第47話
愛美が風紀委員に入って、一週間が経過した。律儀にも毎日部屋へやって来る彼女は、ソファに座ってなにやら術式を弄ってるだけ。たまに校内で騒ぎが起き、風紀が出動する事態になれば、緋桜の後ろに文句も言わずついてくる。それでも下校した後はやはり依頼に向かうようだったので、緋桜もそれに同行する羽目に。一人で行かせれば監視の意味がなくなるから。しかも毎日だ。
自分も魔力量には自信があるが、愛美のそれも大したものだ。普通、連日戦い続ければ、魔力の回復が追いつかなくなるのだが。
初歩の強化と転移しか使えないらしいが、それは術式の構成を知らないだけだろう。勿体ないと思いはするものの、本人が望まない限り、緋桜から魔術を教えることはしなかった。
しかし、会話がない。部屋の中での愛美はずっと黙ってるし、戦闘中に連携を取ることもないから、その時にも会話は生まれない。
緋桜が話を振っても、無視するか短く答えて終わるかだ。
猫を手懐けるのも、中々難しい。
「はぁ……」
「どうしたのお兄ちゃん? ため息なんて珍しいじゃない」
向かいに座って夕飯を食べていた妹、黒霧碧が尋ねてきた。彼女は多重人格者であり、今出てきている碧は交代人格の一人だ。
本当の葵が封印されてから、もう十年は経とうとしている。それだけの時間があれば、いくら交代人格とは言え妹として愛しているのも当然だ。
「いや、ちょっとな……風紀に新人を入れたんだけど、これまた猫みたいに気難しいやつなんだ……」
「もしかして、女子?」
「そうだけど」
「どうりで。最近お兄ちゃんから、他の女の匂いがしてたのよね」
「してたのか……」
匂いが付くほど接近した覚えはないのだが。まあ、匂いというのは比喩だろう。この妹の場合、わざわざ匂いなんて嗅がなくても見ただけで分かるのだから。
「でも女子なら手っ取り早いじゃない。お兄ちゃんお得意のナンパ術で、さっさと陥落させたら?」
「碧、お兄ちゃんのことなんだと思ってるのか、一回教えてくれないか?」
「私の大好きなお兄ちゃん♡」
「ははは、お兄ちゃんも碧たちのこと大好きだぞ」
「あと、セクハラとかナンパとか平気でするクズ。女の敵」
「でもそういう歯に衣着せないところはちょっとどうにかした方がいいんじゃないかとお兄ちゃん思うな」
さすが碧、上げて落とすとは容赦がない。泣きそう。
「冗談は置いといて」
「なあどこまで? どこまでが冗談なんだ?」
「その人、どんな人なの?」
本当にどこまでが冗談なのかが気になるし死活問題なのだが、とりあえず聞かれたことを考えてみる。
どんな人、と聞かれても。緋桜自身、まだ愛美のことを対して知らない。先も述べた通り、会話が少なすぎる。それにまだ一週間だ。上辺だけならまだしも、彼女の本当の人となりを理解するには足りない。
その上で、敢えて説明するなら。
「猫みたいな殺人鬼、ってとこか?」
「なにそれ?」
「俺もよくわからん……視てみたらどうだ?」
「そうさせてもらおうかしら」
碧たちの異能、情報操作による副作用の、情報の可視化。この場に愛美自身がいない以上、詳しい情報が映されることはないだろうが、緋桜の主観に頼った情報のみなら得られるはずだ。
例えば容姿であったり、この一週間の出来事だったり、緋桜が愛美のことをどう思い、どうしようと考えているのか、だったり。
「ふーん、結構、ていうかめちゃくちゃ美人な人なのね」
「見てくれだけはな。中身は壊滅的なくそ女だよ」
あと胸が小さい。緋桜的にはその時点でノーサンキューである。
「でも、女の子には変わりないんだから。鬼じゃなくて、姫の方がいいと思うけど」
「人を殺す姫と書いて
「えっへん」
たしかに彼女の戦い方には鬼気迫るものがあったが、それ以上に美しさを感じさせるものだった。
孤高の美しさを帯びて舞う少女。他を寄せ付けることもなく、独りであるからこそ美しいのだろうけど。
「まあでも、変に考えなくてもいいと思うけど。お兄ちゃんはそのままで、その人にぶつかってあげればいいと思うわよ」
「そうだな、そうしてみるよ」
「ああそれと、さっきから葵がお兄ちゃんにも春がー、とか言ってるけど、間違ってもそんなことにはならないようにね?」
「それはないから安心しろ」
妹のブラコンっぷりが、少し怖くなった緋桜だった。
◆
今日も今日とて、放課後は風紀委員室で書類仕事。意外にも、と言うべきだろうか。この学院の風紀委員は、なにも生徒を取り締まることだけか仕事ではない。
例を一つあげるとするなら、校舎の修繕依頼だ。
乱闘を起こす生徒を鎮圧。そうなれば当然、周りにも被害が生まれる。校舎は割とあちこちが壊れるし、その度に一々直さなければならない。
ある程度までならば緋桜が勝手に直すのだが、あまりにも被害が大きすぎると面倒だ。消費魔力もバカにはならない。だからこうして、教師側に乱闘を起こした生徒の報告も兼ねて修繕の依頼を出す。
昨日起きた分の報告を終わらせると、椅子に座ったまま体を伸ばした。やはり書類仕事は肩が凝る。
マッサージしてくれるような優しくて可愛い女子がいれば良かったのだが、ここにいるのは冬の空より更にドライな少女のみ。
「なあ、せっかく風紀入ったんだから、ちょっとは手伝ってくれよ」
「いや」
ほらこの通り。端的に素っ気なく返して、愛美は今日も広げた術式の構成を弄っている。
幾何学模様の向こうに見える顔は、こちらに向きもしない。
愛美が弄っている術式は、見た感じ強化魔術の類いだ。しかしただの強化ではない。緋桜の知らない式が所々に紛れ込んでいる。
「それ、どんな魔術なんだ?」
「あんたを殺すための魔術よ」
「おいおい、そんなものここで作ってていいのかよ。敵に手の内見せてるようなもんだぞ」
「問題ないわ。どうせ対処できないんだから」
「そいつは恐ろしい。出来上がるのが今から楽しみだな」
教えるつもりはないらしいが、何気に会話の長さが歴代最長を更新した。いつも一言で済ませられるのに。
内心で喜びかけたが、ちょっと待て。それでも二言で終わってるぞ。こんなんで喜んでどうする。
それからはまた無言の時間が続く。愛美は術式を弄り、緋桜は備品のティーポットで淹れた紅茶を飲み、なにをするでもなく時間を潰していた。
程なくして術式を閉じ、ソファから立ち上がる愛美。時計を見れば、そろそろいい時間になっている。
「今日も行くのか?」
「分かりきったことを聞かないで」
「そいつは悪いな」
愛美に続いて立ち上がり、二人で部屋を出る。緋桜が付いてくることに関して、愛美は最早なにも言わなくなった。早々に無駄だと諦めたのだろう。
掲示板に向かっている最中、前を歩く愛美が突然足を止めた。何事かと思い彼女の視線の先を追うと、そこでは女子生徒が二人、仲良さげに会話をしている。
なにを話しているのかまでは聞き取れないが、それでも笑いあって話すあの二人が仲のいい友人なのは、見ているだけでも分かることだ。
その様子を眺める少女の顔には、ほんの少しだけ寂しげな色が。
「羨ましいのか?」
まさかと思い聞いてみたら、愛美の肩が小さく震えた。
「……そんなわけない、と言ったら嘘になるけど。でも、私には必要のないものよ」
「まさかお前、人との繋がりは弱さになるから、なんて思ってるのか? だったらやめておけよ、その考えは。弱いくせに強がるやつの思考だ。本当に強くはなれない」
「それもないわね。誰かとの繋がりっていうのは、大切なもの。それくらい私も理解してるわ。でも、私にとってのそれは、家族だけで十分」
今日は随分とお喋りのようだ。一週間もあれば、多少は心を開いてくれたということだろうか。そんな素振りは微塵もなかったから、単なる気まぐれということもあるけど。
再び足を動かした愛美は、それに、と言葉を続ける。
「強がることは、悪いことじゃないでしょ。強くありたいと願っても、そうなれないやつだっているのよ。どんなに求めても手に入らない。どうしようもなく弱い人間が」
「だから、正しさを求めるのか? 自分が強くなるために」
その問いに答えはなく。愛美はそれ以上口を開かずに、掲示板への道を進んだ。
だが、多少は見えてきた。桐原愛美の中に巣食う歪さ。その元凶が。
◆
「おかえりなさいませ、お嬢!」
「ええ、ただいま」
その日の依頼を終えて帰宅した愛美は、自宅の屋敷ですれ違う度に頭を下げてくる家族たちに対して、柔らかな微笑で応じていた。
学院で見せている姿とは大違い。だが、これが桐原愛美という少女の素だ。
家族思いの優しい少女。ともすれば、どこにでもいるただの女の子と変わらないような。
いつものように大勢の家族で夕飯を食べる。他愛のない話を交わして笑い合う、数少ない心休まる時間。
だけどそんな時間こそが、愛美を苛む。
こんな優しい家族たちに囲まれているのに。どうして、この身を焦がす衝動は消えてくれないのか。
夕飯を済ませて風呂にも入り、部屋に戻る。
お気に入りの人形を抱きしめながら、今日は少し話しすぎたかと後悔した。
一週間前、突然絡んできては自分を風紀委員へと入れた男。黒霧緋桜。
名前だけは知っていた。いくら周囲との関係が絶無の愛美といえど、風紀委員の悪名くらいは嫌でも耳に入ってくる。
ルールを破った生徒に秩序の鉄槌を下し、実質この学院を支配している男。それが緋桜だ。しかし蓋を開けてみれば、ただのセクハラクソ野郎。この一週間で何度デリカシーのない発言を投げられ無視してきたか。
「それでも、私のためを思ってくれてるのは、事実なのよね……」
教師に頼まれて、とは言っていたが、それだけの理由なら無理に愛美と関わる必要はない。適当なところで放り出してダメでした、と報告すればいいだけなのだから。
彼の態度には、義務感を感じられない。それがどうしてなのかは分からない。あの部屋ではまともに会話もしていないから、愛美は緋桜のことをあまり知らないのだ。知ろうともあまり思わないが。
桐原愛美は正しくあらねばならない。そうでなければ、強くなれないから。この優しい家族と、接する権利がないから。
だから、正しいことに使うのだ。殺人への飽くなき衝動と欲求を。殺すことしかできないこの力を。
そしたらいつか、今よりも強くなれると信じて。
◆
愛美が風紀に入ってから、更に数日が経ったある日。ポツポツと、ではあるが、二人の間に会話が増え始めた頃。
「殺人姫、って知ってるか?」
「知らない」
いつも通り術式の開発に勤しんでいた愛美に、緋桜が問うてきた。が、これまたいつも通り一言でバッサリ切り捨てる。
しかし続いた言葉は、さすがに無視できないもので。
「お前が最近、周りからそう呼ばれてるんだよ」
「は?」
思わず顔を上げた先では、緋桜が愉快げに喉を鳴らしている。
たしかに自分はそう呼ばれてもおかしくはないし、特段文句があるわけでもないが。しかし、捻りがなさすぎるだろう。そのまんまじゃないか。
「ああ、なんか勘違いしてるようだから言っとくと、鬼じゃなくて姫な。人を殺す姫と書いて殺人姫。お前にぴったりだ」
「初耳なんだけど。誰よ、そんなの言い出したやつは」
「さて、誰だろうな」
間違いない。目の前でくつくつと笑ってる男だ。そうに違いない。
キッと睨んでいればその笑みも抑え、途端に真剣な顔になる。
「そんなお姫様に、ご指名で依頼が入った。ほれ」
取り出した紙を差し出す緋桜。取りに来い、ということらしい。術式を閉じて立ち上がり、依頼書を受け取る。
なんだかんだで、依頼書をしっかり見るのは初めてだ。いつもは報酬金のところしか見ない。高ければ高いほど、強い相手と殺し合えるのはたしかだから。
だからまずはそこから見たのだけど、報酬額はなんと三桁万を超えていた。今まで愛美が受けた中では、一番高い。つまり、相応に強いやつが相手ということだ。
「たまには金以外も見ておけ。特に、この額になってくるとな。今までのように、事前の情報がなくてもどうにかなる相手じゃない」
悔しいが、緋桜は愛美よりも強い。その彼が言うのだから間違いはないのだろう。それで敵への興味が湧いたわけでもないけれど、依頼の詳細についてさっと流し読みする。
標的は魔術師が一人。どこぞの山の中に篭り、その近くの村から人間の魂を吸っているらしい。それを魔力へと変えて、なにやら大規模な魔術儀式を企んでいるとか。
詳細は分かったが、そこで自分が指名される意味がよく分からない。
「どうして私に?」
「殺人姫なんてあだ名が広まったからだよ。この世界に限らず、例えばスポーツなんかでもそうだが、二つ名やらあだ名がつけられるってことは、周りにその実力が評価され、知名度が上がった結果だ」
「欲求不満を解消してただけなんだけど」
「その言い方はやめろ……」
事実を口にしただけなのだが、なにかいけなかっただろうか。キョトンと小首を傾げる愛美に、緋桜はため息を漏らす。
「とにかく、そう言うことだから、今後はお前を直接指名しての依頼が出てくる。そういった依頼はどれも報酬が高いし、それなりにヤバイ案件だ。今回みたいにな」
「へぇ、面白そうじゃない」
つまり、これからはもっと強いやつらと戦えると言うことだ。自分よりも格上の相手と、命を削り、奪い合うことができる。あの愉しみを、もっと味わえる。
「そうと決まればさっさと行きましょう」
「……」
「なによ」
驚いたような顔で見つめてくる緋桜。なんだと尋ねても返事はなく、ついキツイ目で睨んでしまう。さっきから本当になんなのか。
しかしすぐに破顔して、緋桜は立ち上がった。
「いや、なんでもない。ちょっと猫を手懐けた気分ってのを味わっててな」
「なにそれ」
「分からなくていい」
面倒だから直接行くか、と尚も笑みを浮かべながら言った緋桜が、軽く詠唱。足元に魔法陣が広がり、ほんの一瞬だけ浮遊感が訪れる。転移魔術を行使した際の現象だ。
次の瞬間には視界に広がる景色は変わっていて、どこともしれない鬱蒼とした森の中に立っていた。
魔力感知に反応があったのか、緋桜が先行して歩き出す。その後ろについて歩きながら、愛美も感覚を研ぎ澄ませて周囲の状況を伺った。
「……おかしいわね」
音が、しない。例えば、鳥の囀り。風に揺れる草木。虫の鳴き声。学院の周囲を覆う樹海ですら聞こえるそれらが、全く聞こえない。生物の気配すら感じない。
「どうした?」
「ちょっとこっち来て」
脇道に逸れ、近くにあった木の裏へ回る。そこには愛美の予想通りのものが。
「これは……罠、か?」
「魔力を使わないタイプのものね。魔術師の不意を突くには最適よ」
そこにあったのは、数本の折れた竹槍。少し目を凝らしてみれば、近くには切れた紐が落ちている。恐らくだが、あの紐に引っかかるなり踏むなりすれば、この竹槍が侵入者に襲いかかっていたのだろう。
魔力感知に頼る魔術師には悟られない、完全に不意を突ける罠だ。
問題は、なぜそれが壊されているのか。
「お前、よく見つけたな」
「殺意には敏感なの。その残り香であろうとね。それより、森の様子がおかしい。不自然なほどに静かすぎるわ」
「罠が壊されてるのと無関係じゃない、ってことか?」
「多分ね。先客がいるわよ」
二人よりも先にこの森へ入り込んだやつが、罠を破壊したのだろう。この森の静けさは、そいつが起因しているに違いない。
愛美がザッと森の様子を見た限りでは、生物が全く存在していないというわけではなさそうなのだ。だがその気配すら感じられないということは、標的の魔術師は関係なく。侵入者こそが原因だろう。
慎重に森の中を進む二人。緋桜とて、依頼中のアクシデントは経験したことがある。関係のない全く別の裏の魔術師が現れたことだってあるし、そいつと標的が戦っているところに乱入したことだって。
慣れているわけではないが、対処法は知っているつもりだ。まずは状況を見極めろ。ある程度でもいいから、この森の地形を頭に叩き込む。仮に他の誰かが乱入しているのなら、敵が味方かをすぐに判断する。
警戒しながら進み続けた、その先。そこに立っていたのは、一人の男だ。サイドに刈り上げの入った頭。背中に亡の文字が入った服。190近くはあろう体躯は、細身ながらも筋肉に覆われている。そして長い腕の先には赤黒い血が付着し、地面には首から血を垂れ流し絶命した老人の体が。
「あん?」
男が、振り向く。ただそれだけで、愛美も緋桜も、やつが敵だと判断した。それほどまでに撒き散らされている殺意。この場にいるやつは全員殺すと、言葉以上に雄弁なそれ。
緋色の桜が顕現したと同時に、少女が駆ける。その独特な体術で瞬く間に懐へ潜り込んだ愛美が、ナイフを振るおうとして。
「なんだオマエ、同族か?」
蹴り飛ばされた。得物を振るう隙すら与えられずに。
空中で体勢を立て直して木にうまく着地した頃には、緋桜が男に向けて桜の刃を放っている。だがその悉くを拳一つでいなし、時には身を翻して躱し、ただの一つも命中しない。
「かと思えば魔術学院。どうなってんだコリャ」
「こっちが聞きたいんだがな。お前、何者だ?」
魔術師、ではない。やつからは魔力が感じられない。だが状況からして、本来の標的であった魔術師を殺したのはこいつだ。
「あー、なるほどな。オマエら、このジジイを殺しに来たんだろ。そいつは悪いことをしちまったな。見ての通り、オレが殺しちまった。魔術師ってのはどいつもこいつも脆くていけねえ」
一人で納得したように言い、緋桜の質問に答える様子はない。話の通じる相手ではなさそうだ。向こうから仕掛けてこないなら、一旦退いて学院に報告するか。
そう考えた矢先に。
男の殺気が、鋭くなった。
一瞬怯む緋桜に対して、愛美はその逆。それに呼応するように、剥き出しの殺意を持って突撃する。
「おっと、危ねぇなぁオイ」
再び空振ったナイフ。立て続けに放った蹴りは、いとも容易く掴まれ、愛美の華奢な身体が投げ飛ばされる。
「んだよ、やっぱ同族じゃねぇか。なんで学院の犬なんかと組んでやがる」
「同族かどうかは知らないけど、同類であるのはたしかでしょう? さあ、殺し合いましょうよ!」
男の懐に踏み込むと同時に、その一歩が体術として機能する。
崩震。地面を伝い、相手の波長を狂わせる技だ。本来なら泡を吹いて倒れるようなそれを受けても、男は僅かに身体を怯ませるのみ。しかしその隙を突いて、絶死の一撃が首元に迫る。
あらゆるモノを容赦なく斬る愛美の異能。それはいかなる手を持ってしても防げない。
「なってねぇなぁ」
が、しかし。
その一撃は、男の拳一つに防がれた。正面から受け止められたのではない。刃の腹を殴り、ナイフを砕いたのだ。その光景に唖然とする内に、反撃が来る。顔面への正拳。防御は間に合う。愛美の使う体術は、あらゆる動きが初速からトップスピードに達している。だから難なく防げる、はずだったのに。
腹に衝撃。膝で的確に鳩尾を貫かれ、痛み以上に息苦しさが襲う。
「全然なってねぇよ。
一歩。男が、大地を踏み抜く。途端に視界が揺らいで、平衡感覚が失われた。膝から地面に崩れ落ちそうになるのを、寸前で耐えた。
しかし追撃の蹴りまでは防げず、愛美の身体が真横に飛ばされる。
「愛美!」
「おっと。相変わらず、魔術師ってのは遠くからチマチマやるのが好きだなぁ」
緋桜が放つ攻撃は、しかし先程と同じく容易く躱されてしまう。だが距離を詰めても勝てない。やはり一度撤退するしかないか。
「邪魔しないでよ」
そう考える緋桜の耳に、低い声が届いた。
立ち上がり、口の中の血を吐き出した愛美は。いつもと同じ、凄惨で残忍な、歓喜の笑顔を浮かべていて。
「集え」
詠唱に呼応して、魔力が渦巻く。風一つなかったはずの森が揺れ、濃密すぎるその魔力に、空間が歪む。
「我は疾く駆けし者、万物万象悉くを斬り伏せ、命を刈り取る者」
それは、緋桜も知っている魔術だった。彼女が毎日のように、風紀委員室で弄っていた術式の、その正体。
彼女の肉体を、より高みへと導く魔術。
その名を、概念強化。
「なんだなんだ、ようやく本気か?」
「ええ。初お披露目の魔術なのよ。光栄に思いなさい」
短く言葉を交わし、両者が同時に地を蹴る。
理由は分からないが、この男は自分と同じ体術を使っている。そして、使い手としてはやつの方が上だ。愛美の知らない動きが、この体術にはまだ残っていた。
ならば精々、この身をもって教えてもらうとしよう!
「ハァ!」
「ふっ……!」
交錯する拳と拳。初速から既にトップスピードにあるが、お互いに同じ体術を使う以上はその優位性が失われる。単純に、速い方に軍配が上がる。
そしてここでより速かったのは、愛美だった。男の顔面へと拳が突き刺さるその瞬間、速さで優っていたはずの拳は空を切る。
直前まで完全に殴る動作に入っていたはずの男は、身を沈ませていた。そこから放たれる掌底。
「なるほど、こんな感じね」
その攻撃も、決まらない。振り抜いたはずの腕と、それによる重心の移動。それら全てを無視して、愛美は男の掌底を受け止めていた。そして理解する。この体術の真髄は、どのような状況、状態からでも、あらゆる動きに派生できることだ。概念強化がなければ不可能だった動き。そして、愛美がこれまで知らなかった動き。
「面白くなってきたじゃねぇか!」
技の応酬が繰り広げられる。両腕両足、四肢の全てを使って、相手よりも速く、一瞬前の自分よりも速く動く。
戦いの中で洗練されていく愛美の動きに、もはや野生などかけらも見えない。ただただ美しく舞い、それでいて残酷に敵を屠ろうとする動きだ。殺人姫の名に相応しい。
全く同じ体術ではあるが、概念強化を帯びた愛美の方がやや優勢だ。攻撃をヒットさせる回数も多い。
男の身体を穿ち、貫くたびに、愉悦が湧き上がる。高揚する。これだ、これが欲しかったのだと、身体の奥が叫んでいる。
力を尽くし技を尽くし、命を燃やして奪い合う。こういう殺し合いを、私は求めていた!
「いい、いいわ! もっとよ! もっともっと削り合いましょう、奪い合いましょう!」
「いいねいいね! そうこなくっちゃ楽しくねぇ! 亡裏同士の殺し合いってのは、やっぱこうでなきゃなぁ!」
的確に急所を狙い、躱され、反撃をいなし、蹴りを見舞う。
高度な読み合いの末に行われている戦い。脳を酷使し、身体はただ相手をこの手で殺すための道具と化す。
そんな戦いが、長く続くわけもなく。最初に動きを鈍らせたのは、やはり愛美だった。
防御が一手間に合わず、連続で拳を打ち込まれる。一旦下がって距離を取り、再び攻め込もうとしたが。
足が、動かなかった。
「……ッ」
「もう終わりかぁ?」
概念強化の時間切れだ。未だ術式は完璧とは言えない状態で使ったから、時間制限があったらしい。
足にガタがきているだけではない。頭に鈍い痛みが走る。概念強化はその身体だけでなく、脳にまで及んでいた。それ故に可能とした動き。だが一度解けてしまえば、その反動は大きい。
このままでは負ける。いや、それ以上に。この楽しい時間が終わってしまう。
死への恐怖よりも優ったその感情。瞳に宿った闘志は消えず、なおも男を睨みつけている。
「
だが、割り込んできたその声が、強制的にこの時間を終わらせてしまった。
緋色の光が迸る。
その正体は矢。音を置き去りにするスピードで宙を駆けたそれは、愛美が対峙していた男の肩を貫いた。
「狂い咲け、絶花の
静かな詠唱と共に、突き刺さった矢が輝きを増す。途端、男の肩の内側から、緋色の桜が刃となって花咲いた。
桜はすぐに霧散して消えるが、男の肩は見るも無残に斬り刻まれている。これではあの体術を十全に使えないだろう。
「楽しむのは構わないんだが、これ以上うちの後輩をいたぶらないでもらおうか」
緋色の弓に矢を番えた緋桜が、言外に告げる。次はその胸を射るぞ、と。それを可能とするだけの技量と力が、緋桜には備わっている。出会ってから今日まで、毎日依頼を共にしていたが、一度として見たことのない緋桜の本気。
それに敵わないことを、男も理解しているのだろう。苦い顔で舌打ちをひとつ。
「オマエのお陰で白けた。今日は帰ってやるよ」
「待ちなさい!」
「待つのはお前だ、愛美」
いかなる術を使ったのか、男の姿が音もなく消える。それを止めることもできず、愛美は緋桜を睨んだ。
「なんで邪魔するのよ!」
「お前に死んでほしくないからだ」
「そんなの、あんたには……!」
「関係ない、とは言わせないぞ。お前は同じ風紀委員の後輩だ。お前が俺をどう思ってようが、守るべき対象であることは変わらない」
紛れもない緋桜の本心。真摯な目で言われれば、愛美は言い返せなくなってしまう。
同じなのだ。自分の家族と。その目が、そこに宿った光が。
「なにも、お前の趣味を否定するわけじゃない。人を殺したいなら好きにすればいい。でもな、お前が死ぬことだけは、絶対に許さない」
「……人の命を奪っておきながら、こっちは命を賭けるなって……? バカにするのもいい加減にしなさいよッ!」
対等でなければならない。それは力でなく、互いの立場が。両者が命を賭け、信念を燃やして殺し合う。そうでなければ意味がない。
それをこの男は、否定するのか?
「お前は、強さを欲するために正しさを求めてるだろ。その殺人衝動を抑えられるだけの強さを」
「当然でしょ⁉︎ こんな私が、あの人たちと家族であり続けるには、そうしないとダメなのよ! そうじゃないと、家族でいる資格なんてないの!」
怒りのままに、言うつもりのなかった気持ちまで言葉にする。叫ぶたびに頭が痛むが、今はそんなことどうでもいい。
それでも緋桜は、涼しい顔で愛美の言葉を受け流す。
「お前の家族がどうとかは知らないけどな。その人たちは、お前の弱さも受け入れないほど、狭量なのか?」
「それはッ……でも!」
違う、そんなことはない。父である一徹も、兄のような存在である虎徹も、他のみんなも。愛美がどうあろうと、優しく受け入れてくれる。それは間違いない。
でも、そんな優しさに甘えたくないから。依存したくないから。
だから強さを欲するのだ。そのために正しさを求めるのだ。
「この前言ってたな。強がることは悪いことじゃないって。それは間違ってないと思うよ。お前みたいに弱さを隠して、必死に強がるやつはいくらでもいる」
たしかに、数日前にそう言った。緋桜自身も、あの時にその考えや在り方を否定していたわけではない。
でもな、と。低い声で続く言葉は、忠告めいていて。
「強がるために正しさを求めるな。正しさを成すために、強くあろうと足掻け」
そうでないと、近いうちに破綻するぞ。
その言葉になにも言い返すことができず、愛美はただ立ち竦む。
頭の痛みは、いつの間にか消えていた。
◆
緋桜と愛美が謎の男と対峙していた頃、魔術学院日本支部のトップである南雲仁の元に、二人の人物が訪ねていた。
「最近、緋桜のところに面白い子が入っただろう? ほら、殺人姫とか呼ばれてるあの子」
「ああ、桐原さんか。彼女は優秀ではあるんだが、中々見ていて危なっかしくてね。黒霧君がついてくれているから、最近は安心だよ」
一人は、人類最強の男。小鳥遊蒼。この学院で唯一、南雲仁と対等に会話できる魔術師だった。
しかし今はもう、唯一というわけではない。
「殺人姫?」
「気になるか?」
蒼の隣でソファに座っている少女が、ポツリと呟く。まるでこの場に似つかわしくない、十六そこらに見える少女。
問うてみたが、少女は興味なさげに首を振るのみ。その拍子に、結ったお下げ髪が揺れた。
「別に。わたしの目的と関係ないでしょ」
すげなく言われ、蒼は肩を竦める。まあ、予想通りの回答だ。
知り合った頃からなにも変わっていない。わざわざイギリスから出てきたのだ。欠落したものを取り戻すには、いい機会だと思うのだが。
「わたしは灰色の吸血鬼を探すために、わざわざこんな国まで来たの。他のことに割く時間も余裕もない」
仄暗い光の宿った瞳で、二百年を生きる魔女は虚空を見つめていた。
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