第34話 オングリザ先生の診療所

 長い夢から目覚めた青年を見つめていたのは五人の瞳、異なった色のそれぞれはみな心配しているように見えたが、青年の意識が回復したと分かると途端に安堵の色に変わってすぐさま賑やかな声が上がった。


 正面に立つ長身の男性、年長者でもある彼を周囲の者は先生と呼んでいた。後ろに束ねた金色の髪に青い瞳の柔和な笑顔、その風貌は典型的な水の民だった。

 その先生なる者の向かって右にはふわふわと羽ばたく二人の小さな妖精が見える。彼らは野の民か。一方の左隣に立っているのは銀色の髪と背の羽、あれは風の民に違いない。

 視線を再び右に。野の民の二人から一歩下がったあたりにエプロン姿の女性が立っていた。小柄だが安心感を与えてくれるその姿はまさに土の民そのものだった。

 そして自分は光の民、なんということだ、今この場にはほとんどの種族が揃っているではないか。

 ここはいったい何なのだ。


「気分はどうかね? 外傷もないようだし、おそらく疲れが溜まっていたのだろう。じきに食事の用意ができるから、とにかく温かいものを摂りなさい」


 先生と呼ばれる男の声で青年の途切れた記憶がつながった。

 そうだ、自分は水の国マーヤイムタリアを逃げ出して南を目指したのだ。そして何度目かの日の出を経てたどり着いた森の入口で気を失ったのだ。

 するとここが伝説の村なのか?


 青年が自分に被せられた大きな布をめくって上体を起こすと、すぐさま先生なる男性が彼を気遣うように声をかけた。


「無理はせずにゆっくりとだ。心配は要らない、ここはこれまで君が経験してきたどこよりも安穏とした場所なのだから」


 そう言って先生は青年が寝るベッドの脇に立ったまま自己紹介を始めた。


「私はリオベル・オングリザ、見ての通り水の民だ。この村では研究の傍らに簡単な治療もやっている。だから村のみんなは私のことを先生って呼んでくれている、放逐された棄民のこの私をね」

「何を言ってるんです! 先生は先生ですよ」


 エプロンの女性がベッドのすぐ脇まで来て声を上げる。


「とにかく先生ったらどんな病気もケガも治してくれるんだから。だからこの診療所のおかげでみんな安心して暮らせてるの。それに……」


 女性は小さな妖精を見ながら続ける。


「そこのジャヌビアさんとルセフィちゃんがよい薬を作ってくれるし」


 女性の言葉を受けて小さな妖精の二人が羽ばたきながら青年の目の前までやって来た。二人は兄妹きょうだいだろうか、兄と思しき青年の笑顔には聡明さが感じられた。


「今、紹介にあずかったジャヌビア、ジャヌビア・ウングベと言います。そしてこの子が妹のルセフィ、それで僕たちを紹介してくれたそちらのカムシアさんは土の民、僕たちは『お母さん』って呼んでるんです。とにかくお母さんが作る料理はおいしくって……って、あっ、お母さん、お母さん、スープは大丈夫?」

「いっけな――い、まだ料理の途中だったわ」


 お母さんことカムシアは頓狂な声を上げると、小柄ながらも力強そうな靴音をたてて慌ただしく部屋を出て行った。


「さてさて、お次はルセフィが紹介する番ね」


 ルセフィは銀色の髪が美しい青年を指しながら続けた。


「この人はテネリア、見ての通り風の民よ。真名まながとっても長くって、えっと……なんだっけ、へへ」

「テネリア・ビクトーザと言います、ご覧の通り風の民です。僕は風の国ワーユフニムタリアの留学生でしたが出立しゅったつの儀で間違いがあったみたいで、気がついたらこの村の近くで目を覚ましてました。それからずっとここで暮らしています」


 青年はテネリア・ビクトーザの装束が他の者が着ているそれよりもずっと丁寧な仕立てであることに気付いていた。


「テネリアさん、君が着ている服、その胸元と袖口の刺繍こそ身分の証、それに真名が長いということは、もしや風の国ワーユフニムタリアの王族の方ですか?」

「ええ、お察しの通りです。でも名ばかりの末席でしたので留学で箔をつけるつもりだったのですがこんなことになってしまって……あ、でも今はここでの生活がとても気に入ってます」


 テネリア・ビクトーザが青年に右手を差し出すと、青年もそれを受けて右腕を伸ばして握手に応じる。そして姿勢を正して自己紹介を始めた。


「初めまして。私はロルカム・エパデール、ご覧の通り光の民です。水の国に留学して間もなくハルワタート王より政務官の拝命を受けて……」

「ロルカム君」


 彼の自己紹介に割って入ったのはオングリザ先生だった。


「野の民は村の周囲で行き倒れる者があればまずは受け入れてかくまってきた。理由は問わない。他種族でありながら名誉市民となり政務官を務めるに至ったほどの君ならばその事情も理由も理解できると思うのだが」


 そう言いながら手を差し出したオングリザ先生に同意を示すようにロルカム・エパデールも固い握手を交わした。



 テーブルの上にはまるで宴会が始まるかのようにたくさんの料理が並んでいた。小さな野の民の兄妹きょうだいの前には甘い蜜がたっぷりと入ったボウルと賽の目に切られた多彩なフルーツが盛られた皿があった。

 メインを飾るのは木製の大きなボウル、そこには幾種類もの野菜が木の実やフルーツとともに盛り付けられていた。その表面には乳を煮詰めて作ったカッテージチーズがそぼろのようにまぶされている。そのボウルの隣には穀物の粉を水で溶いて薄く焼き上げたものが何枚も重ねられていて、葱の香りが漂うスープが湯気を立てている鍋も置かれていた。


「これがこの村での食事だ。今日は君のためにひと通り並べてみたんだが、普段は主食の薄焼きと副菜がせいぜい一品の質素なものさ」


 確かに飾り気はないがどれもが新鮮で瑞々しく食欲をそそる。特にあの大鍋のスープが気になったが、しかしそれ以上に気になったのは鍋の向こうに見える小さな兄妹きょうだいの食事だった。するとロルカム・エパデールのその視線に気づいたジャヌビアが応える。


「ロルカムさん、僕たちの食事が気になりますか? 普段はそこいらの花の蜜や木の実をつまんでるんだけど、今日は特別です。でもこんな小さな身体からだですからせいぜいこれくらいしか食べないんです」


 間もなく野の民の二人を除く皆の前に熱いスープの椀が置かれた。それが全員に渡ったと見るとオングリザ先生が声を上げた。すると村の皆も声を揃えた。


"Xahdiハーディ xohrukimimalgidemホールキミマルギデム!"

(さあ、食べよう!)


"Dekuramuyukusデクラムユクス xohrukimimalホールキミマル!"

(いただきます!)




 食事が終わると風の民テネリアがお茶を用意する。それを前にしてオングリザ先生はロルカム・エパデールにあらためて質問を始めた。


「さて、今日はこのあと村の長である長老との謁見が控えているのだが、その前に君のことを聞かせて欲しい。さっきは詮索しないと言ったけれど君の場合はいささか事情が異なるようだ。もちろん話せる範囲で構わないのだが」


 ロルカム・エパデールの顔に緊張の色が浮かぶ。そんな彼にジャヌビアが助け舟を出した。


「ロルカムさん、心配は要りません。長老に紹介するのに必要最低限のことだけですから」


 その言葉に安心したロルカム・エパデールは故郷での留学に至るまでの経緯から水の国での顛末までを理路整然と語った。特に放逐される原因でもある制度改革を語る様はまるで大勢を前に演説でもしているような口調だった。


「なるほど、神はひとつ、か。まあ、そんな持論をあの国で主張しようものなら叩かれるのは当たり前だ。それはまさに光の国ディグシムタリアの国是そのものだし、水の神に殉じる水の民にとっては心中穏やかではなかったろう。それで放逐される前に先手を打ってここまで逃げてきたというわけか。それにしても、しかし……」


 オングリザ先生の次なる疑問を今度はジャヌビアが代弁する。


「僕の意見も先生と同じ、あなたがここにたどり着いたのは偶然とは思えないんです。むしろここを目指してきたと考えるのが妥当ではないかと」


 ロルカム・エパデールはオングリザ先生の目をまっすぐ見つめて質問した。


「先生、メトアナさんをご存じですよね、メトアナ・オングリザさんを」


 先生は一瞬だけ驚きの表情を見せるとすぐさまひと呼吸おいて答えた。


「いかにも彼女は私の妻だ」

「メトアナさんからの言伝ことづてです。私は元気です、と」

「そうか、それで君は彼女にここを目指すように言われたんだね」

「はい、南に行けば伝説の村がある、と」

「私はね、初めて君を見たときに私自身に似た何かを感じたんだ。なるほど、それで君の噂を耳にした我が妻メトアナが君を助けたわけだ」


 先生は野の民の兄妹きょうだいとともに小さく頷いて続けた。


「話はわかった。夕刻に長老の執務殿に案内しよう。その後はこの村でのんびり過ごすといい」


 傍らで話を聞いていたテネリアが冷めてしまったお茶を淹れなおそうと席を立ったとき、ロルカム・エパデールが声を上げた。


「先生、私は奥様を、メトアナさんを助けたい。ぜひ力を貸して欲しい」

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