幕間 探偵と殺人姫と新たなる敵

第64話

 アメリカはニューヨークの地下に広がる、ニューヨーク市地下鉄。営業駅数468と、その数で言えば世界最大の地下鉄だ。

 乗客者数は世界三位、ほぼ全線で二十四時間営業しており、夜中の二時を回って現在でも電車が走っている。


 目の前を通過した巨大な鉄の塊を見送って、カレン・ヨハンソンは駅から続く地下道を走り出す。

 背後からは相変わらず気配が三つ。身体強化を全力で掛け、父から託されたカバンを腕に抱いて足を動かす。

 この中には、父の遺品でありヨハンソン家最大の財産が隠されている。やつらに手渡してはならない。


 線路の上から道を外れ、フェンスも軽々と飛び越して更に入り組んだ地下道へと入る。いくつもの角を曲がるが、追ってくる気配は消えない。

 やがて行き着く先は行き止まり。右にも左にも道はなく、地下道である以上上や下にあるわけがない。


「ダメだなぁお嬢ちゃん。何も考えず、こんな場所に入り込んだら」


 現れたのは、スーツ姿の三人組。そのうちの一人、リーダーであろう真ん中に立つ若い男は、下卑た笑みを浮かべてカレンの全身を眺めていた。


「よく見たらいい女じゃねぇか。そいつを貰った後、ちょっとくらいつまみ食いしても許されるかもなぁ」

「……下衆め。お父様の遺品も、私の体も、お前たちにくれてやるものは何一つとしてない」


 もはや戦うしかないか。数的不利を考えている場合ではない。ここから逃げ出すには、こいつらを倒さなければ。

 護身用として携帯していた警棒を手に取り、限界に近い魔力をそれでも絞り出す。せめて愛剣がこの手にあれば、たかがマフィアの鉄砲玉程度敵ではなかったのだが。

 無い物ねだりをしても仕方ないか。腹を括り、警棒を構えた。


「なんだよ。大の男三人が、女の子を壁に追い詰めて強奪か? 情けねぇな」


 そこに、新たな声が降ってくる。日本語、だろうか。どこかで聞いたことのある言語だが、なんと言っているのかは分からない。

 男たちの更に後ろ。まさしく通ってきたその道から、魔術学院の制服を着てシルクハットを被り、橙色に瞳を輝かせた男が現れた。


 いつの間に?

 幼い頃から訓練を積んでいたカレンですら、声が聞こえるまで気配を感じなかった。そうでなくとも、感知魔術はヨハンソン家の得意分野だ。意識するまでもなく常に張り巡らせているそれをすり抜け、あの男はここに立っている。

 警戒を上げるカレン。あの日本人は、ただものじゃない。言葉がわからない以上、敵が味方かも判別がつかない。


「あー、翻訳術式忘れてたか。悪いな、一ヶ月は英語圏に住んでるはずなんだけど、まだ喋れないんだ」


 男が軽く魔力を動かす。

 呆気に取られていたマフィアの三人組。そのうちの一人が、動いた。抜いた拳銃。容赦なく引き金を引き、弾丸が男へ突き進む。

 しかし、男は横へ一歩動いただけで、それを躱した。まるで撃たれることを、最初から分かっていたかのように。


「おっと危ない。さすが銃社会アメリカ。やっぱ拳銃くらいは持ってるよな」


 翻訳術式が働いているのか、今度は男の言葉が分かる。その口振りとは裏腹に、全く危ないなんて思っていなさそうな表情。

 マフィア達にも言葉は伝わっているのだろう。リーダーの男が、シルクハットの男を睨め付ける。


「テメェ、何者だ?」

「通りすがりの探偵だ。別に覚えなくていいからな、後が面倒だし」



 ◆



 ニューヨークの一角に佇むオフィスビル。とあるマフィアの下部組織が本拠地としているそこは、今や阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。

 宙を舞う人間の四肢と血飛沫。その中に紛れて、緋色の桜が花びらを散らしている。


「ヒイィィ!」

「囲め囲め! 相手はたった二人だぞ! びびってんじゃねぇ!」

「上と連絡は取れねぇのか⁉︎ どうなってやがる!」


 銃撃や魔術で応戦するが、そのどれもが相手に命中しない。花びらに阻まれ、短剣に斬り裂かれ、構成員たちはただ殺され続けるのみ。


「なんで俺まで……」

「文句言わない。懐かしくていいじゃない」


 惨状を引き起こした張本人たち。桐原愛美と黒霧緋桜は、呑気にもそんな言葉を交わしている。

 むしろ、この戦闘こそが片手間だとでも言わんばかりに。


「マフィアのボスに面通しさせただけでも十分だろ。今日は家に帰って葵に夕飯作る予定なんだぞ」

「今日って、もう夜中じゃない」

「時差って知らないのか?」

「ああ、そう言えばあったわね」


 愛美が緋桜と再会したのは、つい昨日のことだ。アメリカに存在する賢者の石は、ニューヨークだけ異常に数が多かった。軽く調べたところ、どうやらマフィアの下部組織のいくつかが、上に独断で入手していたらしい。

 その下部組織の構成員全てが、一つずつ石を持っていた。


 織と愛美が勝手に殲滅して回るのは、さすがに都合が悪い。だが丁度いいことに、アメリカには知り合いがいた。どうにか出来ないかと緋桜を訪ねて相談してみれば、件のマフィアの上がネザーのスポンサーについているらしかったのだ。

 そのツテを利用してマフィアのボスに話を通し、今こうしてこの場にやって来た。


「にしても、想像以上に話がスムーズで助かったわ」


 突撃してくる構成員の首を斬り落とし、返り血を浴びながらも安堵のため息を吐く愛美。場合によっては、ややこしい話になりかねなかったから。


「マフィアも学院とはそれなりに関わりがあるからな。桐原組みたいなもんだよ。魔術的な土地の管理を任されてるんだ」

「私が言うのもあれだけど、犯罪組織に任せる学院もどうかしてるわよね」

「そのあたりはちゃんと選んでるだろ」


 なんて話を交わしている間に、残されたのはこの組織のリーダー、たしかマフィアではキャプテンなどと呼ばれるのだったか、そいつ一人になっていた。

 床に倒れている誰もが、灰色の吸血鬼から受け取った石を秘めていたのに。まるで赤子の手をひねるかの如く、瞬く間に殺された。


「さて、残りはあんただけね」

「ふざけるなよ……こんなことをして、上が黙ってると思うな!」

「残念、その辺はちゃんと許可取ってるわ」

「な……!」


 絶句するのと同時に、男の体は真っ二つに斬り裂かれた。

 石持ちとはいえ、その力を十全に発揮できなければこの程度か。これなら、イギリスの石持ち一人を相手にする方が苦労した。


「ま、久しぶりにいっぱい殺せたし、楽しかったからいいんだけど」

「その辺は変わらないな」

「変わるわけないでしょ」


 後処理はあらかじめ学院のアメリカ支部にお願いしてあるから、放ったらかしでいいだろう。魔術で返り血を流してオフィスビルから出ると、別行動を取っていた織がそこにいた。


「早かったわね」

「三人だけだったからな。ちょっと想定外もあったけど」

「想定外?」

「女の子が追われてた。ていうか、石を持ってたのはその子だった」


 曰く、まだ体内に取り込む前で、追う側のマフィアどもはその石を狙っていたらしい。運のいいことに三人いたマフィアは誰も石を宿していなかったという。

 その子から奪って、早い者勝ちで自分のものにしようとしていたのだろう。


「石だけ壊して、その子は地上に送り返して別れたよ。父親の遺品だなんだって言ってたけどな」

「他は?」

「地下に置き去り。足捥いだし、動けねぇよ」


 殺していないことに、織の手が汚れていないことに、安堵した。

 それは愛美の役割だ。いくら織にその覚悟があっても、させるわけにはいかない。手を汚すのは、私だけでいい。


 そんな愛美の想いも知らず。いや、もしかしたら知ってはいるのかもしれないけれど。

 当の織は緋桜と親しげに会話している。


「すんません、緋桜さん。愛美の面倒見てもらって」

「慣れてるから気にすんな。もっと酷い時も知ってるしな」


 案外仲のいい二人に驚きつつも、しかし会話の内容が聞き捨てならない。まあ、たしかに。緋桜には相当面倒をかけた自覚はあるけれど。


「それより二人とも、明日の昼は空いてるか?」

「まあ、丁度休息日にしようと思ってましたけど」

「緋桜が明日の昼食奢ってくれるなら空いてるわね」

「お前らに会いたいって言ってる奴がいるんだ。そいつの奢りなら、飯も食えるぞ」


 緋桜は現在、ネザーに勤めている。となれば、その繋がりだろうか。

 愛美はともかくとして、織の異能はネザーも無視できないものだ。なにせ、その異能の研究をしていたがために、壊滅してしまった支部があるのだから。


「どうする?」

「まあいいんじゃね? 緋桜さんの知り合いなら、妙な真似はしないだろうしさ」


 織も愛美と同じことを考えていたのだろう。あるいは、幻想魔眼を持つ本人であるからこそ、もう少し考えを巡らせているかもしれない。


「それじゃあ決まりだな。ホテルに泊まってるんだろ? 明日、そこまで迎えに行く」


 明日の予定も決め、緋桜と別れて宿泊先のホテルへと戻った。

 予想外の出会いが、待ち受けてるとも知らずに。



 ◆



 織と愛美がホテルを取ったのは、相手が組織であると分かったからだ。数日かかると判断した二人は、適当なホテルを見繕ってそこに泊まることにした。

 本来なら転移でイギリスに帰る予定だったのだが、まあいい。ホテル代くらいは問題なく払える。愛美が。


「なんか、こう、甲斐性的なのが圧倒的に不足してる感じするな……」

「私の方がお金持ってるんだし、家族なんだから共有財産みたいなもんでしょ。気にしすぎよ」


 ホテルのチェックアウトを済ませた二人は、そのロビーを少し借りて緋桜を待っていた。

 愛美は織が学院に入る前からずっと、裏の魔術師どもの相手をしていたのだ。その報酬金は莫大。本や人形などに使ってもまだ余りあるほど。

 なんならアメリカに来る前は、もしもの時ようにとロイからいくらかドル札も受け取ってしまっていた。


 でも、共有財産ってのはちょっといいな。夫婦みたいな感じする。


 などと浮かれきったことを考えていれば、ホテルの扉が開いて待ち人がやってきた。


「悪い、待たせたな二人とも」

「いえ、そんなには。どこで会うんですか?」

「すぐそこのハンバーガーショップだ」


 早速ホテルに出れば、空から一羽のカラスが飛んできた。そいつは緋桜の肩に止まったのだが、おかしな点がひとつ。

 足が三つある。

 明らかに普通ではないそのカラスを、織も愛美も見覚えがあった。


「先生の使い魔?」

「ああ。一応蒼さんにも声をかけててな」


 小鳥遊蒼の使い魔。二人も、彼と連絡を取る時はこのカラスを利用していた。隠密性はこれが一番らしい。

 しかし、蒼にも声をかけるほどとは。果たしてこれから会う人物は何者なのか。


 考えられるのは、異能研究機関ネザーの幹部以上の人間。

 織には幻想魔眼がある。それに興味を惹かれた、というのが最も有力だが。


 再び飛び立ったカラスは三人の少し後ろをついてくる。肩に乗せたまま歩くわけにもいかないし、店の中に連れて入るなんてもってのほかだ。

 そして十分ほど歩いて辿り着いたのは、日本にもチェーン店が存在している有名ハンバーガーショップ。この国発祥の某ヒーローの社長が、ここのチーズバーガーを食べていたことでも有名だ。

 なんだかんだで初めて入るなぁとかぼんやり思っていると、緋桜に案内された先、そこに座る灰色の髪を見て、驚愕した。


「な、んでッ……!」

「緋桜。どういうことか、説明しなさい」


 四人がけのボックス席に座ってポテトを摘んでいるのは、見間違うはずもない。

 両親と友人の仇である吸血鬼。因縁の相手、グレイだった。


 反射的に腰のホルスターへ手が伸びる。いろんな感情が込み上げて、それに呼応するよう魔力が蠢く。術式を構成する。


「まあ待て、桐生織。ここでやり合うつもりはない」


 他ならぬグレイの言葉で、織は咄嗟に動きを止めた。店内には、他に大勢の客がいる。今ここでグレイと戦闘になれば、否応無く周りを巻き込んでしまう。


「いつまでも立っていないで、座りたまえ。他の客の迷惑になるぞ?」


 皮肉げな笑みを浮かべる灰色の吸血鬼。その真向かいに、二人は腰を落ち着かせる。

 わざわざ人目のある場所を選び、外にいる蒼の使い魔すら見逃しているということは、グレイには本当にここでやり合うつもりがないのだろう。その理由までは窺い知れないが、どの道織と愛美も、ここでは戦えない。

 悔しいが、こいつの言う通りにするしかないのだ。

 それでも警戒は解かないまま、視線は吸血鬼の隣、緋桜の方へ向いていた。


「蒼さんには、昨日のうちに説明しといたんだけどな。俺には、グレイに大きな借りがある。こいつがお前たちと会いたいっていうから、こうして会わせた」

「借りってなによ……こいつが誰か、あんた分かってるの……?」


 震えた声で問う愛美だが、緋桜はなにも言わない。代わりに答えるのは、コーラを飲み干したグレイだ。


「たしか今、カゲロウは日本支部にいるんだったな?」

「それがどうした」

「貴様らに会って話したかったのは、そのことについてなのだよ」


 蒼から話は聞いている。

 グレイの息子である半吸血鬼を、学院に置いていると。そして彼が、グレイの手先に狙われていたと。


「プロジェクトカゲロウ。聞いたことは?」

「お前の息子と、関係あるのか?」

「もちろん。緋桜の言う借りも、ここに起因している。だがまあ、安心したまえ。緋桜は貴様らの味方さ。貴様らと同じく、本当なら今この場で私を殺したいはずなのだから」


 露骨な舌打ちが。

 なにも言われずとも、緋桜の表情を見ただけで、その複雑な心境が知れた。

 彼の胸中では、葛藤もあるはずだ。親しかった友人を殺された。それは覆ることがない事実。だが彼の中では、それと同等に迫る大きな借りがあるという。


「さて。ではまず、事実から先に言ってしまおうか。プロジェクトカゲロウとは、私の遺伝子を用いて人工的に異能持ちを作ろうとした、異能研究機関設立以来最大のプロジェクトなのだよ」

「それで生まれたのが、カゲロウってやつか」

「カゲロウだけじゃない」

「他にもいるの?」


 チラリと、吸血鬼が隣を一瞥した。まるで気遣うような視線。グレイがそんなものを緋桜に向ける意味が、全く分からない。

 けれど分からないままに話は進む。視線を正面に戻したグレイは、織たちにとって大切な後輩であるあの子の名前を、口にした。


「黒霧葵。ネザーではシラヌイと呼ばれていた。彼女も、プロジェクトカゲロウで生み出された一人だ」

「は……?」


 思いもしなかった名前を聞いて、織は絶句する。多重人格の呪いを受け、両親をグレイに殺されたという後輩。今はその呪いとともにかつての二人も消えてしまい、本当の黒霧葵として生活しているあの子が?


「……そんな話を、信じろって? 他の誰でもない、あんたからの話を?」

「信じる信じないは貴様次第だよ、殺人姫。解釈は任せよう。その上で、こうも言わせてもらう。私も、緋桜も。カゲロウもシラヌイも、かつて関わりのあったサーニャや、我が眷属であるガルーダすら。プロジェクトカゲロウに関係する全員が、記憶改竄を受けている」


 到底信じられる話ではない。なにせこの話をしているのは、憎き仇敵なのだ。


 だが、それは織と愛美の感情による主観でしかない。冷静になれ。こうして相対しているだけでも湧き上がる怒りを、今は無理矢理抑えつけろ。


 仮にこの話が嘘だったとして。グレイがわざわざ織たちにこの様な偽の情報を流す理由はあるか? こんなまどろっこしいことをせずとも、こいつには圧倒的な力がある。蒼たちのお陰で、現在も十分な状態ではないと言え、だ。

 従えている魔物の数。原理は不明だが、賢者の石のレプリカすら生み出す異能。そしてその賢者の石による魔力。


 ほんの気まぐれで、ここで殺されてもおかしくはない。そうでなくとも、ここには人類最強の目も届いている。

 グレイには、嘘をつく理由がないのだ。

 ただし、この話が本当であるという証拠もない。頭から尻尾まで信じることはできないが、聞くに値する話ではある。


「俺がネザーにいるのは、南雲との、延いてはグレイとの繋がりを探るためだった。だが同時に、プロジェクトカゲロウについても調べていた。葵がそれによって生まれたことは知っていたからな」

「なら、どの記憶を改竄されてたんだ?」

「俺と葵の両親が死んだ日だ。あの日の記憶が、イマイチはっきりとしない」

「私には、未だに霧の魔術師をこの手で殺した記憶があるのだかね。緋桜からこの話を聞いた時はまさかと思ったが」

「元々俺が持っていた記憶は、グレイに両親が殺されて、なぜか俺と葵だけが見逃された。こいつの眷属であるガルーダも、その日その場にいた。違和感を覚えたのは、カゲロウのことを聞いた時だ」


 今の緋桜の話を聞く限り、黒霧兄妹の両親が殺された時、カゲロウはその場にいなかった。ましてや、先程名前の出てきたサーニャすらも。


「それまでの俺は、当然のように信じきっていた。グレイに両親が殺された、ってな。だが実際は違うらしい。辛うじて思い出せたのは、俺と葵がグレイとガルーダに、なにかから助けられたことだ」

「助けられたって……」


 恐らくはそれこそが緋桜の言う借りとやらなのだろう。俄かには信じがたいが。


「葵の異能を消そうとしていたのは?」

「いつかこいつが、葵を狙うかもしれないと考えたからだ。実際、今も狙っているわけだしな」

「ああ、その点は誤解しないでほしい。私はカゲロウもシラヌイも、この手に収めるつもりだ。我が悲願のためには、二人の異能が必要なのでね」

「……俺の両親を殺したのも、お前の目的のためだってか?」


 ずっと、聞こうと思っていたことだ。そもそと織の戦いは、そこから始まったのだから。

 時が進む度、話が大きくなっていく度、疑問は増すばかりだった。なぜ、自分の両親が殺されなければならなかったのか。


「その通りだが? 邪魔になる者、障害となる者は全て排除する。当然のことではないか」

「だったらッ!! ……だったら、お前の目的はなんなんだよ! 桃の仲間を殺して、俺の両親を殺して! 桃を殺して! そうまでして賢者の石を求めたお前は! なにを目的としてるんだよ!」


 ふつふつと、抑えていたはずの怒りが再び湧き上がって、爆発した。周りの客がなにごとかと視線を向けるが、今の織は、目の前のの吸血鬼以外が意識から外れていた。

 そもそも話しているのは日本語だ。翻訳術式も使っていない。なにを話しているのか、誰にも理解できていないだろう。


 言葉のチョイスを致命的に間違えている。

 誰かの命を奪ったのは、織たちだって同じだ。それも、我儘な目的のために。

 キリの人間としての使命も、勿論ある。だけどそれ以上に、家族を守るため。

 それは決して、例え裏の魔術師であろうが、人殺しの免罪符にはならないのだ。

 織自身がその手にかけたわけではないとしても。


 そこを弁えているから、愛美はなにも言わない。ただ、強い眼差しで吸血鬼の返答を待つのみ。

 やがて開かれた口からは、厳かに、しかしどうしようもなく悲痛な響きで、一つの目的が発せられた。


「この世界の救済。我が身が吸血鬼と化したその時から、なに一つ変わらない悲願だよ」


 今度こそ。本当に、意味がわからない。

 世界の救済だなんて、そんなことを、この吸血鬼が?


「ありふれた話さ。妻を戦争で亡くし、醜い人間を呪った男の、ありふれた目的。どこにでも存在する悲劇を、まるで世界の終わりかのように捉えた、バカな男のな」


 軽い口調は他人事のようで。けれど間違いなく、この吸血鬼がかつて遭遇した悲劇で。

 故に、ただ一つ理解する。灰色の吸血鬼グレイにとっての世界に、人類は含まれていないと。


「そのために、賢者の石が必要だ。レコードレスが、位相の力が必要だ。しかし私は、キリの人間ではない。幻想魔眼も持たない。だからカゲロウとシラヌイの異能を使い、ドレスの力を無理矢理引き出す」


 情報操作。

 カゲロウはどうか知らないが、シラヌイと呼ばれる葵の異能だ。この世に存在するあらゆるモノの情報を操作する。だがそれは、位相の力には作用しないはずじゃないのか。


「我々はたしかに、敵対する関係にあるだろう。だが同時に、共通の敵も存在する。それがネザーだよ」

「……カゲロウと葵を、やつらに奪われるな、って言いたいわけか?」

「その通りだとも。プロジェクトカゲロウについて、私も緋桜も、肝心な部分の記憶がまだ取り戻せていない。プロジェクトによって生み出された二人、その異能は理解している。だが、なぜそのプロジェクトが立ち上げられたのか。なぜ私の遺伝子を使っているのか。それが思い出せないのだよ」


 もしかしたら、グレイに奪われるよりも厄介なことになりかねない、というわけか。


「あんたなんかに言われなくても、大切な後輩を渡すわけないでしょ。ネザーにも、あんたにも」

「心強いな、殺人姫。だが、決して油断はするな。プロジェクトのことだけではない。探偵の持つ幻想魔眼すら、やつらは狙うかもしれないぞ?」

「受けて立ってやるよ。むしろ好都合だ。あっちから来るってんなら、その目的も聞き出してやる」


 これは間違いない。ネザーに対する立ち位置。ただそこだけに視点をおけば、織たちとカゲロウは利害が一致する。

 だからこそ緋桜も、こうしてグレイへの借りを素直に受け入れている。


 ただ、織はどうしても、そこまで割り切れない。


「話は終わりだ。私はこれで失礼しよう」

「逃すと思ってんのか?」


 既にこの店の周囲には、結界を張り巡らせている。店内のただ一人、グレイだけを逃がさないため。ここでは戦えないが、場所を移せば話は別だ。人のいない場所へ無理矢理転移させ、そこで仕留める。


 だがそれを分かった上で、グレイの表情から余裕の笑みは消えない。


「一つ、置き土産をしておこうか。私の、そしてプロジェクトで生み出された我が子らの異能についてだ」

「……情報操作」

「その通り。私はその中でも、情報の構築に優れていてね。賢者の石のみならず、生命すらも構築できる」


 人類最強ですら殺しきれなかった、グレイの不死性。その原理が、見えてきた。


 魂の複製。

 灰色の吸血鬼は、その体のうちに己が魂のコピーを、いくつも持っている。削ったそばから補充して、やがて死と生の境界すらもなくなる程に。


「だがまあ、この程度のお粗末な結界なら、異能を使うまでもない。私を殺したければ、もう少し魔術の腕を磨くことだな」


 結界が破壊された。それを感知した頃には既に、グレイの姿は消えていた。



 ◆



「どう思う、あいつの話」

「さて、どうでしょうね。嘘を言ってるようには見えなかったけど」


 緊張の糸が切れ、織は背もたれに体を預けていた。隣の愛美は、行儀悪くもテーブルに突っ伏している。


 グレイが語った話は、愛美の言うように嘘をついている様子はなかった。嘘を言う理由もない。


「正直、俺も半信半疑だよ。自分の記憶を疑えなんて、難しすぎる」


 緋桜ですらこの調子だ。

 しかし、真実を語っていると確信できる話が、一つ。

 やつの目的だ。多くの人間を殺し、学院と派手に敵対してまで成し遂げようとしている、吸血鬼の悲願。


 証拠も何もないけれど、理解してしまう。

 グレイは本気で、世界の救済を目的としている。人類を滅ぼすと言う形で。


「葵は、知ってるんですか?」

「知らない。二重人格の呪いが解けても、葵の記憶は俺と同じだった。グレイに両親を殺された、って書き換えられてる」

「……自分が、純粋な人間じゃないことも?」

「ああ」


 もしも、葵がそのことを知ってしまったら。その精神的な負担はどれほどのものか。織には想像も出来ない。


 でも、大丈夫なはずだ。葵には自慢の娘がついている。今は、あの子達を信じることしかできない。


 言葉はなく、ただ沈黙の時間が続く。

 織も愛美も、与えられた情報を整理するのに精一杯だ。なにせグレイですらも翻弄する敵が、新しく出てきたのだから。

 異能研究機関ネザー。未来では壊滅寸前だったという組織。

 もしかしたら、未来の破滅にも深く関わっているのかもしれない。


 沈黙が破られたのは、いつの間にかテーブルの上に一枚の紙が置かれてあったから。

 三人がそれに気づき、そこに書かれた文字を読む。


『ネザーに関しては、僕も調べる。緋桜も引き続き調査を頼んだ。織と愛美は、本来の目的に集中してくれ』


「先生か……」

「あの人がこう言うなら、仕方ないな。多分、潜り込んでる俺にしか見えない場所はあると思うし」

「まあ、現状ではそうするしかないわよね」


 織たち自身がネザーから直接干渉を受けたわけではない。緋桜と蒼に任せるのがベストだろう。

 もしも織の幻想魔眼を狙うようであれば、その時に対処すればいいだけのこと。


 先のことについてはそれで決まりだ。しかし、こうなっては緋桜にも言っておかなければならないことがある。

 愛美とアイコンタクトで確認を取り、織は向かいに座る先輩へ向き直った。


「緋桜さん。俺たちから、教えておきたいことがあります」

「なんだ、改まって。結婚式の日取りでも教えてくれんのか?」

「んなわけないでしょバカなの?」


 愛美の冷たい視線は、肩を竦めて受け流すのみ。小慣れたやり取りだ。

 緋桜が真剣な表情に変わったのを見て、織も切り出した。


「俺と愛美と朱音。それから、緋桜さんと葵。俺たちキリの人間についてです」

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