第55話 Every Single Night(14)

(1)


 きゃあ、と弱々しげな悲鳴と、ガタン!と激しい物音が室内に響く。

 激怒したシュネーヴィトヘンがナスターシャに飛び掛かり、勢い余って床に押し倒したのだ。

 押し倒した弾みで自らもつんのめったシュネーヴィトヘンは、ナスターシャの上に覆い被さる形で転倒。二人の激しい取っ組み合いが始まった。


「何をなさるの?!乱暴ですわ!」


 抗議の悲鳴を上げ、ナスターシャは腹の上にのしかかるシュネーヴィトヘンを引き剥がすべく、彼女の両肩をきつく掴んで押し返した。負けじとシュネーヴィトヘンも、押し返そうとする力を弱める為、ナスターシャのローブドレスの襟元を締め上げていく。

 苦悶の表情を浮かべるナスターシャだったが、今度はシュネーヴィトヘンの艶やかな黒髪を一房握り締め、強く引っ張り上げる。痛っ!と顔を顰めた隙にナスターシャは髪を掴んでいない方の手で力の限りに押し倒し、シュネーヴィトヘンの身体は横向きの態勢で床へ投げ出された。

 すぐに身を起こしたシュネーヴィトヘンの頬を、ナスターシャは平手で思い切り打ち据える。栗色の瞳にはいつもの柔和さは微塵もなく、冷たい怒りのみが映し出されているが、それはシュネーヴィトヘンを更に激高させ、怒りの炎に油を注ぐ一方だった。倍返し、とばかりに、ナスターシャの頬を何度も何度も打ち据える。

 床にチョークで描かれたそれぞれの魔法陣は、二人が床で揉み合う内に所々が掠れ、最早使い物にならない。ナスターシャの桃色のローブドレスもシュネーヴィトヘンの黒いワンピースも、チョークの白い粉で汚れていく。近くに置かれた長椅子、ローテーブルの角や脚に身体をぶつけても一切気にも留めない。


 本来の目的――、ナスターシャは幻惑術でロミーとヤスミンに過去を見せる(ウォルフィは想定外だったが)、シュネーヴィトヘンは屍人を遠隔操作する、を、完全に放棄し、ただ互いに怒りをぶつけ合っているのみ。

 元々折り合いの良くない女達を二人きりにさせ、片方が最も嫌がることをもう片方が実行する。結果、揉め事が起きたとしても何らおかしくはない。

 否、あえて揉めるよう、イザークに仕向けられたと考えた方がいいかもしれない。敵味方関係なく、彼は人が諍う様を眺めるのを何より好む。


 だが、二人の諍いを、物音を聞きつけたユッテが扉の影から目撃してしまうことまでは、流石の彼も想定していなかったかもしれなかったが。






(2)


 気付くとウォルフィは、先程アストリッドが凭れていた回廊の支柱に背を預けていた。支柱によろよろと凭れかかりながら、足を投げ出すようにしてずるずると床へ座り込む。ごつごつと固く、冷んやりとした石の感触が服越しに伝わってくる中、左の足首ら辺だけは奇妙な温かさを感じた。ヤスミンから貰ったアンクレットが結んである場所だ。無意識の内に左の足首に手を伸ばし、黒革のタイトパンツの上から躊躇いがちにそっと触れる。

 ヤスミンも自分が見せられたものと全く同じ記憶を、見てしまったかもしれない。

 魔女の従僕と化し、今までずっと素知らぬ顔で過ごしてきた父に、大罪を犯し、今では逃亡犯と化した凶悪な魔女が母であるだけでなく、両親が敵対関係に陥っている事実に何を思っただろうか。


「……リザ……」


 譫言ではなく、意識的にこの名を口にしたのは何時振りか。

 かつての彼女がどれだけ自分を愛していたのかまざまざと思い知らされ、左の足首を握り締めながら、血が滲むほどに唇をきつく噛みしめた。切れた箇所からぽとぽとと赤い雫が二、三滴、床へと垂れ落ちる。

 じんとした鈍い痛みが増すごとに徐々に現実へと立ち返らせていく。悲鳴に近い声で小さく呻き、床に蹲るアストリッドの姿を視界の端に捉えたことで一気に正気に返る。


(今は、感傷に浸っている場合ではない……!!)


 ウォルフィは急いで立ち上がり、再びアストリッドの傍へと歩み寄ろうと――、して、ふと回廊の窓から外の様子を一瞬だけ窺った。そこで彼の右眼は大きく見開かれた。

 地上の、ある一定の方角から雲一つない快晴の空へ向けて、黒煙が濛々と流れている。澄み切った青に嫉妬する地の神が、美しさを汚そうと躍起になっているかのように。

 まさか、と信じられない思いで、もう一度目をよく凝らして煙が流れてくる場所を確認する。


「……嘘、だろう……」


 確か、あそこは、ハイリガーの居城が建つ黒い森。

 そう、黒い森が炎に包まれ、遠目から見てもはっきり分かる程燃え盛っている。

 森の中には今、ロミーを探すために、ヤスミンが――


 ウォルフィの顔からサッと血の気が失せていく。

 足元ではアストリッドが依然、一人で苦しみ続けている。


(……一体どうすれば……!……)


 焦燥ばかりが募っていく状況。

 何とか平静を保ちながら、まずはアストリッドを正気に戻さなければ――、と、彼女を引っ張り起こそうとするウォルフィの真横の空間が、虹色に発光し始め――、数秒後、ハイリガーが光の中から出現した。

 肩で大きく息を切らし、ぜぇぜぇと不規則で乱れた呼吸から、随分と急いで駆けつけてくれたようだ。


「ウォル君……、こっちの、状況、は……??」

 激しく上下する胸を抑え、息も切れ途切れにハイリガーは尋ねる。

「さっきまでアストリッドと南方軍の精鋭部隊と共に、屍人を延々と始末していたが……、」

「が??」

「突然、全ての屍人が跡形もなく消失した」

「え……」

「その代わり、アストリッドが……」


 苦々しげに顔を歪め、ウォルフィは床に蹲るアストリッドを視線で指し示す。


「アスちゃん?!どうしちゃったのよ?!」

「分からない……、屍人が霧消した直後、突然狂ったように叫び出して……。声を掛けても揺さぶりかけても、ぐったりとしたまま何の反応も示してくれない。ただ……」

「ただ、何?!」


 アストリッドを案じる余り、ハイリガーは食って掛かる勢いでウォルフィに迫った。ウォルフィはハイリガーからさり気なく視線を外し、迷う素振りを見せたものの、ゆっくりと言葉を続ける。


「アストリッドが変調をきたすのと同時に……、誰かに俺の遠い過去の記憶――、俺への揺さぶりのつもりか、見せられたんだ。もしかしたら、アストリッドも同様に過去の記憶――、例えば、思い出したくないような内容を、見せられているかもしれない……」

「…………」

「そうでもなければ、こいつがここまで苦しむなんて有り得ない」

「でも、ウォル君は、正気に戻れたのでしょ??」

 ハイリガーの問いに、ウォルフィは複雑そうに眉を顰め、軽く二、三度頭を振った。

「……俺の場合、むしろ知っておかなければならないし、これから向き合わなければならないことだった。それに、途中で術者を妨害する者が現れたみたいで……、結果的に目が覚めただけだ」


 術者の女の声も聞き覚えがあったが、妨害した女の声はたった一声発しただけなのに、瞬時に誰なのかわかってしまった。ウォルフィは一際大きなため息を一つ零した後、さっと気を引き締める。


「……俺のことは別にいいんだ。それよりも、アストリッドと」


 ここで、ウォルフィは回廊より外に向けて徐に指を差す。

 指先は赤く燃える黒い森を差している。


「何てことなの?!」

 ハイリガーはエメラルドの双眸を大きく瞠る。

 呆然とするハイリガーに構わず、ウォルフィは続ける。

「南の魔女、あんたに一つ頼みがある。この地に雨を降らせ、黒い森の火事を消して欲しい。どのみち、あそこはあんたの居城がある場所だ。このままでは城にまで火の手が回るのも時間の問題だろう。今すぐ頼む……」


 ウォルフィは眉尻を下げ、懇願するようにハイリガーを真っ直ぐ見つめた。

 初めて見せる、切羽詰まった弱気な表情にハイリガーが戸惑いを隠せないでいると、ウォルフィは微かに声を震わせ、確かに告げた。


「あの森の中には、ロミーと、ヤスミン……、俺の娘が……、まだ残っているかもしれないんだ……」

「…………」


 一瞬、ハイリガーはウォルフィに何か言い掛けようとしたが、あえて口に出さずに喉の奥へと流し込んだ。代わりに、「……分かったわ。水属性、しかも天候を左右する魔法はアタシの専門外だけど……、大雨を降らすくらいならイケると思う」と答えた。

 

「雨で黒い森の火事を鎮火させつつ、アスちゃんに掛けられた幻惑術を解かなきゃね。この子を悪夢から目覚めさせるのにとびっきりの方法が一つあるわ」

「本当か?!」

「えぇ、ただ、まずは雨を……」


『そう簡単には事を運ばせませんよ』


 ハイリガーが光り輝くファーデン水晶を出現させ、掌に浮遊させるのと、不吉な声が二人の耳にこだましたのは、ほぼ同時だった。


「……つっ!!その声は……!!」

 憎悪と殺意を剥き出しにさせ、ハイリガーが叫ぶ。

「あんた、死んだんじゃなかったの?!」

『たかだか銃で撃たれたくらいで、この僕が簡単に死ぬと思っていたのですか。実に心外ですねぇ』


 くつくつと笑うイザークの声に、顔を赤黒く染め上げ、額に筋を何本も浮き立たせてハイリガーは怒りでわなわなと全身を震わせている。

 落ち着け、とウォルフィが諭すものの、彼女の耳には届いてすらいない。


『ショーはこれからが本番、今までは単なる余興に過ぎませんねぇ』


 忍び笑いが大笑いへと変化していくと共に城門の階下から赤黒い靄が発生、立ち上ってくる靄のせいで視界が見事に阻まれていく。

 まともに目を開くことも出来ず、ハイリガーとウォルフィは目を瞑って流れ込んでくる靄を手で払い続けていたが――

 ようやく靄が収まり、慌てて階下を窓から覗き込んだ瞬間、二人は絶望に似た感覚を覚えた。すぐ下の階からも混乱を帯びた悲鳴や怒号が次々と上がってくる。


 全身の表皮が黒い蛇の鱗に覆われた、五十の頭部を持つ犬――、地獄の番犬ケルベロス。

 城門の高さとほぼ同等の巨大な体躯に真っ赤な瞳を爛々と輝かせ、口元から涎をだらだら流しながらこちらへ向け、不気味な唸り声を発していた。

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