影猿

百々面歌留多

第1話

真夜中、廃工場の割れ窓から一匹のネズミが潜り込んだ。

わき腹を押さえながらも、強く口を結んだ彼は今にも青ざめそうな顔を歪める。真っ暗な空間を這うように進んでいき、物陰へとそっと潜り込んだ。

木箱に背中を預けたまま、うなだれる。手についたべっとりとした感触をシャツで拭うと彼はジャケットの裏ポケットに手を突っ込む。

壊れた屋根から差し込むかすかな光が明らかにするのは写真だ。少女が1人あどけない笑顔を浮かべている。

彼は妹の名前をそっとつぶやき、神さまと続ける。

助けて、助けて、と祈りを捧げながら、ただひたすらに痛みに耐え続ける。

まもなく視界からわずかな光さえも消え失せる。

湿りのにおいがいっそう濃く変じ、雫の雨が降り始める。ひと際強くなるのにそう時間はかからなかった。

廃工場の外からは足音と男たちの怒声。汚い言葉を吐きながら何かを蹴っ飛ばすのが響き渡る。

彼は身を縮め込ませる。熱が失われぬように体を震わせながら、ただ男たちが過行くのを待ち続けた。

「どこだ、どこいきやがった!」

「落ち着け、やつは血を流している。このあたりのはずだ」

「くそがっ! さっさと出てきやがれ」

「とにかく虱潰しにさがそう、警察が来る前にやるんだ」

男たちの企てを聞いたのち、彼は体を横に倒した。少しずつ血が抜け落ちていくせいか、頭の回転が鈍い。

このままでは見つかるのも時間の問題だ。反撃をしようにもこの体ではまともに立ち回れまい。それどころか一方的になぶり殺しにされるだろう。

いや自分だけならいい、

もし正体がバレたなら妹まで被害が及びかねない。やつらは見境のない狂犬で、どんな女とだってやる。年端の行かぬ少女であっても例外ではない。

この腹に鉛玉をぶち込まれなきゃ、全員やっつけてやるのに。

いや、無理か。

外の男たちはおそらくみな腕っぷしの強い大男たちだろう。筋金入りの悪たちだ。おれのようなコソ泥とはわけが違う。

真っ向から戦って、勝てるはずがない。

少しでも痛みから逃れようと彼は姿勢を模索し始めた。だが手足を動かすたびに全身に焼け付く痛みの感覚が毒のように回るのだ。

痛い痛いと呻くわけにもいかず。

耐え続けるのがやっとのこと。

雨空が轟々と唸り始めると、空気を切り裂くような雷鳴が鳴り響く。廃工場の天井が一瞬だけ映し出された。

……何かいた。

幻覚でも見ているのだろうか。天井の付近を何かが横切った気がしてならない。大きさは人くらいだ。だがどんな形かまでは見えなかった。

サーカスじゃああるまいし。

この廃工場はずっと昔に打ち捨てられた場所で天井の半分がすでに失われている。仕掛けも施せないほど朽ちているのに、どうやって飛んでいたのだろう。

モンスターかクリーチャーか別の何かか。

昨年に妹と見たホラー映画のことを思い出していた。妹は楽しんでいたが、実にチープだと内心評価を下したものだ。

世間はおおよそ彼と似た評価を作品に与えたが、妹は真逆の感想を持ったそうだ。

――たしかにうーんってところもあったけど、楽しかったよ。

脳裏に妹の声が再生されたとき、彼は体をビクつかせた。

危うく意識が落ちるところだった。寝たら二度と起きなかったかもしれない。

今ごろあの子はどんな夢を見ているだろう。入院してからはまともに顔を合わせちゃいないのだ。


体調が芳しくないとは1カ月ほど前に聞いた。

手術をするためには高額の金が必要だった。彼は知り合いを伝手にたくさんの人に借金を申し込んだが成果は芳しくなかった。

頭を下げ続ける日々。断られるたびに彼は疲弊をしていった。人として真心を込めながらも、だんだんと自分に罅が入っていくのを痛感した。

日ごろの行いが悪かったせいだと反省こそあったが。

下手に出た途端に彼を踏みにじる連中が多かったのは事実だ。

妹を助けるためのお金をどうにか工面をするために働いても、わずかな金。正当な手段では到底稼ぐことはできなかった。

正しい手段では無理だと悟ったのは最初のお金を受け取ってからだ。

わずかな金は入院費用と自分の飲み食いへと消えていった。

自分と彼女の生まれを幾度となく呪い、蔑んだことだろう。

貧困家庭に生まれ、ろくな教育も受けることができず、体だけが勝手に大人に近づいていく。小さい頃に刷り込まれた横暴な父の物言いと母の小さな体を受け継いでしまった。

おれは男として未完成品だ。

非合法な手段に出ようと決めたとき、自分も所詮父親の子なのだと自明したものだ。

弱いやつは狙わねえ。

それだけを心に誓い、彼はその日に犯罪を計画した。

ダウンタウンは犯罪の巣窟だ。その日も裏通りではいつもの取引が行われていた。若者の間で広まる違法薬物と現金のアタッシュケースをやり取りする最中。彼は身を乗り出して、現金を強奪した。

撃ったのは2発だ。追ってきたやつらの腹にぶちこんでやったものの、相手側からわき腹に1発もらう羽目になってしまった。

準備していた盗難二輪のおかげでどうにかその場を逃げることはできたもののガス欠のせいで途中で降りなければいけなくなった。

そして闇に紛れるようにその廃工場へと転がり込むことになったわけだが。


雷鳴が連続して鳴り響く中、彼は廃工場に潜む何者かの存在をひしひしと理解し始めた。

決しては幻覚などではなく、確かに存在をしている。

彼はそれを〈影猿〉と呼ぶことにした。猿ならば天井にぶら下がっていても常識外れではないと思ったのである。

〈影猿〉はまさに光とは対を成す存在だ。

雷という自然のスポットライトに浮かぶ影絵のような存在で、いったいどこに実像があるのかも定かではなかった。

光と闇が交互にさし変わるたびに、〈影猿〉は姿勢をかえた。飛んでいたり、丸まったり、逆さになったり、気ままにポーズをとるのだ。

もし彼が元気だったら、石でも何でも投げつけてやったかもしれない。最高にチープな芸だと罵っただろう。

だが意識が霞みそうになると〈影猿〉は躍り出る。いつしか雷鳴よりもこちらばかりに目がいくようになっていた。

雨脚がさらに強くなり、嵐のごとき風が吹き荒れる。抜け落ちた天井から降り注ぐ水しぶきは風にあおられた。

雷がいつになく轟いた時、彼は痛みさえも忘れて飛び上がった。思わず妹の名を呼んでいたのだ。

あの子は雷がダメなんだ。子どもの頃からずっと、未だって克服してはいない。今頃病室でぐずっているだろうか。

せめてぐっすりと眠ってくれていればいいのに。

刹那、彼は物音を耳にした。雨音でも雷鳴でも風でもない、異質な硬い音である。

身をこわばらせるのに十分だ。彼には命を狙われる理由がある。だが金は奪われてなるものか。必ずものにしてやる。

アタッシュケースを隠して、彼は身を起こす。

物音は今にも近づきつつある。これは――足音だ。

テッテッテッテッテッ

張り付いた水を蹴りつけている!

さらなる雷が落ちたときだ。

彼の目の前に何かが立っていた。雨合羽を着た何者かは類人猿みたいに腰を曲げて、腕をだらりと下げて、足には長靴を装着しているようだ。

暗闇が張り付いているのか顔は分からなかった。

彼は拳銃を取り出して、すでに向けている。照準はぶれまくるが、この距離なら外さない。

「だれだ」

力の失せた声で彼は問いかけた。

言葉は返ってこなかったものの、一歩近づいてくる。

「近づくな、撃つぞ」

警告は無視されてしまう。さらに一歩。

「撃つったら、撃つぞ」

先ほどよりも強く唸るが通じやしない。

影を立ち込めた人物はなおも近づいてくる。まるでゾンビの印象だ。動いているにせよ、生気が欠如をしているみたいだ。

かといって撃ち込めるわけもなし。

試しに殺してみるわけにもいくまい。

だが心中がざわつくのはなぜだ。こいつを見ているとおれはどうにも落ち着かぬ。

両手でしっかと握りしめて、より照準を正確にするのだが震えが止まらない。だがいい。すでに射程は完璧だ。

この距離なら――足を狙おう。

動脈を外れるかどうかは運しだいであるが、足首の少し上の辺りなら動きを停止できるかもしれない。

銃声が鳴り響くだろう。

まだ自分を探す連中がいるかもしれない。だがこんな嵐の中で発見できるかどうかわからないガキを延々と追い求められるだろうか。

淡い期待は痛みに消える。

すでに引き金を絞るときが迫っている。

「……警告はしたからな」

彼が声を振り絞ったそのとき、雨合羽をきた人物も動き出した。途端雷鳴と銃声は重なり、光と影は交差したのだ。

外した!

彼はたしかに直感した。すでに懐に潜り込んだそいつを引きはがそうとしたものの、すでに間に合わぬ。

わき腹の傷口に触れられたときだ。

思わぬ刺激な内臓にまで響き渡ってきた。膝を折ったとき、カランと金属音が響いた。

彼は倒れ、朦朧とした。闇に吸い込まれる最中にも立ち尽くすそいつの顔を見ようともがいたが、あとすんでのところで完全に沈んでしまった。


再び目を覚ましたのは鶏の鳴き声が響いたときだ。

真夜中の嵐が嘘のようにはれ上がっていて、壊れた天井からは白い光が差し込んでいる。立ち込める湿りのにおいを嗅ぎながら、彼は光を求めて移動をしていた。

わき腹はまだ痛むものの傷口が塞がっている。すでに腹には異物感もなく、ちょっとした腹痛ほどの痛みしかない。

天を仰いだとき、清々しいほどに晴れ渡る空が顔を出した。

白い光には眩しさを覚えるながらも、立ち眩みも何もない。

あの人間は〈影猿〉だったのだろうか。彼はほっと息をつく。

不気味で謎の存在だったが〈影猿〉が意識を繋いでいた気がしなくもない。あいつはまるで遊んでいるようだった。

今さらながらに彼は思う。

いったい自分は〈影猿〉の何におびえていたのだろう。

彼は妹の名をつぶやきながらも、ふうと息を吐いた。

久しぶりに主へと感謝をつぶやき、荷物をまとめる。

隠していたアタッシュケースから何枚かの紙幣を取りだした。ポケットへとねじ込むなり、彼はさっさとこの場所から離れることにした。

割れ窓から廃工場を脱出するとき、彼は再度後ろを振り返った。薄明かりの廃工場の隅っこで何かが動いたような気がした。

でも振り返る暇などいない。

これから金を届けなくてはいけないのだ。妹が待っている。もし手術が無事に成功したならば今日のこの体験を教えてやろう。

廃工場に潜む〈影猿〉の話をあの子は怖がるだろうか?

ふと彼は人並みの不安を抱いている自分に舌打ちをしながら、朝焼けに染まる町へと繰り出していった。

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影猿 百々面歌留多 @nishituzura

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