第22話 Red Red Red(6)

(1)


 ――それから、およそ二年後――




 その日は、一日の間で気候が変動しやすい春にしては珍しく、小春日和のうららかな天気だった。

 リーゼロッテは、放浪の魔女ヘドウィグと初めて会った場所――、あの森の最奥にて、サラダ菜の葉の形と似た薬草に水遣りをしていた。


 ヘドウィグはあの森を拠点としながら、国軍から要請された諜報活動のために国内外を旅して回る魔女であった。そして、『閉ざされた狭い世界で生きてきたお前さんには、見聞を広めるまたとない機会だ』と、時折、リーゼロッテも旅に同伴させていた。

 ヘドウィグが旅に出る理由は諜報活動の他にもう一つある。森で育てた薬草から抽出される、幻覚成分を持つ粉薬を、敵国の、主に軍属の者に売りさばき、微力ながら戦力を削ぐことだ。

『幻覚薬の売買は、軍には内密でしていること。あくまで私の独断だし、決してお前さんに薬を売らせるつもりはないから、代わりに他の者には黙っておいておくれ』

 ヘドウィグ以外の者とまともに口を利く機会はあまりないし、話そうにも話せないけれど、と、思いながら、リーゼロッテは律儀に約束を守っている。自分を助けてくれただけでなく、彼女の弟子に迎えてくれたことは多大に感謝しているのも事実だから。

 ちなみに、魔女狩りの因習が根強く残る土地の森で二人の存在が知られていないのは、自分達や薬草の畑、棲家が普通の人間には見えないよう、奥まで人が入り込んできても、彼女達が暮らす場所には辿り着けないよう、結界が張られているためだ。お陰でリーゼロッテは街の者に見つかることなく、この森でヘドウィグと共に静かな生活(時々、刺激的な旅生活)を送っていた。


 リーゼロッテがヘドウィグから学んでいたのは、主に薬草の知識や治癒回復魔法、旅に出た時に危険から我が身を守るための防御魔法だった。

 しかし、二人で旅に出掛ける際、女、それも、一人は妖艶で肉感的な美女、もう一人は儚げで嫋やかな美女という、種類の違う美女の二人連れは嫌でも人目を引いてしまう。ゆえに、不当に狙われることもしばしばあったし、国によっては魔女と言うだけで常に命を狙われたので、その度にヘドウィグが不逞な輩達を攻撃魔法で撃退し、難を交わしていた。

 ヘドウィグは、リーゼロッテがスラウゼンの人々に復讐することを恐れ、攻撃魔法は一切教えようとしなった。だが、潜在能力が非常に高く、優秀な魔女として着実に力を身に着けていたリーゼロッテはわざわざ教えられなくても目で見て自然と覚えてしまっていた。

 それでも、魔女ロッテとして新たな人生を送っていたリーゼロッテは、自身やウォルフガングのような犠牲を出さないため、弱きを助けるために日々修行に励もう、と。自ら思い込もうとしていた。


 日除けにローブのフードを被り、薬草の葉を一枚一枚捲ってみては痛みや虫食いがないか確認。その都度、ジョウロで水を与えていく。畑の規模は大して広くはないが、たった一人で世話をするのはそれなりに重労働だ。

 全ての薬草の水遣りを終えたリーゼロッテは、ふぅと小さく息を吐いてフードを頭から取り外す。熱が籠った厚い布地の中から開放され、凪いだ風が頬や髪を撫でる心地良さにうっとりと目を閉じる。

 開放感に身を委ねつつ、棲家の中へ戻ろうとしたリーゼロッテだったが、近い場所から人の、それも複数の人間の声が、確かに聞こえてきた。思わずサラダ菜の中に身を隠す。


 もしや、自分の生存を嗅ぎ付けた街の者が、探索をしに、ここへ――??

 二年前の悲しく忌まわしい記憶が、リーゼロッテの脳裏を走馬灯のように駆け巡る。


 よりによって、ヘドウィグが留守の時に、一体どうすれば……。

 密かに覚えたものの、使ったことのない攻撃魔法に自信がないし、果たして防御魔法のみでこの危機を乗り越えられるのか。

 破れてしまわないかと危惧したくなる程、早鐘を打つ心臓をぎゅうっときつく掌で押さえつける。掌は震えている。

 掌だけではない、全身がガクガクと激しく震えている。胃の腑や肺もキリキリと痛み出し、吐き気が込み上げてくる。


 すっかり恐慌状態に陥ったリーゼロッテだが、彼女の恐れを嘲笑うかのように、朗らかな少女の笑い声が辺りに響き渡り、少年の笑い声が後に続く。どうやら、単に若い恋人同士が森の奥まで散策に出掛けただけのようだ。

 リーゼロッテの恐怖と緊張は瞬く間に解けていき、安堵の余りに畑の中でぺたんと座り込んでしまった。

 若い二人は、近くの木の根元にでも座り込んだのか、立っているにしては低い位置から弾んだ声でお喋りに夢中になっている。ヘドウィグの結界で、やはりこちらの存在は全く見えていないらしい。

 徐々に落ち着きを取り戻していったリーゼロッテは、ローブの端やスカートについた土汚れをパッパッと払い落とす。気を取り直し、再び棲家へ戻ろうと畑から出て行く中、先程とは全く別の感情に心が支配されていくのを感じ取っていた。


(――何故、私は無性に苛々しているのかしら??)


 リーゼロッテは、決して短気な質ではない。

 特に、ヘドウィグの元で修業を始めてからは喜怒哀楽の内、「怒」と「哀」の感情はほとんど捨て去っていた。

 それなのに、あの若い恋人たちの、目の前の幸せしか見えていないような明るい声が、勘に障って仕方ない。

 これまでだって、国内外で幸せな恋人や夫婦を大勢目にしてきて、微笑ましいと思えど、こんな黒い感情を抱くことなど、ついぞなかったのに。一体、自分はどうしてしまったのだろうか。

 自分自身さえも知り得なかった一面に、リーゼロッテは大いに戸惑いを覚えた。

 けれど、戸惑い以上に醜い嫉妬や憎悪の念が、恐ろしい程の速さで心を侵食していく。


(……駄目よ、私は、私は……。誰かを傷つける為に、魔法を学んでいる訳じゃ……!)




 ――いつまで、偽善者の振りをしているの??


 ――本当は、最愛の恋人との仲を引き裂き、不当な感情をぶつけ続け、恋人や家族の命を奪った街の者が、憎くて、憎くて仕方ない癖に――


 ――愛しいあのを手放さざるを得なかったのも、元を正せば――


 ――あいつらは、お前達を不幸に陥れた上で、幸せを手に入れている――


 ――悔しいと思わない??悲しいと思わない??――





「……煩いわね……!……」


 自身の中に住む悪魔に向けてか、何の罪もない若い恋人達に向けてか。

 棲家の扉の前で項垂れ、リーゼロッテは必死に自身の中で渦巻く葛藤と戦っていた。手に握られていたジョウロが、いつの間にか地面に転がっていることにも気付かずに。


 晴朗だった空に、次第に灰色の雲が差し掛かり始める。

 暖気を含んだ風の中に、僅かに冷気が含まれていく。

 まるでリーゼロッテの心模様を映し出すようだ。


 駄目だ、中に入って少し頭を冷やそう。

 リーゼロッテが、扉に取り付けてある、黒く錆びた鉄製の把手を握ろうとした時だった。




『大好きだよ、僕のリーゼロッテ』

『私もよ、ウォルフガング。ずっと貴方と一緒に居たいわ』 




 ウォルフガングもリーゼロッテも、リントヴルムではごく平凡でありふれた名前だ。かつての自分達と同名の恋人達が存在したとしても何らおかしくはない。

 しかし、確かに響いてきた力強い言葉に、リーゼロッテが意識的にも無意識的にも押し殺し続けてきた黒く醜い感情が一気に噴出し、すぐに行動として現れた。






(2)


 詠唱魔法で鎌鼬を発生させ、恋人達がいるであろう方向へと発動。

 互いを庇い合う二つの悲鳴が上がった後の、耳を劈く絶叫。

 そして、気味が悪い程の静寂が訪れる。


『ここから先は、私と共にいる時以外は出てはいけない』と、ヘドウィグが張った結界の境界線を越える。ヤドリギの実が頭上高く成るオークの巨大樹群を懐かしい思いで見上げていると、ねちゃりとした不快な水音が足元から聞こえてきた。

 雑草の緑と地面の茶色に、大量に流れた血による赤い水溜り。

 目線を地面から水平の位置に引き上げる。

 そこには、かまいたちに首を切り裂かれ、巨大樹の根元で寄り添うように絶命した少年と少女の姿。まだ幼さを残す、哀れな若い二人を見ても、リーゼロッテの胸は不思議とちっとも痛まなかった。


「我が子を亡くしたとあれば、きっとご両親の心痛は計り知れない程大きくなるわね。……そうね、すぐに子供達の後を追わせてあげればいいかしら。でも、残念なことに、両親が誰かは分からない……、困ったわ」


 困ったと言いつつ、その表情はちっとも困惑してなどいない。

 リーゼロッテは、困ったわ、困ったわ、と呟きながら、薄暗い森の奥深くから外の世界に向かって突き進んでいく。

 全身から放たれる、目には見えない禍々しい魔力を恐れてか、森に住む動物や鳥達は彼女の傍を通り過ぎることもなく、視界を遮る木々すらも行く手を阻まぬように避けているように思える。

 幼い頃から勝手知ったる森の主のように、颯爽と、それでいて悠然と小径を歩くリーゼロッテは、魔女特有の妖しい魅力も相まって、本物の白雪姫が本から抜け出したように美しかった。


 森の入り口に辿り着いたリーゼロッテは、ヘドウィグから貰っていた指揮棒型の小さなワンズで、地面に魔法陣を描いた。魔法陣を描き終えると中心に立ち、朗々と詠唱を始める。足元から全身を包むように、黄金と赤の二色の光が虚空へ高く昇っていく。

 神々しい光に包まれる中、艶やかな長い黒髪をたなびかせ、リーゼロッテはワンズの先端を天へと真っ直ぐに掲げる。空へと昇った二色の光は、ワンズの先に吸い込まれるように集まると一際輝きを増した。辺り一面が赤と黄金の世界に飲み込まれたが、それも一瞬のこと。

 二色の光に呼応するように――、リーゼロッテの周囲には炎を全身に纏った巨大火竜、黄金色の巨大ゴーレムが、それぞれ何十もの大群で出現した。


「火竜よ、お前達は東方司令部と東方軍の兵舎を。ゴーレムよ、お前達は街中を。老若男女問わず、誰一人として生き残りのないよう……、スラウゼンの全てを破壊し尽くすこと。良いわね??」


 リーゼロッテが言い放った、冷酷無比な命令。

 火竜達は頑強で骨太な翼を大きく羽ばたかせ、囂々と大きな羽音を轟かせて空へと飛び立つ。ゴーレムたちは、一歩一歩に重量感を持つ足音を大地に響かせて、ゆっくりと街へと向かっていく。


「……さて、私も街へと出掛けようかしらね」


 手にしていたワンズから赤黒い光が放射され、ワンズは自動拳銃へと姿を変えた。銃の安全装置を外すと、すっかり灰色の雲に覆われた空高く舞い上がる。

 ふわふわと浮遊するリーゼロッテの黒曜石の瞳には、最早何の感情も映し出されていなかった。


これが後の世に言う、『スラウゼンの大虐殺』及び、美貌の凶悪な魔女、ブルーティヒ・シュネーヴィトヘン誕生の瞬間であった。

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