。
シラヌイと呼ばれ、吸血鬼の血が混じっていると知り、ならこれまで信じてきた自分はなんなのかと。
「私たちは黒霧葵。それ以上でもそれ以下でもない。私たちみんなで黒霧葵なの。シラヌイって呼ばれることも、吸血鬼であることも、全部引っくるめて」
それは、とても簡単な答えだ。ゆえに、そこへ至るのが難しくもある。
「あの子には私たちの未練も後悔も託しちゃったから、この答えだけは、ちゃんと私たちで持っていてあげようかなって。それにさ、そうやって悩んでること自体が、自分である証明にもなるでしょ?」
我思う、故に我あり。
どこかの哲学者の言葉だったろうか。果たして一体自分は何者なのか。自分は本当にここで存在しているのか。そう考えること自体が、その存在の証左であるという哲学。
葵の場合、色々と彼女の感情が複雑に絡まりすぎているのだ。
妹の二人から託された後悔と未練。蓮への恋心。その上でネザーやグレイとの関係まで出てきて。見えていたはずの答えを見失い、袋小路の迷路へと迷い込んだ。
消えたはずの葵が出てきたのは、その辺りの不安定さが原因でもあるのだろうか。
「まあ、そういうのは碧があの子に言い聞かせてるだろうし、私は久しぶりの外を満喫するだけなんだけどね」
「父さんと母さんがいなくて残念です」
「ねー。愛美さんたちにも会いたかったなぁ」
なんて笑い合っていると、校舎内からやたらデカイ魔力反応を捉えた。葵も同時に気づいたのだろう。魔力と一緒に、異能による情報網にも引っかかったのかもしれない。
「どうやら、早速満喫できるみたいですよ?」
「思ってたのと違う!」
◆
「どうしたどうした! そんなもんかよ!」
放つ糸の悉くが、その巨大さに似合わぬ俊敏な斬撃に斬り落とされる。
懐まで潜り込んできたカゲロウ。振るわれる大剣の側面を、打撃力重視の糸で殴って軌道を逸らす。続けて魔力の帯びた拳を打ち込むが、バックステップで回避された。
それでも休む暇を与えず、カゲロウの体へ続け様に糸が襲いかかる。
この廊下は既に、蓮のテリトリーだ。至る場所に張り巡らせた糸は、指先の動き一つで標的を貫く鏃となり、ただそこにあるだけで敵の動きを阻害する。どれだけ斬り落とされても、一種の結界として機能しているため糸は瞬時に再生してしまう。
だが、全力のカゲロウを前にしては、全てが無意味だ。
翼の一薙ぎで、術式ごと糸を消される。情報操作の異能によるものだ。
「ならこれで……!」
新たな術式を構成する。
何本もの糸を束ねて槍を作り出し、それを放つと同時、目に見えぬ程か細い糸も放った。槍は囮。ただでさえ見抜きにくい糸が本命だ。
それすらも、カゲロウはその異能ひとつで無に帰す。
「弱えな蓮。そんなんで本当に、ヒーローとやらにはなれるのかよ!」
「……ッ」
どうしてそれを。一瞬生じた疑問は、彼の異能で視たのだと結論づける。
その一瞬が命取りだ。吸血鬼の脚力を使い、あっという間に肉薄してくるカゲロウ。握りしめたその拳が、咄嗟に束ねて展開した糸の壁ごと、蓮の頬を捉えた。
「ガッ……!」
鋭い痛みが走り、脳が揺れる。それだけで済んだのは、威力を殺せている証拠だろう。まともに貰えば顔の骨が砕ける。
「そんなの……俺になれるわけないだろ……!」
乱暴に振るう糸は、やはり容易く防がれてしまう。それでも、蓮は感情に任せて魔力を練り、武器を振るって言葉を吐いた。
「あの時も、昨日も! 俺は守れなかったんだよ! 守りたいと思った大切な女の子に、この手は届かなかったんだ! 俺にはその力がないんだよ!」
まるでその言葉を裏付けるように。縦に振るった糸は、もはやカゲロウの拳ひとつに弾かれる。
絶対的な力の差。異能を使わずとも、自分の魔力ではカゲロウに傷ひとつ与えられない。
「だから諦めるってか? お前の持ってた憧れも、あのチビのことも!」
そんなわけない。諦められるわけがない。
憧れたヒーローになるために守りたいわけじゃない。
好きだから。大切だから。
他の誰よりも、何を差し置いても。
それでも、現実は残酷だ。
どう足掻いたところで、蓮は弱い。葵ともカゲロウとも、彼我の実力差は歴然だ。いつも自分が守られてばかりで、助けられてばかりで。
挙句、この気持ちの向ける先すら見失ってしまう始末。
「よく見ろよ! あいつは、お前の手が届かないところにいるのか⁉︎」
「ああそうだよ! 葵も、黒霧も! 俺の手は届かなかった!」
「それが間違ってんだよ! そうやってあいつを別々に見て、自分の気持ちを有耶無耶にして逃げようとしてんじゃねぇ!」
放たれた糸の合間を縫って、カゲロウが再び肉薄してくる。その勢いのままに押し倒されて、馬乗りになったカゲロウが蓮の胸ぐらを掴んだ。
「答えろよ蓮。お前が守りたいのは誰だ?」
「……ッ、俺は……!」
迷う必要なんてない。その問いに対する答えは出ている。
黒霧葵のことが好きだから。
かつての日常を共にした少女も、今の日常の中で笑い合う少女も。この際だ、碧のことだって例外ではない。
その三人みんなを引っくるめて、黒霧葵という一人の女の子が好きだから。
ただ、それでも。弱い自分には、それを口にする資格がない。
「なにしてるんですか、二人とも」
カゲロウと睨み合っていると、呆れたような声が聞こえた。
刹那、蓮に馬乗りになっていたカゲロウの姿が、消える。なにかに突き飛ばされて、廊下の向こうまで吹っ飛んだのだ。
起き上がって声の方に振り返れば、片手を掲げた朱音と心配そうにこちらを見る葵の姿があった。
カゲロウを吹っ飛ばしたのは、恐らく朱音の魔力弾だろう。
「いってぇな! なにすんだオイ!」
「学院内での私闘は禁止。そのルールに則ったまでですが」
「だったらなんでオレだけ!」
「お節介が過ぎると言いたいのですよ」
朱音とカゲロウのそんなやり取りが、蓮の気を抜けさせる。いつもの日常を感じさせるものだからだろうか。沸騰していた頭が急速に冷めて、体内の魔力を落ち着かせて行く。
そんな蓮に、葵が歩み寄ってきた。
「糸井くん、大丈夫?」
「ああ、うん。大丈夫だよ。別に怪我とかもしてないし」
「えっと、そうじゃなくて……」
なにか言いたげな葵は、言葉を探すように眉を寄せて目尻を下げる。その頬はなぜか、薄く朱に染まっていた。
……そういえば。カゲロウとの喧嘩で全然気づかなかったけど、二人は一体いつからここにいたのだろう。
葵は異能によって、学院内での乱闘騒ぎをリアルタイムで感知することができる。その上転移も問題なく行えるのだし、もしかしたら割と最初の方から?
となれば必然、カゲロウとの会話も聞こえていたということで。
「あー……もし色々聞いてたなら、ちょっと、忘れてくれると助かる、かな……」
大切な女の子とか、ふつうに言っちゃってたし。いや、黒霧が俺の気持ちを知ってたのは、葵からも聞いてるけど。
それとこれとはまた別だ。
「気持ちの整理が、まだ出来てないんだ。いつかちゃんと、黒霧に話すから。俺の気持ちとか、色々。だから、ちょっと待っててくれるか?」
「……うん、分かった。待ってるね」
こちらを見上げてくる眩しい笑顔を、今度は正面から見ることが出来た。
◆
「とまあ、外は今こんな感じなわけだけれど。これを見て、なにか思うところはあるかしら?」
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