第54話 Every Single Night(13)

(1)


「……何しに来たんですか……」

「我が愛しのマリアに会いに来ただけですよ」


 歯の浮くような気障な台詞をさらりと言ってのける、真っ赤な髪と瞳を持つ白塗り男――、暗黒の魔法使いイザークを、床に転がったままアストリッドは憮然とした顔付きで睨み付けている。

 数十年に一度の割合で気まぐれを起こし、何の前触れもなくいつも突然、母の前に現れるこの男。一応、血を分けた実の父、らしい。

 けれど、イザークから一欠けらの愛情らしきものを掛けられていない以上、一度足りとて彼を父親だと認めたことは、ない。


 イザークから視線を大きく逸らし、アストリッドは身を起こして立ち上がると、背を向ける形で先程と反対側を向いて再び丸椅子に座り直す。

 自分を露骨に無視するアストリッドを、イザークは目の形を歪めて楽しそうに嘲笑った。その時、玄関の木戸が軋んだ音を立てて開く。


「イザーク様!!」


 感極まった、涙交じりの声。イザークに駆け寄るマリアの足音に深い絶望を感じた。マリアはこの男の胸に縋りついては再会に咽び泣き、彼女を胸に抱いて髪を撫でながらも、この男は依然ニヤニヤと嗤っている。部屋の隅では、抱き合う二人を心底不快気にヘドウィグが睨んでいるだろう。

 振り返ってわざわざ確認せずとも想像に容易い光景が、アストリッドの背後で繰り広げられている。


 長い間、静まり返った室内にはマリアの嗚咽のみが響いていたが、それを中断させるかのようにカタン、と、小さな物音が鳴った。

 音を立てたが玄関へと移動、わざと乱暴に扉を開けた音から、ヘドウィグが外へと出て行ったのが察せられた。恐らくは適当な男を引っ掛けて家に転がり込み、イザークがここに滞在する間をやり過ごすつもりだろう。イザークがマリアの前に姿を現す度、彼女はいつもそうしている。

 自身で逃げ場を作れるヘドウィグを羨む反面、彼女が一時的にここを離れたくなる気持ちは大いに理解できるので責める気にもなれない。この男が現れる度、母マリアは途端にヘドウィグには見向きもしなくなり、この男の傍を片時も離れようとしないから。


 マリアに対し、魔法の師や疑似家族以上の感情を持つヘドウィグには到底耐え難いのは大いに理解できる。

 溺愛している筈のアストリッドですらイザークにかまける余り、彼女の食事の用意など身の回りの世話や話しかけることすらも忘れてしまうくらいだ。それどころか、アストリッドがほんの少しでもイザークに反抗的な言動や態度を示そうものなら、普段は何をしても怒らないのに「お父様に何てことを!」をきつく叱りつけさえする。

 もっと幼い頃は母に対し怒りを示したこともあったが、全て無駄でしかないと悟って以来、最近では二人の様子を冷ややかな目で観察するのみ。

 母が自分に惑溺するのは、偏に、愛してやまないこの男の子供だから。ただ、それだけの話。

 マリアが如何に我が子である自分を愛しているか語り、自分を護る為と称して人々を見境なく傷つけたとしても。彼女の本質に気付いてしまった以上、全ての言動行動に強い不信感と猜疑心しか持てないでいる。


 マリアは愛情を振りかざしているつもりで、アストリッドの孤独や虚無を日に日に増長させていくだけ。

 椅子の上で抱えた膝に顏を埋め、背中越しに聞こえてくる、(認めたくないけれど)両親の会話に耳を塞ぐ。


 嫌だ、今すぐここから逃げ出したくて堪らない。




「駄目よ、アストリッド。外は危険な物や人で一杯なんだから、貴女はここにずっといるべきなのよ。それが貴女の為なの」

「アストリッド。貴女が外へ出れば出る程、貴女のせいで傷付く人の数が増えるだけですよ??あの老婆みたいに、ね」


 折しもどこから流れてきたのか、黒胡椒が入り混じった肉が焼ける匂いがぷんと室内に漂ってきた。肉の匂いにアストリッドだけでなく、マリアとイザークも反応を示す。


「まぁ、一体誰なのかしら。こんな肉の匂いを垂れ流して、私の可愛いアストリッドを誘い出そうなんて……」

「ははぁ、さては彼女の食欲に目を付けたのでしょうねぇ」

「アストリッド、肉なんて食べちゃ駄目よ??誰かが肉を使って貴女をおびき出し、酷い事をしようと企んでいるに違いないわ。絶対そうに決まっているわ。そうね……、出て行ってもいいけど……、犯人を見つけ次第、この肉と同じように悪い輩も焼いてしまおうかしら」

「おやおや、可愛い顔して物騒な」

「あら、可愛い我が子を護る為なら私は何だってするつもりです」

「焼けますねぇ。散々僕を愛しているように見せ掛けて、やはりアストリッドの方が」

「そんなことありません!」


 何て聞くに堪えないのだろうか。

 耳を塞いでいてさえ聞こえてくる、エゴに満ち満ちた勝手極まる両親の会話。

 やっぱり、ここから逃げて外の世界へ――




「だから、お母様を殺したの??」



 ここでアストリッドは、初めて両親を振り返った。

 皮肉気に笑うイザークを、眉を潜めるマリアを。

 イザークに肩を抱かれるマリアの左胸には短剣が深く突き刺さり、血に塗れている。白く細い首の周りも同様に。

 振り返ったまま身動きどころか瞬き一つできずに硬直し、血の気を失うアストリッドを、マリアは悲しげに見つめる。


「貴女は大義の為と称し、実の母を手に掛けましたが……。本当は、ただ、マリアから逃げたかっただけなのでしょう??」

 母子の様子を面白そうに眺めていたイザークは、揶揄うような口調でアストリッドを問い詰める。

「マリアは確かに貴方に愛情を注いでいたというのに。自分が思うような愛情を得られないからといって、何も殺すことはなかったじゃないですか」


 項垂れるアストリッドの脳裏に、あの日の記憶が鮮明に蘇る――






(2)


 あばら家に近い古民家の中。

 水晶玉に映し出される、葦毛の馬に騎乗する若者と馬を囲む従者の姿。

 水晶を覗き込む母の背中を物陰から眺める、赤茶色の長い髪をした少女とも少年ともつかぬ子供。


『まぁ、何てことかしら……!いい加減、私達のことなど放っておいてくれればいいのに……。アストリッドを育てるために書いたとはいえ、私が伝えた魔法で皆が幸せになってくれればという思いも込めていたし、魔法を勝手に悪用する者達が悪いのであって、私は何も悪くないのに……』

 水晶を乗せた机の上に両肘を付き、顔を伏せるマリアは大いに嘆いてみせた。

『やっぱりイザーク様の言う通り、人間はどこまでも愚かな生き物だわ……。折角、呪詛を掛けずに見逃してあげたのに……。助けてあげた優しさを仇で返しにくるなんて信じられない……。私はただ、私がいなくなればアストリッドが生きていけなくなるのが怖いから、絶対に捕まる訳にはいかないのよ……』

『……お母様……』


 ふいに肩を叩かれてマリアは顔を上げる。

 髪や瞳の色は違えど自分とよく似た顔立ちの我が子が、思い詰めた顔付きで見下ろしていた。


『……もう、これ以上、無為に誰かの命を奪うのは……、やめてください……』

『アストリッド……』 

『このままでは、この国は、間違いなく滅びてしまいます……。何より、お母様の罪がこれ以上増えてしまうのは……、見るに耐えないんです……』

『そんなこと、あなたの為ならどうでもいいわ。国が滅びたなら別の国に移住すればいいだけだし、あなたの為に罪を犯すことくらい何てことないわ』


 汚れのない少女の微笑みを平然と浮かべる母に、アストリッドは表情と舌を凍りつかせた。

 アストリッドが顔面蒼白になった理由など全く気にも留めず、立ち上がったマリアは自分より頭一つ分背の高い我が子を愛おしそうに見上げる。


『アストリッド。これは全部、貴女への愛なの。貴女の為なの。だって、イザーク様が完全に姿を消してしまった以上、お母様には貴女しかいないし貴女にもお母様しかいないから。世間や他の他人は私達を裏切るけれど、お母様は貴女を絶対裏切らない。貴女だってそうでしょ??貴女は、これからもずっとお母様の言う通りにしていればいいのよ』



 この時、アストリッドの中で、随分と長い間極限まで張り詰め続けていた細い糸が、ぷつり、と切れる音が、した。



『……もお母様を愛していますから、お母様の言葉に従います』


 怯えた表情から一転、アストリッドは母に媚びるように笑いかけた。

 アストリッドの笑みを額面通りに受け取ったマリアは、嬉しそうに微笑み返す。

 何の含みもない無邪気な笑顔ですら、アストリッドには最早恐怖しか感じられない。


『ただ、彼らがここに辿り着くまでにはまだ明日の夕方近くまでかかるでしょう。もう夜もすっかり更けてますし、明日に備えて今夜はゆっくり休んだ方がいいと思いますよ??』

 マリアは少しの間逡巡した後、『そうね、貴女の言葉に従うわ』と素直に首肯してくれた。

『……じゃあ、私はお母様が心穏やかに眠れるように温かいワインを用意しますね』

『まぁ、何て優しい子なのかしら!ありがとう、アストリッド』


 手放しで素直に喜ぶマリアに、アストリッドの良心は疼くようにズキズキと酷く痛んだが、それでも恐怖心と固い決意を打ち消すまでには到底至らなかった。

 狭い厨で温めたワインの用意をしていても、美味しそうにワインを飲むマリアを眺めていても。

 マリアが寝付くまで同じベッドに身を置き、隣に横たわっている間も、アストリッドの震えが収まることはなかった。


 マリアの寝息が聞こえ始めてから二時間近くが経過した。

 アストリッドはマリアを起こさないよう、そっとベッドから抜け出すとベッドの下――、ベッドと床の隙間に隠してあった短剣を引っ張り出した。この家に来た時も、その前に住んでいた家でも更に前の家にいた時も、アストリッドはマリアに内緒でベッドの下に短剣を隠していた。母に殺意を抱くのは、何も今回に限ったことではない。

 ヘドウィグが一緒に暮らしていた頃はまだ耐えられていたが、彼女がマリアの元を去り、軍の魔女狩りに協力し始めたことの影響も大きい。

 しかし、身勝手で歪んだ愛情を向ける母を恐れ憎んでも、やはり命を奪うとなると情や倫理、罪の意識が邪魔をして実行までにはついぞ至らなかった、が――



 もう限界だ、と。

 マリアから課せられる、鉛よりもはるかに重たいばかりの愛情を押し着せられるのは。



 埃を被った短剣の柄を、震えの止まらない両手で固く握り締め、マリアの枕辺に立つ。規則正しく上下する胸元、心臓の位置に正確に狙いを定め――



 力の限りに、振り下ろした。







 どのくらいの時間が経過しただろうか。



 床の血だまりの中に放り捨てられた短剣。

 鮮血で汚れたベッドの上、永遠に覚めることのない眠りにつくマリア。

 血に濡れた両手で顔を覆い、アストリッドは床へ力無く座り込んでいた。


 この室内だけ、時が止まったかのようだ。


 窓の外は強い雨が降り、窓の木枠や屋根に向かって大粒の雫が叩きつけられる。

 それ以外は、ベッドからはみ出したマリアの指先や長い髪の毛先を伝い、ぽとん、ぽとん、と血が床へ滴る音が響くだけ。


「ふ、ふふ……。あは、あはは、あははは……」


 長らくの沈黙に耐え切れなくなったのか、それとも気が触れてしまったのか。

 唐突に笑いが込み上げてきて、アストリッドは声を立てて笑いだした。

 皮肉なことに、笑っている内に徐々に冷静さを取り戻していき――、この後の立ち回りについて算段を立て始めていた。

 すると、先程までの放心状態が嘘だったかのように素早く立ち上がり、アストリッドは動き出す。


「軍の方々に、マリアを討ち取った証拠を見せなければいけませんからね……」


 血だまりの中に手を突っ込み、短剣を拾い上げる。

 鈍色の切っ先も金色の柄も、ペンキのような鮮やかな深紅に染まっていた。

 再び微かに震え出す心と、柄を握る両掌。

 己の両掌も血の色と臭いが染み付いている。


 怖気づく気持ちを抑えつけるように、ごくりと唾を大きく飲み込み――、マリアの亡骸の首元に、刃を宛がった。




 全てを終わらせたアストリッドは家の裏手にある井戸へ向かう。

 とっくに夜は明けたどころか、すでに昼の時間帯に差し掛かっていた。

 アストリッドは身に付けているもの全て脱ぎ捨て、昨夜の雨でぬかるんだ地面へと放り投げる。

 一糸纏わぬあられもない姿で井戸の水を汲み、血で汚れた全身を、皮膚が剝けてしまうのではというくらいの強い力で、丹念に擦り洗う。

 時間を掛け、やっとのことで血を洗い流すと、血と泥で汚れた衣服を拾い上げ、全て井戸の中に投げ落として家の中へと駆け込んでいく。


「この髪も、もう、いい加減うんざりだ……」


 居間の壁に飾られた楕円形の魔鏡を前に、アストリッドは腰よりも長い自らの髪を鷲掴み、勢いよく鋏で切り落としていく。

 肩ら辺で無造作に切り揃えると、自らの魔法で出した男物の衣服を身に付ける。


 これで、軍の者がいつ家の周りを囲んだとしても、大丈夫。


 アストリッドは、鏡の隣に掛けられた灰緑色のローブを手に取り、身に纏うとフードを目深に被ったのだった。

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