第74話 Sullen Girl(15)

(1)


 脳内を映像によって支配されたフリーデリーケは、ゆっくりと地に崩れ落ちた。


「……少佐……!」


 左腕と胸部に走る激痛を堪え、リヒャルトは地面に突き刺した魔法剣に掴まりながらふらふらと立ち上がった。

 両腕で我が身を抱え、息を詰めて蹲るフリーデリーケを、ボロ雑巾のような姿で彼女の傍に近付くリヒャルトを。ナスターシャは愉悦に逸る心を抑えながら上空より高見を決め込んでいた。折しも、巨体を青銅色に輝かせたゴーレムが五体、結界に護られた施設を取り囲んでいく。


 あの廃屋に移動する直前、ナスターシャは光弾を放つと同時にリヒャルトと側近達に幻惑術を仕掛けていた。施設を光弾から護るため、リヒャルトが防御結界を発動させることは予想していたが、まさか幻惑術までもがすぐさま破られてしまったのは全くの想定外だったが。

 さすがは一国を背負う男だけある、と、強靭な精神力を苦々しく思っていたところ、よもや廃屋から再びここへ戻ることになるとは――、しかも、シュネーヴィトヘンとイザークも一緒に。

 精神力はともかく、今の疲弊しきった状態のリヒャルトと、幻惑術に惑わされるフリーデリーケの力では、結界の防御力が弱まるのに左程時間は掛からない。 

 シュネーヴィトヘンが召喚した巨大ゴーレムを使い、集中的に結界を殴打させ続ければより効力が切れるのは早まるだろう。結界の防御力が完全に失われたのを見計らい、イザークの爆炎で全てを焼き払ってしまえば――



 ゴーレムの剛腕が結界へと真っ直ぐに振り下ろされる。

 薄緑の防御壁の威力を削ぎ落そうと、休む間もなく何度も頑強な金属の拳を五体共揃って叩きつける。負けじと防御の光も抗うが、術者の一人は満身創痍、もう一人も正気を失くしかけている状態では、いずれ結界の効力は薄れていくだろう。

 結界を叩き割ろうとして生じる風圧が流れてくる。緩やかな巻毛が乱れるのをいささか不快に感じつつ、ナスターシャは唇に弧を描かせた。

『ギュルトナー元帥の愛犬』を嘲笑うために。

 身の程を弁えない愚かで哀れな女。一生手に入れることなどできない男の為に、自らの全てを捧げ続けるなんて。

 人はそれを愛だと呼ぶけれど、愛なんて何の身にもならないのに。

 ナスターシャの脳裏に、遠い昔の記憶が過ぎる――


 ナスターシャの母は若くして死んだ父を想い続け、終生寡婦で過ごしていた。

 母は美しい女で再婚の話も後を絶たず、豊かな家の男からも求婚されたこともあった。母一人娘一人の生活は苦しく、ナスターシャは貧しい生活から脱したかったのに。それでも母は頑として再婚話を受け付けなかった。

 思い出以外は何も齎してくれない亡霊にしがみつく余り、周囲から孤立し、生活は困窮していく一方。やがてナスターシャは母を見限り、家から出て行った。

 母みたいに落ちぶれたくなければ、惨めな暮らしも強いられたくない。

 そのためには安定した地位を、なるべく最小限の努力と労力を持ってして、さりげなく他の者を蹴落とし、恨みを買わないよう立ち回り。絶対強者の力を利用し――、手に入れたい。ただそれだけのこと。


『貴女はとても一途で健気な女性よ。たった一人の男性に身も心も一心に捧げるには飽き足らず、人生そのものまで捧げているのだもの。きっと彼は男冥利に尽きている事でしょうね。だけど、所詮は夫でも恋人でもない、愛人というにも微妙な立場の女など使い勝手の良い駒でしかないわ。貴女を妻にと所望しているみたいだけど、たまには夢でも見させてやろうとおだてているにすぎないだけでしょう。どうせ理想が叶い次第――、まぁ、この状況じゃまず無理でしょうけど――、貴女よりも若く美しく、身分の釣り合う女性を妻に迎える気でいるに決まっていますわ。私が彼だったら絶対にそうするもの。己へ向けられる絶対的な忠誠心や愛情程、利用しがいあるものなんてありませんわ!!』


 あははは、と、笑い転げるナスターシャの声が耳に届いているのかいないのか。

 リヒャルトに肩を揺さぶられても、地に蹲るフリーデリーケは微動だにしない。

 結界の発光具合が少しずつ薄れ始めてきた。もうそろそろゴーレム達の怪力で防御壁に罅が入る頃だろう。



「だから何だって言うの」


 地に伏せたまま、顔だけをナスターシャが浮遊する方向に向け、冷たく無感情な一言と視線を地上より突きつける。

 突如として正気に戻ったフリーデリーケに驚き、リヒャルトは反射的に彼女の肩から手を離した。リヒャルトが手を離すよりも半瞬速くフリーデリーケは詠唱し、腰のホルスターからダガーを素早く抜き放った。

 刀身を橙色に光輝かせたダガーは、流線を描きながら上空に向かって飛んでいく。施設周辺に自生する木々、防御結界、ゴーレム達の巨体の間を擦り抜け――、やがて、ナスターシャの眼前まで到達した。その間、僅か一〇秒足らず。


 きらきらと流れ星のように、光の尾を引くダガーは、ナスターシャが避ける間もなく彼女の鳩尾を深く貫いた。


「か、は……!……」


 腹の底から灼けるように熱いものが込み上げ、空気と一緒になって吐き出される。水面で鼻上げ呼吸する魚と同じく、ぱくぱくと空を仰いでしきりに口を開閉させる。その唇の端から顎先にかけて、涎と血が混じり合ったものが一筋伝う。

 栗色の瞳はカッと大きく見開かれ、両手は水を掻くようにバタバタと上下にもがいている。身体を動かせば動かす程、ダガーが突き刺さった鳩尾に赤い染みが拡がっていく。


 地上に落下するのだけは、プライドがどうにも許さない。

 自然と下がりゆく高度を、辛うじて気力で保っている――、と。


「無様だわ」


 声自体は鈴を転がしたみたいに清涼なのに、怖気を感じる程冷淡な口調。


「強大な力を持つ者に縋っている内に、自分までその力を得た気でいたのでしょう??馬鹿ね」

 まぁ、私も人の事を言えた義理じゃないけれど、自嘲気味に笑うシュネーヴィトヘンを、血走った目付きで睨み据える。

「私も貴女も、暗黒の魔法使いにとって暇つぶしの玩具でしかないの。いい加減気付きなさいよ。可哀想だけど、彼は貴女を助けるつもりなんて毛頭ないわ」

「……じゃ、あ、なに、しにき……たの……」


 シュネーヴィトヘンの黒曜石の瞳に同情の色がちらつくも一瞬のこと。

 ナスターシャのすぐ目の前まで近づくとダガーの柄を両手で握り込み、内側をより深く抉るように突き刺していく。入道雲の白に覆われた空高く、朱が走る。


「悪いわね。娘がギュルトナー元帥とポテンテ少佐に庇護されている以上、あの二人に死なれると困るのよ」


 雪のように白い手も白いドレスも、獣じみた声で絶叫するナスターシャから迸る鮮血に染まっていく。二つ名が示す通り、血塗れの白雪姫と化したシュネーヴィトヘンは、ナスターシャの叫び声が途切れたのを切欠にダガーを力一杯引き抜いた。

 支えを失くしたナスターシャは呆気なく地上ヘと落下していく。

 細い身体が地に激突する寸前、ナスターシャの身体はふわりと宙を浮き、落下時に受ける衝撃を免れた。落下の衝撃によって身体がひしゃげるのをシュネーヴィトヘンが魔法で阻止したからだ。


「……死に顔くらいは綺麗でいさせてあげるわ……」


 ダガーを眼下へと放り捨て、イザークに気付かれる前にと、シュネーヴィトヘンは巨大ゴーレム達を消失させるべく、急いで詠唱を――


『勝手なことをしてもらっては困りますよ、リザ様』


 シュネーヴィトヘンは喉元を軽く両手で押さえ、今し方ナスターシャがしていたみたいに唇をぱくぱくと忙しなく動かした。しかし、唇の動きと反し、一言も言葉が、否、声が発せられない。

 

『貴女には少しの間、魔力封じと身の自由を奪う魔法をかけましたから。声どころか、身動き一つ取れない筈です。ゴーレムの遠隔操作は僕が引き継がせてもらいましょう』




(2)


 軍服に付着した土埃を手で払い除け、立ち上がったフリーデリーケは再び結界強化の詠唱を口にする。

 上空から気配と勘頼りのみでダガーを抜き放ったため、正確に急所を狙えたかどうかは少々自信が持てないものの。結界強化とリヒャルトへの治癒魔法、アストリッドかヘドウィグに救援の思念を送るだけの時間稼ぎはできた、かもしれない。

 辺りをぐるりと見回せば、幻惑術にかかっていた他の側近達は皆、地面に倒れ込んでいる。術を解除できたはいいけれど、精神に掛かる負荷の大きさゆえに気絶しているのだろう。

 リヒャルトの治癒回復が最優先だが(魔法が使える者しかゴーレムを倒せないからであり、決してフリーデリーケの私情によるものではない)、彼らにも治癒回復を施さなければ。もう少しだけ辛抱してください、と、側近達に胸中で謝罪し、地に片膝をついて気遣わしげに彼女を見上げるリヒャルトの元へと駆け寄った。

 リヒャルトと同じく地に片膝をついた態勢で、彼の左腕に手を添え、短く詠唱する。リヒャルトの左半身が、濃黄色の眩い光に包み込まれていく。

 

「…………すまない…………」

「いえ。左腕の骨折は治しましたから、次は肋骨を……」


 リヒャルトの左腕に添えていた両手を外し、胸に手を宛がおうとした時だった。

 上空から結界を抜けて人らしきもの――が、落下してきたのだ。


「ナスターシャ、殿、か……?!」


 地面に着くか、着かないか。

 擦れ擦れのところで宙に浮く血塗れの女が、ナスターシャだと気付いたリヒャルトは、咄嗟に地面に突き刺していたブロードソードを抜き取ろうとした。


「閣下。無暗に近づいてはなりません」


 フリーデリーケは警戒心を露わにさせ、リヒャルトを自らの背に押しやった。

 傷の様子から自分が投げたダガーが見事命中し致命傷を負わせただけでなく、他の誰かの手によって止めを刺されたような。何にせよ本当に死んでいるのか、確認するまでは危険だ。

 フリーデリーケが腰のホルスターから魔法銃を抜こうとした――、のと、宙に浮いたままのナスターシャの顔がぐるん!と、こちらに向いたのは、ほぼ同時だった。


 見開いた栗色の瞳がフリーデリーケの姿を捉えた瞬間。ナスターシャは、蚊の鳴くようなか細い声で、確かに詠唱した。

 フリーデリーケの心臓がドクン!と大きく波打ち、ドッドッドッと早鐘を打つように細かく脈を打ち始める。


「……あっ……」

「少佐!?……貴様、何をしたんだ!?」


 突然、左胸を抑え込んで苦しみ出したフリーデリーケの肩を抱きかかえ、リヒャルトはナスターシャに声を荒げて詰問した。ナスターシャはやはり目を見開いたまま、僅かに口角を緩め、途切れ途切れに答える。


「…………の、ろい…………、よ……」

「呪いだと?!」

「……わ、たし、の……、『死』と……、ひ、きか、え……。……え、い、えん……、に……、ゆ、め、を……、さめ、な、い……、ゆ、め……、を……、みつ、づ……、け、る、と……、いい、わ……。…………あは…………」


 最期に、喉の奥を振り絞るようにフリーデリーケとリヒャルトを嘲笑うと、ナスターシャの首ががくりと落ち、宙に浮いていた身体はどさりと地へ落ちた。

 額に薄っすらと冷や汗を浮かべ、苦悶の表情を浮かべていた様子から打って変わり、いつの間にかフリーデリーケは、リヒャルトの腕に凭れかかり静かに寝息を立てていた。


「少佐!ポテンテ少佐!!しっかりしろ!!目を覚ますんだ!!」


 呪いと言う名の眠りに落ちたフリーデリーケを両腕に抱え、リヒャルトは必死で呼びかける。

 治癒回復魔法で左腕の骨折は治ったもののまだ肋骨は折れた状態であり、女性にしてはかなりの高身長の彼女を支えるのは相当に辛い筈なのに。痛みも疲労も忘れてリヒャルトはフリーデリーケに呼び掛け続ける。

 だが、ナスターシャからの死の呪いが、呼びかけ程度で覚める筈もなく。リヒャルトの悲痛な声のみが辺り一帯に響くのみ。


 その呼びかけすらも、そう長くは続かなかった。

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