第85話 I Know(5)
訳が分からない。
全くもって解せない。
腑に落ちない。
真意が掴めない。
明かり取りの小窓一つない地下の留置場に勾留され、繰り返される尋問に黙秘を貫き。供述を吐かせるため、拷問にでもかけられるかもしれない、と覚悟を固めつつあった中、極秘に下されたリヒャルトの命令。
「……意味不明だわ……」
思わず口をついて出てきた独り言に、丸テーブルを挟んで向かいに座る憲兵が、眉を擡げて反応を示す。彼の傍らでは、もう一人の憲兵が立ったまま調書に筆記している。
テーブルも、テーブルとセットであろう椅子も質の良いオーク製で作られ、椅子の座面の固さは程良く、長時間座っていて腰や尻が痛くならない。室内にはベッドや鏡台、クローゼットがあり、トイレやシャワー室まで完備されている。
留置場とは天と地程の待遇の差に、シュネーヴィトヘンは少なからず戸惑いを覚えていた。
「我々の質問にちゃんと答えろ、リーゼロッテ・ハイネ」
「…………」
本名を呼ばれるのは何時以来か。
「ヨハン・ギュルトナー少将殺害の件だが……」
「あれは……、少将が勝手に私の居城に押しかけてきたところに、ギュルトナー元帥の密偵と鉢合わせたのよ。それで混乱した少将が私を強姦しようとしたから……、正当防衛だわ」
あの時のことは思い出すだけで背筋が凍り、吐き気が込み上げてくる。胃の腑から喉元へせり上がってくる胃液をどうにか飲み下し、青褪めた顔を憲兵からさりげなく逸らす。
逸らした視線の先には部屋の扉があり、扉を間に左右の壁際には見張り役が付けられている。向かって右側の壁際には、ブルネットの短髪に眼鏡を掛けた男――、確か、ヤスミンの護衛を務めていたとかいう軍人だ。尋問の一環と称し、憲兵が自分に乱暴な真似を働かないようにと、リヒャルトが送り込んだらしい。
そして、左側の壁際には半陰陽の魔女――、ではなく、彼女の従僕である白髪隻眼の大男が壁に凭れて立っていた。
「……ねぇ、何故、アストリッド様じゃなくて彼女の従僕が監視役をしているの??」
「半陰陽の魔女様は魔女の国家試験問題の採点と、試験合格者への通知準備等でお忙しい。だから、従僕殿が代わりを務めている」
「ああ、そうなの」
「そんなことよりも続きを話せ。全く、黙秘をやめてくれたのはいいが、余計なことばかり話すときた。貴様に罪の意識はないのか??」
「…………」
『罪の意識』という言葉を投げ掛けられると、シュネーヴィトヘンは貝のように固く口を閉ざしてしまった。憲兵達は顔を見合わせ、うんざりと首を横に振ってみせる。憲兵達だけでなく、ウォルフィとエドガーも互いに横目で視線を送り合い、溜め息を飲み込む。
アストリッド邸に移送されてからのシュネーヴィトヘンは、留置場に拘留されていた時よりは話すようにはなったものの、突然黙秘に切り替わってしまうことが度々あった。
こうなったら最後、頑固な彼女のこと。閉ざした唇を再び開かせるのは容易ではない。
ウォルフィとエドガーの監視の目がある以上、憲兵も必要以上に言葉や態度を荒げられない。時間ばかりが虚しく過ぎていき、その日の尋問は終了時間を迎えた。
憲兵達が屋敷から去る中、ウォルフィとエドガーは適当な空き部屋を使い、ヤスミンが淹れてくれたコーヒーを飲みながら休憩を取る。
何の装飾も施されていない簡素なテーブルと二脚の椅子、無地の絨毯が敷かれているだけの七帖程の室内。二人共が椅子に座ることなく、テーブルに置かれたマグカップからは湯気とほろ苦い香りが立ち上る。
「……あんたには母娘揃って世話を掛けるな……」
「いーえ、今更ですよ」
カップを手に取るも、液面に目を落とすだけで口をつけようとしないウォルフィに、エドガーは苦笑交じりにコーヒーを口に含む。
ウォルフィとヤスミン、シュネーヴィトヘンの親子関係については、軍部でもごく一部の者にしか知られていない。エドガーが監視役を命じられたのも、そのごく一部に当たるからだ。
「ヤスミンちゃんが元気でいるのかも、少し気になりますしね」
ウォルフィの眉間に深い皺が寄り、右眼がスッと細くなった。
彼の表情の変化に気付いているのか、あえて気付かない振りをしているのか。エドガーは更に続ける。
「あの子は無理して笑っている時がありますから」
「…………」
把手を握りしめ、固まるウォルフィを尻目に、エドガーは残りのコーヒーをぐいっと飲み干す。
「では、俺は今から元帥府に戻ります。本日はこれで」
「あぁ……」
エドガーは空のカップをテーブルに戻すと扉を開けた。
折り良く、トレイを手にしたヤスミンが扉の前に立っていた。
「あれ??もう帰っちゃうの??」
「おぉ、元帥に諸々の報告しに行かなきゃならんし」
「ふーん、そう……。まっ、頑張ってね、少尉」
「はいよ、ありがとなー」
互いに手を振り合い、別れの挨拶を交わす二人を渋い顔付きで眺めていると、「ねぇ、パパ……」と、ヤスミンが話しかけてきた。
「何だ」
「憲兵さん達、もう帰ったわよね??」
「あぁ」
「じゃあ……、もうママの部屋に行ってもいいわよね??」
「……駄目だと止めても、どうせ行くつもりだろう……」
へへへ……、と悪びれもせずはにかむヤスミンに、ウォルフィは「……好きにしろ」とだけ告げたのだった。
(2)
憲兵達が帰った後も、シュネーヴィトヘンは椅子に腰掛けたままでいた。
疲れ切った顔で、丸テーブルの天板をぼんやりと見つめていると、ノックの音が飛び込んできた。この時間帯にこの部屋に訪れる者など、誰なのか分かり切っている。
「……どうぞ、入って」
疲れを滲ませた声色で、扉の向こう側の人物に入室を許可する。許可するやいなや、すぐに扉が開く。同時に紅茶とシナモンの香りがふわりと漂い、香りにつられるように顔を上げる。
ティーセット一式と渦巻状の菓子パンをトレイに乗せ、ヤスミンがテーブルの傍まで近づいてきた。
「今日はね、昼間にシュネッケを焼いたの。まぁまぁ美味しく作れたから、ママに食べてもらいたくて……」
「そう……、ありがとう……」
憲兵が帰る時間――、宵の時間が過ぎるのを見計らい、ヤスミンはシュネーヴィトヘンの部屋を毎晩訪れていた。
母親らしいことを何一つしてないどころか、本心ではないとはいえ『いらない子』と言って傷つけたというのに。自分を母と呼び、無邪気に臆面もなく慕ってくる娘に、嬉しさ以上に戸惑いを隠せずにいる。
ヤスミンもまた、母の戸惑いを理解した上で特に気にする風でもなく、慣れた手つきで二人分のカップに紅茶を注いでいた。自分とよく似た白い手の動きと、白いカップを紅色の液体が満たしていく様を眺めつつ、その後方にもそれとなく視線を配らせる。
「こんな時間まで監視する訳??ご苦労なことね」
ヤスミンに向けるものとは全く違う、視線にも声色にも棘を含ませ鋭く言い放つ。二人から少し離れた壁際に凭れかかっていたウォルフィは、徐に鼻先に皺を寄せる。
「もう、ママったら!そんなんじゃないってば。私が、パパも一緒に来て!ってお願いしたのよ」
「でなきゃ、誰が来るものか」
「ちょっとパパ!!」
ウォルフィは、批難がましげに睨むヤスミンからさりげなく顔を背ける。
「もうっ、二人共、もっと仲良くしてよー、もうもう……」
相変わらず顔を合わせれば言い合う両親に困惑し、ヤスミンはむぅ、と頬を膨らませる。けれど、すぐに気を取り直してシュネッケの皿をシュネーヴィトヘンに突き出した。
「とりあえず……、シュネッケ食べようよ!ママ、まともに食べてないだろうからお腹空いてるでしょ??」
「……そうね、ヤスミンが作ってくれたんだもの。折角だから頂くわ」
シュネーヴィトヘンはシュネッケの端を千切って一口齧る。
味の感想が気になるのか、ヤスミンは自分の分のシュネッケを手に持ったまま、シュネーヴィトヘンの口元を食い入るように見つめている。
「もう少し粉砂糖の量は少なめの方がいいかもしれないわね」
「あ、やっぱり甘すぎた??」
「少しだけ、ね。シナモンパウダーとナッツの分量を増やすのも有りかも」
「本当?!じゃあ、今度はそれでもう一回挑戦してみるわ!」
菓子作りに奮闘する娘とアドバイスをする母。
事情を知らない者が見れば、微笑ましい光景である筈なのに。
この時間は決して長くは続かないと知るだけに、締め付けられるような胸の痛み、息苦しさを、ウォルフィは密かに感じていた。
「ヤスミン。菓子作りもいいが、試験が終わったからと言って魔法の勉強を怠るなよ」
胸に生じる痛みを誤魔化す、もしくは余り母に情を移させないようにと牽制するためか。思わず見当違いな説教混じりの発言が口をついて出てきた。
「わ、分かってるよ、勉強は勉強でちゃんとしてるから!」
「何なの、偉そうに父親振ったりして」
案の定、ヤスミンには即座に反論され、シュネーヴィトヘンからは挑発めいた皮肉を吐き捨てられた。
「……何だと」
「ああぁぁ、二人共喧嘩はやめてってば!ね??」
再び険悪な雰囲気に飲まれかける二人に耐え切れず、ヤスミンはあわあわと間に割り込んだ。
「ママも疲れているだろうし、早めに寝ちゃおうよ!あ、そうだ!私もママのベッドで一緒に寝てもいい??」
「……え、えぇ、勿論いいわよ」
「じゃあ、すぐにカップとか片付けて、寝支度するからちょっと待っててね!」
ヤスミンは空になったカップと皿をテーブルの上からトレイに引き上げ、忙しない動きで部屋から退室していく。
寝間着姿で枕を抱えたヤスミンが戻ってくるまでの間、ウォルフィとシュネーヴィトヘンは互いに顔を背け合い、一言も言葉を発することはなかった。
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