有終の美-All's well that ends well-

七咲リンドウ

CASE1「鳥の詩」


 いつも風が気持ち良かった。吹き付ける音に気分が高まる。いつも場所は校庭で、いつも空は晴れていた。高くて青いから、季節はきっと秋か冬。いつも変わらない、いつだって変わらない。そんな空を、私はいつも飛んでいた。

 翼の代わりに腕を広げると、どこからともなく風が吹き、私は空へと舞い上がる。周りの人はみんな笑顔だった。仲には私の真似をする人もいたけれど、自由に空を飛べるのは私だけだった。

 ――それが私のよく見る夢、だった。

 歳を取るにつれて、夢は見なくなっていった。

 この世界は、あの頃の私が思っていたより不自由だった。


「みなさんの将来の夢はなんですか?」

 幼少期、大人たちは朗らかにそういった。

 でも、思春期になると質問は姿を変える。

「進路希望は今週末までに提出してください」

 そこで大抵は、上手になった嘘で立派な大人を演じる。

 人は変わる。変われるからこそ人である。そうやって簡単に変わってしまう人間が怖かった。だから、誰も信じられなかった。自分さえ、信じられなかった。

 だって私も、嘘を吐いて立派な大人を演じたのだから。

 結局、一番信じられない自分自身を最後には信じるしかなかった。


 そうして私は飛ぶための力を失ってしまった。翼の正体は若さゆえの根拠のない全能感だったらしい。世界で私だけが特別なんてこと、ありはしない。でも、どうやら飛べない翼は付いたままで、立派な大人として社会の中で生きるのがどうにも息苦しかった。私は、嘘を吐くのが上手いだけの、子どもだった。

「このくらい社会人として常識」

「出来て当たり前のこと」

 そんなありふれた言葉が辛かった。それを聞いて笑っていられる自分も、躊躇いなく頷ける自分も、怖かった。一人になるとそれを悔いて変わろうと決める、どっちつかずの自分が嫌いだった。

「この仕事に向いていないだけ」そんな風にも考えた。でも、大人のフリだけ上手くなった私はこうも思うのだ。「ここで挫折したら、どんな仕事に就いても同じではないか?」と。だとしたら、それはもはや生きることに向いていないのと同義ではないだろうか。

 思えば、特別なんかじゃないのに特別でありたい、子どものままで大人になってしまった私は、普通以下の積み重ねでいつも泣いてしまいそうだった。


 ――昨日、昔よく見た夢を見た。

 やっぱり私は自由に空を飛んでいて、でも周りには誰もいなかった。もうみんなちゃんと、大人になれたのだろう。高く高く飛んでも雲に隠れた太陽には届かない。でも、私の翼は蝋じゃないから溶けて落ちることもない。ふと足元を見ると、私の足首は鎖で繋ぎ留められていた。

 夢でさえ、いつの間にか冷めてしまう程度には、私も大人になれていたらしい。

 イカロスくらい無謀だったなら、現実に囚われず、もっと自由に生きられたのだろうか。イカロスよりも堅実だったなら、不自由でも生きられただろうか。


 私にはもう、耐えられなかった。

 一番怖いのは、不自由なままで何十年も生きていくことだ。


 風は、些か温くて排気ガスの匂いを孕んではいたけれど、嫌いじゃない。場所は高層ビルの屋上、バブルの崩壊後、取り壊されずに荒れ果てた廃ビルは、ホラースポットとして有名だったけれど、私はむしろ落ち着いた。空は曇っているけど薄明光線の向こうに澄んだ青が見えた。もうすぐ夢と同じ季節になる。


 翼の代わりに腕を広げると、吹き荒ぶ風を全身で感じられた。ここには私以外の誰もいなくて、私は誰より自由だった。

 そのとき、私の腕に一羽のからすが留まり、私の目を見て首を傾げた。

 ――笑ったのはいつぶりだろう。

 鴉は、私より先に飛んで行ってしまった。


「――ごめんなさい」

 そうして私の足も摩天楼から離れる。

 見上げた鈍色の自由そらに向け、飛んだ。

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