第90話 I Know(10)

(1)


 リントヴルムの夏の気温はほぼ日替わりで、極端に変動する。

 三〇度を超える蒸し暑い日もあれば、一〇度以下の真冬並みの寒さの日もある。朝晩の気温差も激しく、昼間は暑くても朝晩はぐっと冷え込む時もある。

 明け方、寒さで目を覚ましたシュネーヴィトヘンは、ベッドの掛布を鼻先まで引き上げ、隣で眠るウォルフィにしがみついた。


 直に触れた肌から伝わる体温が身体を暖めていく。

 引き締まった胸に鼻先を摺り寄せ、昨夜のことを思い返せば。

 頬が、全身が、瞬く間に火照りだす。


 何度も何度も、寝る間も惜しんで求め合った。

 何度も何度も迎えた絶頂の波に耐え切れず、シュネーヴィトヘンが気絶する形で意識を手放すまで。

 身体は風邪を引いた時に似た倦怠感に見舞われているが、心は今までになく満ち足りていた。


 隣から聞こえる規則正しい呼吸音。

 睡眠中ですら寄ってしまう眉間の皺。

 細身だけれど筋肉質で、傷痕だらけの体躯。

 愛おしさの余り、広い背中にそっと腕を回す。


 すると、シュネーヴィトヘンの表情は瞬時に凍り付き、充足感はたちまち泡のように消え去っていった。


 斜めにざっくりと切り裂かれた、一際大きく残る傷痕。

 紛れもない、己が傷付けた痕を、震える指先で怖々となぞりあげる。

 声にならない声で、ごめんなさい、と呟き、寄せていた我が身をさりげなく離し――、離そうとして、逆に強く引き寄せられた。


「あ……」

「…………」


 驚いて胸元から顔を見上げれば、何も言うなと、青紫の隻眼が無言で語っている。尚も罪悪感から身を離そうとすれば、きつく抱きすくめられた。


「今だけは、何も考えなくていい」

「……でも」

「いいと言ってる」

「…………」


 耳元に近付けられた唇が、息が、微かに耳朶に触れる。

 くすぐったさに身を捩れば、逃すまいと耳朶に軽く歯を立てられ、吐息が漏れる。一瞬にして脱力した肢体を抱く力が強まっていく。


「リザ」

「……ん」

「ここから逃げるぞ」

「……え」

「ヤスミンも連れて、三人で」

「…………」


 シュネーヴィトヘンは黒目がちな瞳を大きく見開き、ウォルフィの顔を凝視していたが、やがて、異様に醒めた眼差しでふふっと小さく笑った。


「駄目よ。私が多くの大罪を犯したのはどう足掻いても覆せない事実。相応の罰を受けるのは当然のこと」

「リザ」

「逃げるって何処へ??逃げられる場所なんてどこにもないわ。それに、アストリッド様を裏切ることにもなるわよ??」


 アストリッドの名前を出され、ウォルフィは言葉を詰まらせた。


「私とヤスミンを愛するように、貴方はアストリッド様も愛している。私達とあの方とでは、貴方が示す愛情の意味や形は違うけれど。でも、どちらもあなたにとっては何にも代えがたい大切なものなの。私はこれ以上、貴方から大切なものを奪ったり、壊したくないの」

「リザ」

「そんな顔しないで」


 ウォルフィの目元や額にかかる前髪を丁寧に払い、こめかみへと流していく。

 色素が抜け落ちた白い髪を優しい手つきで何度も梳かす。昨夜、彼が自分にそうしてくれたように。


「母親としても女としても幸せを知ったから。悔いは残っていないの」


 全てを悟りきった微笑みにいたたまれなくなる。

 今は何も聞きたくなければ言わせない、と、唇でシュネーヴィトヘンの言葉を塞ぐ。


 そして、また飽きもせず、二人は身体を重ね合わせたのだった。







(2)


 ヤスミンは朝食を作るために、自室から出ようとしていた。


 廊下に出た後、うー、寒い!とひとりごち掌を擦り合わせていると、「おはようございます、ヤスミンさん」という声が頭上から降ってくる。


「おはようございます、アストリッド様。どうしたんですか、こんな朝早くから」

「えっとですねぇ。ヤスミンさん、今日は朝ごはん作らなくてもいいです」

「え??」

「その代わり、一緒に朝市の屋台に出掛けませんか??朝デートしましょうよ!」

「えぇ?!」

「ヤスミンさんはいつも頑張ってますし、たまには楽したっていいじゃないですかー」


 アストリッドはヤスミンの肩に両手を掛け、身体の向きを反転させると、後ろから押し出す形で廊下を進んでいく。アストリッドとの身長差等の体格差により、ヤスミンは押されるがまま進むしかない。


「あ、あの!屋台に出掛けるのは良いんですけど」

「けど??」

 背中を押されながらも、アストリッドを振り返る。

「パパも一緒に誘いたいんです。ママは部屋から出れないから無理ですけど……」

「ウォルフィなら放っておきましょう。一晩自室に戻ってきてないみたいですし」

「どういうことですか??自室にいないってことはひょっとして、ママの部屋……」


 ヤスミンははたと思い至り、言葉の続きと廊下を進む足を止める。

 心なしか白い頬が薄っすら赤く染まっている。


「大人の深読みありがとうございますー」

「……い、いえ。そ、そういうことでしたら、仕方ないと言うか……」

「ていうか、朝からすみませんねぇ」

 アストリッドの余計な一言二言で、ヤスミンの頬は薄っすらを通り越し、熟れた林檎並みに真っ赤だ。

「さっ、屋台で何食べよっかなぁー!そうだ、ズィルバーンさんも誘っちゃおうっと。にしてもヤスミンさん、良かったですねぇ」

「へ??」


 恥じらうヤスミンをよそに、鼻歌混じりに浮かれていたアストリッドが、ふっと表情を引き締める。


「ウォルフィとロッテ様が和解のみならず、縒りを戻したってことじゃないですか??嬉しくないですか??」

「も、もちろん、嬉しいですよ!パパとママには、やっぱり仲良くして欲しかったですし」

「でしょー??」

「ママがこの屋敷にいられるのはあと少しだから」

「…………」


 アストリッドはヤスミンの背中から手を離し、その場に縫い止められたかのように立ち止まった。つられてヤスミンもその場に立ち止まる。

 振り返りはしなかったので、どんな表情をしているかまでは分からない。


「二人には、特にパパには、あとで後悔して欲しくなかったから」

「ヤスミンさん」


 何と声を掛けていいものか、アストリッドは言いあぐねていた。

 ヤスミン自身だって母親の傍にいられなくなるのは辛いだろうに。

 自らの気持ちよりも両親の仲を取り戻すのを優先させるとは。


「さっ!朝から湿っぽくしちゃダメですね!そうだ、ズィルバーンを誘ってきます!!」


 重くなった空気を振り払うべく、ヤスミンは明るい笑みを顔に張り付けた。

 長い廊下を足早に進み、軽快に螺旋階段を駆け上がっていく姿を、アストリッドはやるせない気持ちで見送っていた。






(2)


 ――時同じ頃――



 昨夜シャワーを浴び損ねた上に明け方の冷え込みのせいで、リヒャルトも普段より早く目覚めていた。

 起床するやいなや風呂場へ向かい、汗と汚れをシャワーで洗い流した後、新聞を手に再び自室へと戻る。その僅かな時間の間に、乱れていたベッドのシーツは綺麗に整えられ、さっきまで眠っていた筈の人物の姿は室内に見当たらなかった。

 立ったまま新聞を広げ、頁を捲っていく。すると、一つの記事が目に飛び込んできた。


 記事を読み進めていく内に整った眉は歪められ、新聞の端を持つ両手に力が籠る。要約すると、『東の魔女の聴取に時間が掛かり過ぎている』という、軍やアストリッドへの批判的な意見が書かれていたのだ。

 世間は日を追うごとにシュネーヴィトヘンの極刑、火炙りによる公開処刑を求め、声高に叫び始めている。その記事だけでなく、新聞全体の記事を粗方読み終えたリヒャルトは、ベッドの上に新聞を放り投げる。

 半渇きでまだ湿り気が残る髪をぐしゃぐしゃと乱し、立ち尽くしたまま、物思いに沈み込み――、沈みかけるが、頭を切り替えるべく身支度を始めた。


 身支度を済ませた後、コーヒーでも飲もうかと階下へ下りていく。

 長い階段を降りる途中、コーヒーの香りが、おそらくは階段から程近い位置にあるキッチンからだろう――、漂ってきた。


「あ……、おはようございます」

「おはよう」


 キッチンと隣り合わせで繋がっている居間に入れば、マホガニー製の円卓の上に二つのコーヒーカップが置かれていた。

 他にも、斜めにスライスされたミッシュブロート、エッグスタンドに立てられた半熟のゆで卵、木苺のジャム、バター、生ハム、サラミ、チーズ、トマトスライスがそれぞれ皿に並んでいる。


「まさか、朝食の準備をしてくれるとは」

「すみません、余計なことかと思ったのですが……」

「いや、むしろ有難いよ。男一人の暮らしだと朝は適当に済ませがちだからね。早速頂こうか」


 円卓の傍にある籐製の長椅子に腰掛け、食前の祈りを捧げる。

 ミッシュブロートの一枚を手に取り、ナイフで掬ったバターを塗りながら、昨夜のことといい、今朝の食事の光景といい、まるで彼女と夫婦にでもなったような錯覚を覚えてしまう。円卓から少し離れた壁際で、遠慮がちにコーヒーを啜る姿は妻と呼ぶにはかなり他人行儀ではあるが。


「少佐。君は食べないのか」

「はい、余り食欲がありませんので……」


 フリーデリーケの顔色は冴えておらず、表情はいつにも増して昏く沈んでいる。

 無理をさせたつもりはなかったが、まさか体調を崩したとかではないだろうな、と、心配になってきたところで、「あの……」と、フリーデリーケの方がリヒャルトに改めて向き直ってきた。


「閣下に、お願いしたいことが、あるのです」

「お願いとは??」


 フリーデリーケの目尻が、頬が、口元が、酷く引き攣り、カップを持つ手が震えだす。今にも切れてしまいそうな程、極限まで張り詰めた極細の糸のような表情に、リヒャルトの胸中もまた不安に苛まれていく。

 気を落ち着かせるため、フリーデリーケは何度も深呼吸を繰り返し――、告げた。


「私を、ルドルフと共に、半陰陽の魔女様の元へ転移させて欲しいのです」

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