第37話「新幹線にグリーン車以外の座席ってありますの?」

「じゃあ行ってくるよ、親父」


「ああ、気をつけてな」


 ゴールデンウィーク最終日の5月7日日曜日。


 約束通り朝の8時にクレナお嬢が迎えに来たので、俺は玄関で親父の見送りを受け、出かけようとしていた。


 チカさんは今日は用事があるらしくて、来ていなかった。


「ご安心ください、お父様。我が山田家の総力をあげて、サトシ様のことは今日中に、無事にお帰しいたしますわ」


 クレナお嬢は今日も、親父が「ジュリせん」と言っていた大きな扇子を右手に持っていた。


 俺にはよくわからないが、親父が中学生の頃にはやっていたものらしい。


 今日も立派なドリルがまばゆいクレナお嬢。


 しかし服装はいつものドレスではなく、カーズのユニフォームで、頭にはカーズのキャップも被っていた。


 いくらなんでも気が早すぎではないかと思うが、まあ今日の試合はデーゲームだし、ドレスからユニフォームというのは着替えるのが大変そうだから、仕方がないのかもしれない。


「今日1日、サトシのこと、よろしくお願いしますね、お嬢様」


「お任せください」


「あ、そうだ、サトシ」


「なんだよ、親父?」


「今日のNHKマイルカップ、何が勝つと思う?」


「ボンセルヴィーソ」


「高校生の息子を見送る時に言う言葉じゃないだろう」とは思いつつも、即答してしまう俺も俺だった。






「サトシ様のお父様は競馬がお好きなんですのね」


 クレナお嬢がいつも登校時に乗っている黒塗りの高級車に初めて乗った俺は、右にクレナお嬢、左にロバータ卿がいる後部座席の真ん中に座らされ、まさに両手に花状態だった。


 まあ二人とも、今日はドレスじゃなくて、カーズのユニフォームを着ているので、あんまり「花」という感じはしないが……


 そごうさんは助手席に座り、運転手は俺の知らないおじさんだった。


「そうだね。親父は競馬だけじゃなくて、競輪やボートレース、オートレースも好きだよ」


「そうなんですのね。わたくしも競馬は好きですわよ。お父様が何頭かサラブレッドを所有してらっしゃいますし」


「ワタシノ、オトーサンモ、Thoroughbred(サラブレッド)のBreeder(ブリーダー)ネー」


 大金持ちの象徴たる馬主の娘二人に囲まれていると知った俺は、震えずにはいられなかった。


 ロバータ卿に至っては、貴族院議員のお父さんが、サラブレッドの生産牧場を経営しているらしい。


 恐ろしや、恐ろしや……イギリスだけど、恐ろしや……


「ところで昨日も今日もサトシ様のお父様にしかお会いしていないのですが、お母様はどうなさっているのですか? たしか広島のかただとおっしゃっていましたよね。なんだったら今日はお母様も一緒に野球をご覧になればよかったのに……」


「ああ、いや……母は俺がすごく小さい頃に病気で亡くなってて……」


「あら……失礼いたしましたわ、わたくしったらぶしつけな質問をいたしまして……」


 クレナお嬢はさっきまでの明るい口調が一転、声も小さくなり、顔もうつむき加減になってしまった。


「あ、大丈夫だよ、本当に子供の頃の話で、母親の記憶とかほとんどないから……」


「そうなんですの?」


「そうそう。ところで黒塗りの高級車って、左ハンドルのイメージがあったんだけど、この車は右ハンドルなんだね」


 なんか気まずい空気になったので、俺はむりやり話題を変えた。


「嫌ですわ、サトシ様。ヤマダ自動車の令嬢たるわたくしが、競合他社の車たる左ハンドル車に乗るわけがないじゃありませんか」


 それが功を奏したのか、クレナお嬢は元の明るい口調に戻ってくれた。


「そ、そりゃそうだったね、ごめん。アハハハハ」


「イギリスモSteering(ステアリング) Wheel(ホイール)ハJapan(ジャパン)トオナジRight(ライト)ネ、ハッハッハッ……」


 俺にはロバータ卿が、何が面白くて笑っているのかさっぱりわからなかった。


 そもそもステアリング・ホイールってなんのこと?


 クレナお嬢に聞けば答えてくれるのだろうけど、「サトシ様、そんなこともご存知ありませんの?」とか言われたら嫌だから聞かなかった。


 あとでネットで調べよう……


 それにしてもロバータ卿、ほとんど何もしゃべれなかった1月前とは比べ物にならないほど、日本語が上達している。


 今までは「どうせ通じないだろう」と思って、ロバータ卿の前であれやこれや言うていたが、これからはうかつなことは言わない方がいいのかもしれない……


 クレナお嬢やロバータ卿と談笑しているうちに、車は防府東インターから山陽自動車道に入っていった。


「なるほど、このまま車で広島市まで行くんだな……」と思っていたが、予想に反して、車は徳山東インターで一般道に降りた。


「え? なんで?」


「なんでって何がですの? サトシ様」


「いやぁ、このまま車で広島まで行くと思ったのに徳山であっさり降りちゃったもんだからびっくりしちゃって……」


「あらやだ、サトシ様。ヤマダスタジアムは広島駅のすぐ近くにあるんですのよ。新幹線で行った方がいいに決まってるじゃありませんか。広島インターは安佐南区あさみなみくですのよ。あそこからヤマダスタジアムまでは結構時間がかかりますわ」


「あ、そういうことね……」


 クレナお嬢の言葉通り、車は徳山東インターから徳山駅へ向かい、気がついた時には、俺はのぞみのグリーン車、クレナお嬢の隣の通路側の席に座っていた。


 通路を挟んだ向かい側の席にロバータ卿とそごうさんが座っていた。


 た……たかがひと駅なのに、グリーン車に乗るというのか……ていうか、今日ゴールデンウィークの最終日だよな……いくら早朝の便とは言え、よく東京行きののぞみのグリーン車が4人分も空いていたもんだな、それもひと駅だけ……これが「山田家の力」というやつなのか……


 俺は生まれて初めて乗った、新幹線のグリーン車と、ゴールデンウィーク最終日にグリーン車の切符をおさえられる山田家の底知れぬ力にビビりまくり、プルプルと震えていた。


 なんたって俺は以前、広島市に住む母方のおじいちゃんおばあちゃんの家に一人で行った時、新幹線特急券代をケチって、在来線の山陽本線で約3時間かけて広島駅に行った男である。


 徳山駅から広島駅まで新幹線に乗るだけでも俺には贅沢なのに、まさかグリーン車に乗るだなんて……乗るだなんて……


「サトシ様、何を震えてらっしゃいますの? 寒いのですか? 毛布でも借りましょうか?」


「い、いやぁ、グリーン車に乗るの、生まれて初めてだから震えてるだけだよ。だから、大丈夫、大丈夫……」


 俺はおそらくひきつった笑顔でそう言ったことだろう。


「え? 新幹線にグリーン車以外の座席ってありますの?」


 ダメだこりゃ……






 のぞみだと、徳山駅から広島駅までの所要時間はたったの21分だった。


 俺の人生初グリーン車タイムは本当に一瞬で終わった。


 グリーン車の大きくてフカフカな座席と、たった21分でお別れするのはなんとも名残惜しかったが、クレナお嬢と一緒に岡山に行ってしまうわけにはいかないので、諦めて降りた。


 俺たちが広島駅に降り立った時、まだ朝の9時半ぐらいだった。


 ほんの90分ぐらい前まで防府市ほうふしにいたのに、もう広島市にいるだなんて、俺は新幹線の速さに改めて驚嘆きょうたんした。


 なんたって徳山駅から広島駅は在来線だと2時間はかかるはずである、それが21分だなんて……


「ところでサトシ様。サトシ様のお母様のご実家ってどの辺にございますの? この近くならばちょっとご挨拶しようかと思ったのですが……さすがにおじい様おばあ様はご存命でございましょう?」


 広島駅南口から外に出て、これからどうするのかなと思っていたら、クレナお嬢が突拍子もないことを言ってきた。


「まあたしかに二人とも生きてるけどね、いかんせん安佐北区あさきたくに住んでるからね。ここからだと車でも1時間ぐらいかかっちゃうんじゃないかなあ?」


 安佐北区とは元々、町だったところが広島市に吸収合併されてむりやり広島市になったところであり、今いる広島市の中心部と比べると、いや、俺が住んでいる防府市の都市部と比べても、まごうことなき田舎であった。


 現におじいちゃんおばあちゃんちを地図で見ても、住宅以外の商業施設などはほとんど見当たらないし、広島駅からもとても遠かった。


 母方のおじいちゃんおばあちゃんは、幼くして母を失ってしまった俺のことを気にかけてくれて、母が亡くなってから12年経った今でも疎遠になどはなっていなくて、年に数回は会うが、今日はスケジュール的に会えそうにもないので、おじいちゃんおばあちゃんに広島市に行くことは伝えていなかった。


「そうですか。そんなに遠いところに行っていては野球が見られなくなってしまいますから、今回は諦めることにいたしましょう。ところでサトシ様、ロバータ卿は原爆ドームや平和記念公園を見学したいそうですわ。路面電車に乗って行きましょう。サトシ様は路面電車に乗ったことございますか?」


「そりゃあもちろんあるに決まってるよ」


「そうなのですか。わたくしは初めて乗るので楽しみですわ」


 は、初めてなのか……クレナお嬢は口ぶりから察するに広島市にちょくちょく来ているはずなのに路面電車乗るの初めてって……金持ちってやっぱすげーな……


「オー、Tram(トラム)」


「ん? トラム?」


「路面電車のことを英語でTramというのですわよ、サトシ様」


「そうなんだ、知らなかった」


 俺とクレナお嬢、ロバータ卿にそごうさんの4人が乗った路面電車は、偶然にも「カーズ電車」であり、電車の内外うちそとのあらゆるところにカーズの選手の写真がラッピングしてあって、車内アナウンスもカーズの選手が担当していた。


「たまたま乗った電車が、カーズの電車だなんて、縁起がいいですわね、サトシ様」


「ごもっとも」


 さすがのクレナお嬢も、広島市を走っている路面電車のすべてがカーズ電車でないということはご存知であるらしい……まあ広島市街を歩いていたら嫌でも路面電車が目に入るんだから、当然か……


 広島の路面電車はいつだって混んでいるので、レディーファーストで、クレナお嬢とロバータ卿を空いている席に座らせ、俺とそごうさんは二人の前に立って、つり革につかまっていた。


 本当は数百メートルごとに電停があって、ことあるごとに停車する路面電車よりも、路線バスの方が圧倒的に早く原爆ドームに着くし、路面電車よりも圧倒的に空いていてほぼ間違いなく座れるのだが、初めて乗る路面電車を前に、目をキラキラさせているクレナお嬢やロバータ卿を見て、「そんな野暮なことを言うのはやめよう」と思った。


 カーズの選手の車内アナウンス、利用客の多い繁華街の電停ほど、有名な選手が担当していて面白かった。


 もちろん、俺の好きな吉永が担当していたのは、広島市一の繁華街である紙屋町西かみやちょうにし紙屋町東かみやちょうひがし電停だった。


 吉永という人はプロ野球の歴史に残る数々の大記録を打ち立ててきた、稀代のレジェンド選手でありながら、インタビューやツイッターでの発言が面白いことでもおなじみの選手であり、広電の車内アナウンスでも、ウケ狙いなのかなんなのか、変な声でアナウンスをしていて、俺は笑ってしまった。


「フフフ、吉永って本当に面白い男ですわね、サトシ様」


「うん、そうだね」


 俺は今日の夕方だか夜だかにこの面白い吉永と会って話ができるのかと思うと、今からすごく楽しみで、胸が高鳴った。


 そんな紙屋町西の次が原爆ドーム前で、4人の運賃は、そごうさんがICカード乗車券でまとめて払ってくれたので、俺たちは特に何もせずに電車を降りることができた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る