第9章 (2)追想

翌日の午後


結子主演の映画「狐の嫁入り」の撮影も県内で順調に続いていた。


異常な気象現象に対応しながらの撮影は、体調管理に気を配ることや必要以上に準備する機材が増えるなど現場は慌ただしさを増している。


この日も7月初日だと言うのに35度を超える猛暑日であり、取り分け日中の撮影は暑さとの格闘である。いつもは瀟洒しょうしゃな身なりの結子のマネージャーである小杉でさえも茹だるような暑さの中、この日ばかりは無地のTシャツに着替えていた。


日陰で椅子に腰掛け撮影の準備待ちをしている結子は、暑さにより弛緩したスタッフたちの体から玉のように吹き出した大粒の汗と壊れた噴水の如く溢れ続ける穢れた気をリアルに体感して疲弊してゆく。


厭悪えんおさせるこの悩ましい悪臭伴う穢れた気を受けながらも耐え凌ぎ、笑顔で対応する結子は苦しい中にあっても昨夜に感じた女狐のことを考えていた。


妖気を消せる能力・・・それを使いこなす綿密さ・・・騙して、誘惑して、化けるか・・・


強敵を相手にして、どのように仲間たちの身を護り大狐を退治するのか思案しながら心の声で女神と会話している結子は、極度な集中のあまり自分の名を呼ぶ小杉の声に直ぐさま反応出来なかった。


「すみません」


結子の謝る姿を見て暑さが原因で集中力が途切れているのかと心配する小杉は、結子に対して小まめに水分補給するように促し、冷たいドリンクを結子に優しく渡す。


そんな小杉に感謝している結子は笑顔で御礼を言いドリンクを受け取ると、出番のためにスタッフから名前を呼ばれたので椅子から立ち上がり、本番の立ち位置へ向かう。


映画「狐の嫁入り」の最大の見せ場である狐の嫁入りシーンの撮影がいよいよ始まった。炎天下の中、撮影用の雨を降らせ狐の嫁入りシーンを創り上げる撮影クルーたち。


そこへ通りかかった雨音に憑依した九尾狐は、只ならぬ雰囲気の撮影現場に興味を持ち、物陰に身を潜めて様子を窺うことにした。


「お嫁に行くの・・・」


妖気を消しながら、狐の嫁入りシーンの撮影現場を目撃する雨音(九尾狐)は、双眸を閉じて懐かしい過去の出来事を想い返した・・・


嫁入り衣装を身に纏っている雨音に似た女性に憑依している九尾狐は、花嫁として自身を迎えに来ると約束してくれた男子をひとり物静かに待ち続ける。


「まだかしら・・・私の花婿・・・」


果てし無く待てども待ち人来ず。


愛しい人をひとり待ち続けた切なくも悲しい出来事を偲ぶ雨音(九尾狐)は、双眸を開いて撮影中の結子の姿を羨ましく想いながら見続ける。


大衆の中心で煌びやかな装飾が施された衣装を身に纏った結子が演じる幸せそうな姫の姿を見つめる九尾狐の表情は怏々おうおうとして、心は軈て嫉妬心へと変わってゆく。


「カット!」


威勢のよい監督の声と共に一斉に持ち場の作業に取りかかるスタッフたち。華やかなようでいて地味な作業が繰り返し続く職人気質の現場は、意気込んだところが無くて堅実である。


マネージャーの小杉からは「結子、とってもいい感じよ」と褒められたのだが、空間の異変を体感している結子にとっては誰かに監視されているような感覚が全身に襲いかかり「いい感じ」は微塵もしない。


辺りを見回す結子を物陰から静かに妖女のような眼差しで見つめる雨音(九尾狐)は、結子に対して嫉妬心を強く抱き、結子の名を心に刻む。そして、再び自らが経験した出来事を追想する・・・


嫁入り衣装を身に纏っている雨音に似た妖艶な美女に憑依した九尾狐はひとり物思いに耽りながら歩みを進める。


叶わぬ恋・・・恋しさと温もり、彼への想いを胸にひとり彷徨う。愛しさと寂しさ、好きな彼と会いたい想いを胸に空を眺める双眸からは涙珠なみだこぼれ落ちる・・・


撮影現場には煌々と陽がさしているにも関わらず、その儚くも切ない恋心に共振するかのように、静かに雨が降り出した。

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