6 母の記憶と泡沫の消滅
Ogiwara isara 陸
その人が母の代わりになることは、今日初めて会って、初めて知った。
何も言わずに頷いた。
一人で無くなることが、嬉しかったから。
繋がれた手の暖かさは初めて知るもので、安っぽい着物の袖は嬉しそうに跳ねていた。目を合わせないよう、合わせるよう、外した後に見て、どうしようか迷った。
手を握り返すことだけを覚えた俺は、前を向く。
うるさい道だった。
蝉がつんざいている。
畦道の花々は疲れていて…
二人分の足音は小川の音に消えたけど…
——うるさい道だ
うるさいのは嫌いだった。
でも
それでも
——あ、
この、顔はきっと、好きだ…
萩原伊沙楽 VI
——俺がただそこにありたいと願ったように、あいつもただ眠りたかっただけだった。
学生の頃はわからなかったけれど、今ならわかる。
そこはかとない絶望が漂っている日常にいたくないと何度も聞いた覚えがある。その時のあいつは決まって、顔を下に向けて、けれど少しだけ持ち上げ長い前髪の隙間からこちらを除く。あの虚ろが何を写していたかなんてついぞ知らない。
知り合って何度目かの夏。あいつはひどく体調を崩したことがあった。見た目繊細なのに対して、実のあいつはとことん丈夫な体を持っていた。俺の知る限りあいつが風邪を引いたのは実にその一回だけ。だからか、ただの風邪をこじらせるだけこじらせて夏の間中臥せっていた。
何度も見舞いに行っては粥を作ったり掃除をしたり、江里崎や佐々木と一緒に看病をした。最初の頃はあいつもぽつぽつと言葉を発していたけれど、病状が進むにつれ、口を動かすことすら嫌になったらしくずっと目を伏せる。それがまるでもう…死人のようで。
血行が悪く目の周りは浅茶色に歪み
食事もろくに取らないから体は痩せ細る
悟った。
そんなとき、あいつはこの類の言葉を使い始めた。
「ほら、春だよ。山は開いて畦道は錦に揺れている。陽はそこらを明るく照らすし窓ガラスはこんなにも柔らかい」
「竹藪に青白い手が有る」
「雪はうるさいからね。決して融かしてはいけない、色が消えてしまうだろう?」
そして俺たちは刃物をあいつのそばに置けなくなる。
その夏風邪からだ。彼の言動が目に見えておかしくなっていったのは。元からその気質はあった。しかしそれはあくまでも産み出される詩や小説の中にしか現れておらず、決して表面化することはなかったのだ。それが、浮き出た。
熱や咳、細菌たちがおかしくしたのではないだろう、と。俺だけがそう思っていた。佐々木も江里崎も熱のせいだと言って憚らなかったけれど、俺だけは確信を持って違うと言える。
奴は等々死ぬのだ。
今まで押さえつけてきたそれらが溢れて止まることを知らない。今までかろうじてなりを潜めていたが、もう限界に達して今にも爆発するのだ。きっかけが、ただただこの夏にひいた風邪というだけだ。
そうしてあとは収束に向かう。
つまるところ俺はこいつの、天才の消滅に立ち会うことになるのだ。
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