第84話 I Know(4)

「知能や言語、会話能力、精神疾患等の検査、テストでは異常は一切なく、自分や周囲の人々に関する記憶だけが抜け落ちている……、と言ったところか。記憶喪失の原因はおそらく……、眠りの呪いが解けた後も更なる苦しみを与える為にナスターシャが別の呪いと合わせて仕掛けたのだろう……。あくまでアストリッド様と私の推論でしかないが……」

「…………」

「そこで、アストリッド様と相談した結果、少佐の身柄もここへ預かってもらうことになった。魔法、もしくは他の方法でも記憶を取り戻す術がないか調べるために」


 ヤスミン達に表情なく淡々と語るリヒャルトを、フリーデリーケは心細そうに見つめていた。 眉と共に切れ上がった目尻を引き下げ、リヒャルトに縋るような目つき。これまでの彼女を知る者にとって別人のようだった。


「アストリッド様だけでなく、シュライバー君やヤスミン殿にも迷惑を掛けることになるが……、彼女をよろしく頼む」

「……了解……」

 ショックで言葉を失うヤスミンに代わり、ウォルフィが応じる。

 フリーデリーケの足元では、ルドルフが身体を擦りつけるようにぐるぐる回っている。フワフワと長い体毛が脚に触れ、くすぐったかったのか、フリーデリーケは腰を屈めてルドルフの身体にそっと触れる。

「これだけ纏わりついてくるのなら……、私がこの猫を飼っていた、というのは本当なのでしょうね……」

 フリーデリーケは戸惑いながらも、怖々とした手つきでルドルフを抱え上げた。

 気持ちの上ではともかく身体が覚えているのか、抱き上げる手つきは慣れた動きを見せている。

「……何か、思い出すことは??」


 リヒャルトの問いに、フリーデリーケは力無く首を振る。

 愛猫に触れればほんの些細な出来事でも思い出さないか、という期待は脆くも崩れ去った。

 玄関ホールにて流れる気まずい空気、沈黙。誰もが二の句を告げず、押し黙る。


「リヒャルト様―!ロッテ様を部屋に連れていきましたし、魔力封じの結界も発動させましたぁ!!次はポテンテ少佐を案内しますー!!」


 とぼけた大声が廊下から響き、次いで、玄関ホールにまでぐわんぐわんと反響した。ヤスミンはハッと瞬きし、リヒャルトとフリーデリーケは項垂れていた顔を上げる。ウォルフィは煩そうに、徐に顔を顰めてみせる。

 声が聞こえてきた方向へ、その場にいる全員が視線を、顔を、向ける。

 声の主――、アストリッドが、パタパタと小走りで廊下から玄関ホールへと駆けてくる。


「アストリッド、煩いから走るな」

「だってー、……って、うぎゃん!!」

 すかさずウォルフィに注意され、口答えしようとして派手にすっ転ぶ。

 あぁ!と小さく悲鳴を上げ、掌で顔を覆うヤスミンの横で、ほら見たことか、と、ウォルフィは床に這い蹲る主を冷たく見下ろした。

「ううぅぅ……」

「自業自得だろ」

 呻き声を発し、床を這いずってこちらへ向かってくるアストリッドを見兼ね、ヤスミンが手を差し伸べる。

「ヤスミン、甘やかすと付け上がるから放っておけ」

「だって」

「あぁ、ヤスミンさんは優しいなぁー!性格まで父親似じゃなくて良かったですー」


 ヤスミンに助けられながら、シュタン!と音を立てて起き上がる。

 まだ小言を言いたそうなウォルフィを無視し、アストリッドはリヒャルトとフリーデリーケの傍へと近付いていく。

 いつにも増して、アストリッドの笑顔が妙に輝いている。

 この場の気まずい雰囲気にそぐわない、胡散臭いまでの満面の笑みを見たウォルフィは直感的に嫌な予感を覚えた。すると、フリーデリーケの足元から天井に掛け、虹色の光が発光し始めたのだ。


「なっ……、アストリッド様?!」

「あんた、何考えている!」

「えー、べっつにー??ちょっとリヒャルト様の邸宅に少佐を転移させるだけですよ??」


 虹色の光の中、ルドルフを抱いたフリーデリーケの顔がサッと青褪めたが、時すでに遅し。光が天井の高さまで届いた瞬間、パッと宙に霧散、フリーデリーケの姿は玄関ホールから消失してしまった。

 リヒャルトが動くよりもずっと速く、ウォルフィの拳骨がアストリッドの頭頂部に叩き落とされる。


「うぎゃん!!」


 床に尻もちをついたアストリッドを、ウォルフィは殺気立った右眼で睨み下ろしている。怒髪天を突きそうなウォルフィに気圧され、ヤスミンは思わずリヒャルトの背にしがみついく。


「……あんた、自分が何をしでかしたか、分かっているのか」

「はい、勝手な真似をしたのは重々承知しています。ですが、少佐は自分達よりもリヒャルト様の元にいるべきだと判断しての事です。記憶を失って一番辛いのは少佐ご自身です。だったら、彼女が最も愛する人――、リヒャルト様の傍で過ごしてもらう方が安心できるのではないでしょうか。勿論、記憶を取り戻す方法の模索は最大限尽力させていただきます」

「……私の立場上、休養中の女性副官を私邸に住まわせるなど許されざることです。万が一国民に知られでもすれば、退任ものの醜聞となり得ます」

「では、上手く世間から隠し果せてください。あぁ、そうですねぇー。これを機に、いっそのこと婚約にでも漕ぎつけちゃえば良くないですか??」

「アストリッド!」


 いけしゃあしゃあと問題発言を述べるアストリッドに、長身の男二人は鬼気迫る表情で詰め寄った。しかし、アストリッドは全く動じなければ悪びれもしない。


「リヒャルト様はポテンテ少佐に対してもっと真剣に向き合うべきだと思うのです。上官としてではなく一人の男性として。欲を言えば、少佐が記憶喪失になる前にするべきだったんですけど。お二人の立場を考えれば難しいことではあるのでしょう。でも……、今のリヒャルト様があるのは、長年支え続けてくれた少佐の存在があればこそですよね??今度は貴方が少佐を支える番ではないでしょうか??最も優先させるべきなのは国や軍ですから、自分が言う程容易ではありませんが……」


 立ち上がりながら、アストリッドはリヒャルトに訴えかける。

 貴女に言われるまでもない、と、反論するべく、リヒャルトが口を開きかけた時だった。


「……あの、閣下。今夜はもう遅いですし、ひとまずはフリーデリーケさんを閣下のお屋敷に泊めて、明日の朝にここへもう一度転移させる、とかじゃ駄目ですか……??」


 それまでことの成り行きを静観していたヤスミンが、恐る恐るリヒャルトに提案を持ちかけてきたのだ。


「多分、短時間の間に何度も居場所を変えるのは、今のフリーデリーケさんには厳しい気がするんです。皆が揉めている間にも見知らぬ屋敷で一人待たされているの、凄く不安だと思いますし。だから……、ひとまず閣下は一刻も早く邸宅に戻られた方がいいような……」


 リヒャルトとウォルフィの反応に怯えてか、意見に自信が持てないのか。

 言葉を尻すぼみにさせながら、ヤスミンは自らの意見を伝えてみせる。


「……一晩だけであれば、周囲の目も誤魔化せなくもないが……」


 頭を抱えるように下ろした前髪をくしゃりと握り潰し、大きく嘆息する。

 閣下、と呼びかけるウォルフィを制し、「とりあえず今夜は、少佐の身柄は私が預かります。ただし、明日明朝、再びここへ転移させます。いいですね??」と、アストリッドに告げる。


「それじゃ、自分が転移させた意味は……、って、うぐぐ」

「あんたはこれ以上喋るな。了解」


 ウォルフィは反発するアストリッドを羽交い絞めにし、掌で口を塞ぐ。

 折りが良いのか悪いのか、そこへシュネーヴィトヘンの元にいた軍人達が戻ってきた。彼らは、輪の中にフリーデリーケの姿がないことを訝しんだが(ウォルフィに拘束されるアストリッドは見慣れているせいか、無視された)、「ポテンテ少佐がここにいないのは、すでに部屋に案内してもらったからだよ」というリヒャルトの言葉で疑念をあっさりと晴らした。

 アストリッドは口を塞がれているので、嘘ですよ!と叫びたくても叫べずにいる。


「では、アストリッド様。ポテンテ少佐とロッテ殿を、くれぐれもお願いします」


 つい先程まで見せていた苦悩ぶりは何処へやら。

 威厳さえ湛える涼しい顔付きでリヒャルトは、アストリッド、ウォルフィ、ヤスミンを順にしっかりと見据えると、背を向けて玄関の扉に向かった。

 颯爽と歩く背中を追うように軍人達も後に続き、彼と共に屋敷を後にする。

 数分と立たない内に、二台の軍用車が走り去る音が外から微かに漏れ聞こえてきた。


 そこまでは大人しくしていたアストリッドだったが、ここでウォルフィの手に思い切り噛みつき、ウォルフィの手が緩んだ隙に拘束から逃れた。

 親指と人差し指の付け根に残された歯型の痕を擦り、睨み付けてくるウォルフィに、アストリッドはふん!と鼻息荒く顔を逸らした。


「ポテンテ少佐ですけど、多分、明日の朝もその次の朝もずっと――、ここに送られてくることは、きっとない、と思いますよ」

「何を根拠に……」

「勘です」

「勝手に言ってろ」


 また喧嘩が始まった、と、ヤスミンが困惑しきりでおろおろしていると、「なぁなぁー、やっと軍人共帰ってったー??」と、二階の階段の手摺からズィルバーンが、階下へ向けて顔を覗かせる。エヴァやアストリッドの嘆願に加え、元は畜生の為に免罪され、この屋敷で暮らすようになったのだ。

 ズィルバーンは手摺に飛び上がって跨ると、シュルルルーと一階まで滑って移動し、軽い身のこなしで床に着地した。


「あっれー、怖い副官のねーちゃんは??つーか、あの、旨そうな猫助は??」


 辺りをキョロキョロと見回し、しきりに鼻をひくつかせて気配を探るズィルバーンにどう説明するべきか。更なる面倒な事態に、今度はウォルフィが頭を抱えたくなってきたのだった。

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