第16話 Limp(7)
(1)
「……ウォルフ、お願い。私と一緒に逃げて」
少女の涙が真新しい軍服の上に落ち、点々と染みの跡を残していく。両手できつく掴まれている胸元には皺が寄ってしまっている。
少女の背に腕を回し、抱きしめることも、その身から突き放すこともせず、ウォルフガングははらはらと涙を流す少女を黙って見下ろしていた。
彼女がこのように泣きついてくる事など、これまで只の一度もなかった。ごく稀に涙を流す時もあったが大抵の場合、「私は泣いてなんかいないわ!」と半分怒りながらの悔し泣きで、彼をよく呆れさせたものだ。
幼馴染の彼にすら初めて見せる、ひどく打ちひしがれた姿。
勝ち気な彼女にはまるで似合わない。
できることなら、彼女が抱えている憂い事全てを取り払ってやりたい――
(……だが、俺にはもう、どうしてやることもできない……)
「……そんなに泣く程、カスパル爺さんに囲われるのが嫌か??」
「当たり前じゃないっ!!」
案の定、少女は目尻を吊り上げて憤り、ウォルフガングを睨み上げてきた。
魂ごと吸い込まれてしまいそうな、真っ黒な瞳。
夜の闇と溶け込んでいる、癖のない漆黒の長い髪がさらりと肩から流れ落ちる。
その黒髪に縁取られた肌は、冬山に積もる新雪よりも更に白い。
憔悴しきった様子にも拘わらず、幼い頃から『白雪姫の再来』だと喩えられてきた美しさは不思議と損なわれていない。
「五十も上の耄碌した爺さんなんかまだ十六のお前じゃなくても、誰であっても嫌だろ……」
「それだけじゃないことくらい、分かっているでしょ……??私は……、」
少女の言葉を皆まで言わせまい、と、ウォルフガングは彼女の肩を掴み、自身の身体から引き離した。
「……誰かに聞かれたらどうする。俺はともかく、困るのはお前と、お前の母親だ」
『お前の母親』という部分をことさら強調してみせると、少女は不服そうに唇を引き結びつつも押し黙る。
「……話はこれで終わりか??そろそろ兵舎に戻らなければならない」
口は噤んでいるものの、少女の泣き腫らした黒い瞳に責め立てられるのが、ウォルフガングにはこれ以上耐えられず、少女の視線から逃れるように背を向ける。
家族や住む場所を捨てる覚悟で一縷の望みを掛け、彼の元へ訪れたというのに。
いつもにも増して冷たく素っ気ないウォルフガングの態度、突き放された少女は立ち竦み、その場で石のように固まってしまった。
「……臆病者!!」
少女の悲痛な叫びがウォルフガングの背に突き刺さる。
すでに何歩か進んでいた歩みを、一度、止める。
「……お前だけが辛いとでも思っているのか」
振り返ることなく、淡々と少女に語り掛ける。
「自分だけが傷付いている、なんて、思い上がりも甚だしい。甘ったれるな」
背後の少し離れた場所から、少女が息を飲む音が聞こえてきたが、あえて無視して再び歩みを進めていく。しばらくすると、彼が進む方向とは反対側へ、少女が走り去っていく音が微かに聞こえてきた。
ウォルフガングはもう一度だけ立ち止まり、足音が消えて無くなるまでその場に立ち尽くしていた。
病に倒れた母に、献身的に尽くす美しい少女、
父の働きだけでは手術代がまかなえず、途方に暮れていたところ、街一番の富豪が手術代の援助を申し出た。娘を愛人に差し出すのと引き換えに、と。
士官学校を卒業したばかりの、地位も収入も功績も何も持たない若造に、一体何が出来ると言うのか。
いつしか少女の足音が完全に聞こえなくなり、ウォルフガングは目を伏せてそっと呟いた。
「……すまない、リザ……」
(2)
目を覚ました途端、顔を覗き込んでいた鳶色の瞳と視線がぶつかった。
「あぁ、良かった!意外と早く意識を取り戻しましたね」
自分が現在置かれている状況が一瞬把握できず、ウォルフィは内心焦りを覚えた。
「ザビーネさんの触手のせいだと思うんですけど、随分と体力を奪われていたみたいでして。瞬間移動でこの部屋に戻ったと同時に意識を失くしちゃったんですよ。なので、とりあえずベッドまで運んだのです」
成る程、道理で見覚えのある壁紙やカーテンの色、家具の配置、ベッドの使い心地だと思った。
「……そうか。無事に、戻って来れたのか」
「はい、そうですよ。ハイリガー様もザビーネさんも、ザビーネさんに連れ去られていた若者達も全員、無事です」
暗黒の魔法使いは、と問おうとして、やめる。
代わりに、「……ロミーは??」と尋ねる。
「ロミーにも何も異変は起きていませんでした。ハイリガー様とも話していたのですが、あれは――、イザークはロミーが生存しているのに恐らく気付いていたでしょう。ですが、ザビーネさんと契約を結んで南で事件を引き起こした辺り、すでにロミーには興味を失くしていたように思います。ハイリガー様は今、南方軍の司令官とリヒャルト様に緊急連絡中でバタバタしていますから、また明日以降にも詳しい説明を聞かせてくれるでしょう」
相変わらず、ウォルフィに覆い被さる形で顔を近づけたまま、アストリッドは話を続ける。無防備ともいえる主の屈託のない笑顔から、さりげなく視線を逸らす。
目覚める直前まで見ていた過去の夢。
こんな至近距離で顔を近づけられていたのなら、きっとあの呟きも聞かれていたに違いない。否、それだけなら左程大した問題ではない。
彼が左目を失い、表面上は殉職扱いで軍籍を外されたのも全て『リザ』が関わっていることを、アストリッドにも周知されている。
だからか、これが他の者の名前なら、『えー、〇〇〇って誰ですか?!ウォルフィも隅に置けないなぁ、もう!!』などと興奮し、鬱陶しいくらい絡んでくるのに何事もなかったかのような態度を貫いている。
「あっ、そうだ!」
ウォルフィの顔の前で両手を叩くと、アストリッドはサッと立ち上がる。つられてウォルフィもベッドから半身を起こす。
「そろそろ、
そう言うと、アストリッドはベッドの上――、毛布の下で伸ばしているウォルフィの膝の上に乗り掛かり正面から向き合った。
右目は青紫色の三白眼、左目は眼窩の一部が剥き出しで魔血石が埋め込まれた顔は、大抵の者ならば直視できないだろう。しかし、アストリッドは目を背けることも醜悪さに表情を歪めることもなく、ウォルフィをじっと真っ直ぐに見つめている。かと思いきや、埋め込まれた魔血石を右の人差し指で突いてきた。すると、アストリッドの人差し指をずぶずぶと、石が中に吸い込んでいく。
石は指の付け根まで吸い込むと、ゴキュッ、ゴキュッと何かを飲み込んでいく。石が魔力を保とうと、アストリッドの生気を吸い取っているのだ。
魔血石。魔女や魔法使いの血液を元に作り出された魔力を宿す石で、本来は運気を上げたり、不運を取り除くという名目で、指輪や首飾り、耳飾り等の装飾品に使用されている。
この魔血石、貴金属の装飾に使用される程度の大きさならば問題ないが、一定の大きさを越えると生命を持ち魔力が増幅する。そのため、石の力が弱まると人間の生気を吸い取って魔力を保とうとするのだ。ゆえに、魔血石は小さなものしか作り出してはいけないし、人体に埋め込むなどもっての他であった。
しかし、ウォルフィと契約を交わす際、『心の奥底で深く想う人がいる貴方に、契約を交わすためとはいえ愛してもいない者、それも男性でも女性でもない自分と交わるのは
ウォルフィ自身が生気を吸い取られることがないように、石の力が弱まってくるとアストリッドがこうして石に生気を与える。本来なら性愛術を用いて保つ若さや特殊な力も、ウォルフィの場合は魔血石を通して得ていたのだった。
アストリッドから生気を吸い取り、魔力の補充を終えると、魔血石は一段と深紅の輝きを放ち始めた。
柘榴石よりも透度が高く、紅玉よりも深く鮮やかな彩度を持つ魔血石。
かつての魔女狩りの犠牲者の血を使い、大量生産されたという曰くがありながら、リントヴルムの女性であれば誰もが手元に置きたがるのも納得の、美しくも妖しい魅力を誇る石。
「これでしばらくは持つ筈です」
石から指を引き抜くとアストリッドは、やや顔色を白くさせつつもウォルフィに微笑み、彼の身体から離れる。
「あーあ、ザビーネさんのせいで夕食を食べ損ねちゃって、お腹がぺっこぺこ……。ハイリガー様にお願いして、残り物でいいから何か食べさせてもらおうかなぁ……」
どうやら顔色が悪いのは、生気を吸い取られたことよりも空腹なのが主な原因らしい。
「ウォルフィもお腹空いてますよねぇ??ついでにウォルフィの分も……」
「何故、黙ってた」
身体をふらつかせてベッドから降りた、アストリッドの華奢な背中に向けて問い質す。アストリッドのふらつきがぴたりと止まり、直立不動の姿勢に変わる。
「暗黒の魔法使いはあんたを我が子と呼んでいた。本当に、あの男があんたの父親なのか??」
「…………」
アストリッドの肩が小刻みに震え出し、顔を僅かに俯かせる。
「俺はあんたの従僕として二十六年仕えているが、まだ信用に置けな……」
「違います」
肩と同じように震えた声で、それでいてはっきりとアストリッドは否定した。
「貴方の言う通り、あれは……、イザークは自分の実の父親です。なので、自分の血の四分の一は悪魔の血が流れています。ちなみにこのことを知っているのは、ゴードン様とリヒャルト様、ハイリガー様の御三方、そして放浪の魔女ことヘドウィグ様のみです」
『放浪の魔女ヘドウィグ』の名が挙がると、ウォルフィの顔つきは一層険しくなった。
「貴方に話さなかったのは……、単に自分が臆病だっただけの話です。自分は思っていた以上に、貴方に対して深い信頼を寄せてしまいました。だから、自分の出自を知られて失うのが怖かった……」
「もういい」
ウォルフィは、ベッド脇のテーブルに用意されていた医療用眼帯を手に取る。
「……さっさと食べ物でも漁ってきて、顔色の悪さを何とかしてこい」
「…………」
眼帯の当て布部分を左目に宛がうウォルフィからは見えていないのを知りつつ、アストリッドは潤んだ目を伏せて、小さく息を吐き出す。溜め息はウォルフィに対してか、自分に対してか、もしくは双方に対するものか。
答えはアストリッドのみが知っていた。
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