第30話 風呂上りは夜風に

「あ――あ、ウルシャ、怒っちゃったし」

「ああなると厄介なんだよなぁ……って、おい、いったい誰のせいだと思ってんだよ」

「それってぇ、まるでルセフィが悪いみたいな言い方じゃないですかぁ」

「その通りじゃねぇか。いいか、犬でも猫でもな、新参者ってのは先住者を立てるもんなんだよ。なのにおまえはウルスを煽ってばっかじゃねぇか」

「だってだって、ウルシャだって、ルセフィのこと雑に扱うし、ご主人様までルセフィをそんな風に言うなんて……ルセフィは悲しいですぅ」

「とにかくオレはなんとかしてウルスを引っ張り出すから、おまえはちゃんと謝るんだ、いいな」

「かしこまり……で、すぅ……」


 やたらと大げさに落ち込んで見せる小さな妖精だが、きっとこいつは腹の中では屁とも思っていないに違いない。ウルスラグナが言うように現時点でこの妖精に心を許すのは時期尚早だろう。しかし孝太の気苦労なんぞどこ吹く風とルセフィが屈託のない笑顔とともに孝太の前に羽ばたいて出た。


「そんなことよりご主人様ぁ、お風呂、お風呂をお願いですぅ」


 やはりそうだ、コイツは絶対に反省なんかしちゃいねぇ。孝太は本当にボウルに湯を張ってやろうかと思った。


 ところで風呂と言えば着替えはどうするのだ。ウルスラグナのときはすぐに買い出しに出かけたが、この小さな身体からだに人間の服は無理だ。それこそ着せ替え人形の衣装でも買ってくるより方法はないのだろうか。


「おい、ところで風呂、風呂言ってるけどさ、これまではどうしてたんだよ」

「村では沐浴してたし、りつくんのところでは丸い器に温かいお湯をいれてもらってたし」

「丸い器って、洗面器か何かか?」

「だって、ルセフィはお部屋に引きこもってたし、仕方なかったっしょ」

「ってことは、ウルスが言ってた通りじゃねぇか。しょうがねぇな」


 やはりボウルで行水か。

 孝太は再び棚からボウルを取り出そうとすると、それを遮るようにルセフィが目の前で羽ばたいた。


「ご主人様ぁ、ルセフィはこの世界のお風呂に入ってみたいですぅ」

「風呂ったって、その身体からだでどうするんだよ」

「それなら心配要りません」


 ルセフィは少しばかり孝太と距離を置くと、その場で両腕を挙げて顔の前で交差させた。一瞬の閃光、そして孝太の視界が戻ったそこにはメイド服に身を包んだ幼女がドヤ顔で立っていた。


「なるほど。そう言えば御苑でも巨大化してたっけか。それはウルスが言う加護とか祝福ってのと同じなのか?」

「う――ん、そうとも言えるし言えなくもないしぃ……でも、とにかく今はお風呂が先ですぅ」

「わかった、わかった。とりあえず最低限の使い方を教えてやる」


 孝太は浴室に立ってルセフィに使い方を説明した。その間この小さな妖精は茶化すこともせずに真剣な眼差しで話に耳を傾けていた。


「……というわけだ。温度はウルスがちょうどいい具合にセッティングしてあるからあとはこのボタンを押して、この水栓をひねればシャワーが使える。出るときはその逆、栓を閉めてボタンをオフに、だ。わかったな?」

「は――い」

「とにかく、わからないことはオレに聞け。じゃあな」

「え――、ご主人様ぁ、行っちゃうんですかぁ? いっしょにいかがですか、お背中流すしぃ」

「ば、馬鹿言ってんじゃねぇ! いいからさっさと浴びちまえ」


 いくらなんでも幼女といっしょになんてあり得ねぇだろ、と顔を真っ赤にしてたじろぎながら孝太はリビングに戻ってソファーに身を沈めた。遠く聞こえるシャワーの水音、それに混じって異世界語イースラーの鼻歌が聞こえてくる。静まり返った部屋の中でそれは心地良い子守歌に思えた。

 疲れた。とにかく今日は疲れた。そんな思いにふける孝太の身体からだはあっという間に睡魔に呑み込まれる。そして孝太はすべてをそのままにしてソファーの上ですっかり寝入ってしまったのだった。



「ご主人様ぁ、ご主人様ぁ、起きてくださ――い」


 孝太がその声で目覚めたとき、目の前に立っていたのは一糸纏わぬ姿ではにかんだ笑顔を見せる幼女だった。ずぶ濡れの白い肌、濡れたままの髪は金色のウェーブを描きながら肩から胸の小さなふくらみまでを覆い隠していた。何より孝太を驚かせたのが背に広がる白い翼だった。その羽もまたびしょ濡れでしたたり落ちるしずくが床一面を濡らしていた。

 孝太の寝ぼけた頭が一気に覚醒した。


「ルセフィ、てめぇ、タオルはどうしたよ、タオルは!」

「ご主人様ぁ、お外に出るのはあそこですかぁ?」


 孝太の一喝に動じることもなく平然とベランダへのブラインドを指さすルセフィだったが、その態度が火に油を注ぐ結果になる。孝太は立ち上がると頭ごなしにルセフィを怒鳴りつけた。


「見てみろ、部屋が水浸しじゃねぇか。その上ベランダだぁ? 馬っ鹿野郎、こんな時間に幼女が素っ裸でベランダに出てみろ、それこそ通報案件だぜ」

「うぇ――ん、ご主人様ぁ、ちょっと怖いですぅ。ルセフィは髪とお羽を乾かしたいだけですぅ」


 そのときだった、孝太の部屋を仕切る引き戸が勢いよく開いた。そこに立っていたのは褐色の肌に白いタオルを纏った姿のウルスラグナだった。その顔は明らかに怒りに震えていた。


「こんな夜更けに何を騒いでいるのだ、騒々しい」

「ウルス、見てくれよこれを。ルセフィが風呂上りそのままで来やがって、おかげでこんな状態だぜ。なあ、おまえのあの加護だかでなんとかしてくれねぇか」

「断る。なぜこの私が野の民メイダンズルのためにそんなことをせねばならんのだ」

「まったく異世界人ってのは、どいつもこいつも……」


 呆れたため息をつきながら乾拭き用クリーナーを手にする孝太だったが、それを呼び止めたのはルセフィだった。


「ごめんなさい、ご主人様。ルセフィがなんとかします」

「よし、ならばおまえが掃除を……」


 孝太の言葉が終わる前にルセフィは姿勢を正すと両腕を広げて軽く目を閉じた。すると浴室から点々と床を濡らしていた水が白く輝きだした。続いてルセフィの全身を濡らす水もまた光を帯びる。それらは彼女の胸元に集まるとやがてぼんやりとした球体を形成した。

 ルセフィが両手で光の球を包むようにするとそれは徐々に圧縮されてソフトボールほどの大きさになる。ついに光は消えてそれは水の球体となった。

 ルセフィは孝太に「見てて、見てて」と人懐っこく微笑みかけると球体は不安定な張力で表面を振るわせながら漂うようにキッチンを目指す。そしてそのままシンクの上で弾けてすべては排水口へと吸い込まれていった。


「ルセフィ、今のはウルスが使う加護ってのと同じだよな」

「う――ん、そうとも言えるしぃ、そうじゃないとも言えるしぃ」

「そう言えば詠唱とかしなかったよな。ってことは野の民ならではの加護とか祝福とかなのか?」

「……の、ようなもの、かなぁ。とにかくこれをやるとルセフィは疲れちゃうんですぅ」


 そう言いながらルセフィは彼女本来の姿である小さな妖精に変化へんげした。しかしこれで一件落着とはいかなかった。ウルスラグナはまったく納得していなかったのだ。ルセフィが見せた一連の仕草を驚きの顔で見ていた彼女が事が済むやいなや小さな妖精に怒りに満ちた目を向ける。そしてついには指輪から現れた短剣を手にしてそれをルセフィに突き出した。


野の民メイダンズルが水の神の加護を受けることなどあり得ん。貴様、一体何をした。事と次第によっては生かしておくことはできん」


 ああ、また始まった。どうせ本当にこの場でこの小さな妖精を殺すなんてことはないのだ。それはわかりきったことではあるものの、しかしさすがにこうたびたびではさすがの孝太も辟易し始めていた。

 そして睨み合う二人を少しばかり冷めた口調でたしなめた。


「なあ、おまえら。どうでもいいけどさ、まずは服を着ろ、服を」

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