地縛霊とかんざし
里見 知美
地縛霊、じゃなかったか。
「お前、何に縛られてここにいる?」
真琴がいつものように、人間ウォッチングに勤しんでいると頭上から声がかかった。真琴が顔を上げるとそこにはツヤのある長い黒髪をポニーテールにした男が見下ろしていた。憂いを帯びた黒い瞳、すっと通った鼻筋に薄い唇が少し歪んだ笑みを帯びている。
どこかで見たことがある人だわ。
真琴はぼんやり霧のかかったような意識を探り、どこで会ったのか考えてみるがすぐに諦めてまた顔を前方に戻し、足早に歩く人を眺めた。そろそろ日暮れで家に帰る人が多いのだろう。私にも帰る場所があったのかしら、と真琴は考える。
「おい」
もう何年、何十年、いやもしかしたら何百年こうしているのだろう。毎日飽きずに見る風景はずいぶん変わってしまった。もともとここには薄暗い大きな森があった。真琴はずっとずっと森を見張っていたはずなのに、いつしか森はなくなり家が建ち、道が出来て公園が出来た。旅人が姿を消して、闊歩していた馬や馬車も車と呼ばれる鉄の塊に取って代わった。真琴が着ているような着物からもっと煌びやかなドレスというものを身につけ、それからシンプルなものへと変わっていったが基本的に人は人だった。いや、そういえば人でないものが我が物顔で人間の間に混ざっていることもよく見かけるようになった。
「おい、無視するな」
いつからだろう。人が真琴の存在に気がつかなくなったのは。ずっと昔は、食べ物を持ってきたり、花を持ってきたりする人がいるにはいた。おむすびをくれて勝手におしゃべりをしていく人もいた。それもいつしか絶えて久しい。花は愛でて綺麗だとは思ったけれど、食べ物はどうせ食べることはできなかった。それでも、空腹も眠気も感じなかったから問題はないのかと気にならなくなったが。
「お前、俺の声が聞こえてるんだろう」
「私ですか」
「そう、お前だ」
真琴はもう一度上を見上げた。長髪の男は先ほどと変わらず真琴を見下ろしている。
「私が、見えるのですか。」
「見えるから話しかけてる」
「そうですか。人と話したのは久しいので、気がつきませんでした」
ふふ、と真琴は笑う。
猫背に座っていた背筋をすっと伸ばして両手を膝の上に軽く乗せる。男の方を見ながら少し頭をかしげ、花が綻ぶように笑うと男は怪訝な顔をした。
「お前は、なんだ?」
「私ですか。私は真琴と申します。」
「名前を覚えているのか」
「……おかしいですか?」
「地縛霊にしては、な。」
「地縛霊?私が?」
「なにか、心残りがあるんだろ?」
(心残り?)
真琴は何か無念を残してここにいるのだろうか、と考える。
(否、私は自分の意思でここにいるのではない、と思うのだけど。)
よく覚えていない。頭に霧がかかっているようではっきりしない。真琴はまた顔を正面に戻し、人々の行き交いを黙って眺める。しばらく考えてからまた諦めた。
「何かを待っていると思うのですが、はっきりしません」
男は片眉だけ釣り上げると考えるようにつぶやく。
「思念のみで、ここにいるのか。」
「さあ。」
「お前からは邪念も無念も感じられない。なのに此処に居ついているのはなぜだ。いつから此処に居る?」
いつから?いつからだった?
「気がついたときから、ここに。私は待っているのです。」
「何を?」
「わかりません。でも動けないのです。それが私を自由にするまでここで待たなければならないのです」
「…目的すら覚えていないか。あのな、お前」
「真琴です」
「真琴、俺が解放してやろうか」
「解放、ですか」
「そうだ。こっから自由になれる」
真琴は、男の顔を覗き込むように見上げ、すっと立ち上がる。
真琴は赤い小菊の花の散った着物を着ていた。少し色褪せているような朱色の着物に素足にわらじという出立に後ろで無造作に緩く束ねた黒髪は、真琴が生きていた時代の村の女のそれだ。帯に差し込んだ簪だけがその装いに違和感を与えている。
常にその簪に触れ、まだそこにあるということを確認する癖は無意識になっていた。
「では、試してみますか?」
「真琴は怨霊ではなさそうだからな。払うというのは無理だろうが」
そういうと男は片方の唇の先を釣り上げてニヤリと笑い、人差し指と中指で手刀を作り何度か右へ左へ上へ下へと振りかざした後、シュッという音とともに真琴の眼の前で手刀を振り下ろしたが、キンッという高音とともにその印は弾かれた。反動で男が2、3歩後ずさる。
「…チッ。やっぱり無理か。」
真琴はじっとその場に立っている。心なしか少し残念そうだ。
「仕方ないな。地道に探すか」
「探す?」
「理由だよ。何でここにしなられてるのか。それさえわかればお前は昇天できるだろ」
男は真琴の横に腰掛けて名乗りを上げた。
「俺は、不動タケル。霊術師だ。」
「霊術師…」
「本業は違うんだけどな。お前を見かけてちょっと興味を持っただけだ」
「タケル様は悪鬼を払う方でしょうか」
「まあ、そういう仕事もたまにするな」
真琴は少し考えて、ぽつり、ぽつりとおぼろげな記憶を語り始めた。
「ここには以前、森がありました。私は不思議な力を持っていましたので、村はずれの安寿様の庵でお世話になっておりました。」
「不思議な力?」
「はい。人でないものを見る力です。」
「霊能力者か。俺と同じかな」
「私が8つの時、お侍様が庵に来て魔物退治をするからついて来いとおっしゃったのです。私は忌み者で役立たずでしたから、それは嬉しくてお供いたしました。帝様が呪いにかかって苦しんでいるのでその術者を探すということでした。私とお侍様はその森を通り、都へ参るつもりでしたが、その森には悪鬼がいたのです。」
そういうと真琴は今は公園になっている場所を指さした。
「今あの泉になっているところ。」
タケルが見ると、そこには噴水があり滔滔と水を噴き上げていた。
「あそこはもともと沼で、そこからボコボコと忌み物が溢れ出て人々を苦しめていたのです。」
「そういえば、昔この辺りは神塚と呼ばれていたと聞いた。」
「まさか。あんな禍々しいモノを神などと。兎に角もその忌み物はお侍様が退治をしました。ですがその際に大きな怪我をしてしまい、私は国じゅうを駆け回り薬を探したのです。」
真琴はそう言って口を閉ざした。そうしてまた虚ろな瞳で森があったという公園をじっと見つめた。どのくらい時間が経っただろうか。真琴がふと横を見ると、タケルはまだその場にいて、何本目かのタバコに火をつけていた。足元には吸い終わったタバコが地面に落ちている。
「穢れをためてどうするのですか」
「は?穢れ?」
真琴はタケルの足元のタバコの吸い殻を指さした。
「あ、ああ。悪いな。ちゃんと拾って捨てるよ。それで、薬は見つかったのか?」
「…いいえ。薬は必要ではなかったのです」
その言葉でタケルは間に合わなかったのかと、口をつぐんだ。この霊はそれが無念となってここに居残ってしまったのだろうか。
「薬を探す間、私は様々な人に出会い、学びました。薬草の煎じ方から九字の切り方、式の使役方や護符の紋術…」
「ちょ、ちょっと待て。それは陰陽術のことか?」
「いいえ、私たちは異形の力とか異能と言いました。人ではない力ですから。…それでも」
と真琴は少し微笑んで言葉を続ける。
「お侍様は、私の力が役に立つとお側においてくれました。あの方も同じ、いえ、私以上にその力を持っていましたから。」
呼び名は違うが、九字や式神の使役は陰陽道野それそのもの。ということは平安時代かそれより前が真琴の生きた時代。よほど強い念が残っていると見える。タケルは、真琴のその姿からは考えられない強い想いがあることに手が汗ばんだ。離れられない地縛霊を浄化しようと簡単に考えて近づいた自分に舌打ちをする。
俺の力では歯が立たないかもしれない。
下手をすれば取り憑かれ、巻き込まれる可能性もある。だがそんなタケルの不安をよそに真琴は淡々と続きを語り始めた。
「薬を手に入れることができずもうダメかと思った時、安寿様から文が届きお侍様がもうダメであろうということを知ったのです。」
フルフルと震える体を抑えるように、膝に置いた手をぎゅっと握りしめる真琴。
「私は大急ぎで戻りました。せめて最期を看取りたいと思い、禁術を使ったのです。」
「禁術?」
「はい。一刻を争う時でしたから、私は後先も考えず
真琴から溢れ出る黒々とした気に当てられて、タケルは息を飲んだ。だが、それはほんの一瞬で影を潜め、身震いをした真琴はまた懐に刺した簪に手を当てた。しばらく気を落ち着けるように目を伏せていた真琴は顔を上げ、タケルを見た。
「私はその術者に呪を返し、蠱毒をお侍様から抜き取りました。そうして私はお侍様の元へ戻ったのです。」
そういった真琴の顔にはほんの少し誇らしげな笑みをたたえていた。
「お侍様は一命を取り戻しましたが、私は…死人の道を無理やり突き進み、蠱毒の毒を私自身に取り込んだことで体はボロボロ。余命幾許もなく、死が迫っていたことをひしひしと感じました。その時お侍様が言ったのです。これを持て、と」
そういって真琴は懐に刺した簪を手に取った。藤の花飾りと朱珠がついた繊細な黒塗りの簪。
「でも、私はそれを手にした時意識を手放してしまいました。お侍様が涙ながらに何かを呟いたのですが、聞き逃してしまい、この簪をどうせれば良いのかわからないまま今に至るのです。」
真琴は悲しそうな顔をして簪をいじり、また懐にそれを戻した。
「私はここで森を監視し、また悪鬼が人を襲わないようにずっと見守って参りました。森がなくなり、山も川も消え、家が建ち景色がすっかり変わってしまっても、私はここから動けないのです。」
タケルは真琴の話を聞き入っていたが、胸が締め付けられる思いに眉を寄せた。
「その簪を見せてもらってもいいか?」
そういったタケルを真琴は小首を傾げ見つめ、思い切ったように簪を手渡した。タケルがそれを受け取ると、そのかんざしに施された守りの力を感じることができる。術がかけられているのか。真琴はタケルの手にした簪をじっと見ている。
「何か術がかけられている。解術してきてもいいだろうか。君をここに縛り付けている理由がわかるかもしれない。」
そういったタケルに、真琴は少し目を見開き狼狽えたが、意を決して「どうぞ」とつぶやいた。
タケルは黙って頷くと、簪を左の掌に乗せ、右の手をかざした。柔らかい光が簪を包み込み、次の瞬間、閃光が走った。
「真琴」
閃光に視界を奪われたタケルは、目を瞬いて様子を伺うと柔らかい慈しむような男の声が響いた。タケルは目を細めてその姿を見極めようとした。
真琴のいう「お侍様」だということは一目してわかった。まだ若く、精悍な風貌で髪を結い上げた姿は少しタケルに似ている。真琴に向かって手を差し伸べて微笑んでいる。真琴は驚愕した顔から泣き笑いのような顔になって震える手で男の手を取った。
「新之助様」
「待たせたな。迎えに来たぞ」
新之助と呼ばれた侍は真琴の手を掴むとぐいと引き上げて真琴を抱きしめた。
「新之助様。新…っ」
真琴は言葉にならず、わっと泣き出し新之助の腕にすっぽりと抱かれ顔を埋めて泣きじゃくる。タケルは驚きのままぼんやりと、そうか、恋人を待っていたのかと頭の隅で考えていた。
「お待ちしていました。森から悪鬼はもう出てきません。真琴は新之助様のお力になれましたか。あのあと、お体は回復しましたか?蠱毒を使った卑怯者は真琴が退治しました。」
真琴は確認するように、ペタペタと新之助の顔や腕や胸板を触ってケガが癒えている仕草を繰り返した。それに対して新之助は笑いながら真琴の手を掴んで引き留め、また抱きしめる。
「ああ、真琴。お前に命を救われた。本当によくやった。だが俺たちの仕事はまだ終わっていない。時間がかかってしまったがそろそろ戻らないか」
「え?で、でも真琴の体はもうすでに朽ち果てて」
「真琴。俺たちはまだ生きているよ。そなたの体は結界に留めている。私の体もだ。真琴の中の蠱毒は体を病むが、精神と切り離して結界に収めることで、ーーまあ時間はかかったがーー退治も治療も可能だったんだ。だから俺たちの精神を死人の道に置くことで体からの毒抜きを安寿様に頼んだんだ。真琴の簪は死人から引き上げてくれる異能を探すことだったと覚えているか。」
真琴は視線を泳がせてしばらく意識を探ってから目を伏せた。
「も、申し訳ありません。その…」
「覚えていなかったか。」
「は、はい…」
真琴はこれ以上小さくなったら消えてしまうのではというほど体を丸めたが、新之助はそんな真琴の頭をポンポンと叩き呆れたように笑った。
「まあ良い。流されて随分未来へ来てしまったが結果的に見つかったのだからな。さて、不動タケル」
「ひっ?は、はいっ?」
「よく真琴を見つけてくれた。礼を言う。そして俺…私の結界もよく解いてくれた。これで私たちは体に戻ることができる。」
「は…」
「一つだけ忠告をしておこう。あそこにある泉…」
そういうと新之助は噴水を指さした。
「あれを濁らせるな。あの水が赤く染まる時、魑魅魍魎が溢れ出て都を覆う。俺がかけた封印もそう長くは持つまい。この時代に真琴ほどの異能者はおらぬ。仲間を集い、力をつけて対処するがいい。」
「……!」
「どうしてもの時は俺…私を呼べ。この笛を持つがいい。念を込めれば俺に届く。また会おう。」
タケルは穴の一つしか空いていない横笛を受け取り、笛と新之助を交互に見返した。
「タケル様、お話ができて楽しかったです。ありがとうございました。どうかお元気で」
そういうと、またしても閃光を放ち二人は消えてしまった。
タケルの目に景色が戻った時は、真琴の姿も新之助の姿もなく手に残された笛だけが白昼夢ではなかったことを告げていた。
「地縛霊、じゃなかったか。」
タケルは辛うじてそれだけ呟き、噴水を見つめた。
「…なんか、やーなお告げ聞いちまったな…。」
やっぱり地縛霊なんかに声をかけるんじゃなかったとタケルはがっくり肩を落として歩き始めた。
地縛霊とかんざし 里見 知美 @Maocat
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