第9話 オマエはまだ生きている

「す、すまん、やられちまった……」


 孝太は首筋にナイフを突きたてられたまま蒼ざめた顔でそう言った。赤スウェットの男は前屈みの姿勢で孝太の髪を掴み上げながら、先ほどまでとは打って変わって強気の声を上げる。


「オラ、テメエら。さんざん好き勝手やってくれたよなぁ」


 途端にイキりまくる赤スウェットの様子を遠巻きにしながらウルスラグナは短剣を握る両腕を下ろすと呆れたようにため息をついた。

 一方、この状況ならば迂闊に攻撃して来ることはないだろうと踏んだリーダー格の男はゆっくり近づくと彼女が手にする短剣の刃先を手にした木刀の切先きっさきでコンコンとつつきながら勝ち誇ったように余裕の表情で軽口をたたく。


「オッケ――、オッケ――、素直がイチバン。そのままソイツを捨てちゃいなYo」


 男はそう言うと、今度は切先をウルスラグナの右腕、その上腕から肩へとなぞるように這わせていく。そして遂には肩から右胸へと移動すると、そこでじらすように渦を描く動きを経て、遂にはパーカーの下に隠れた豊かな乳房をもてあそぶようにグイグイと突き上げ始めた。


「おいしそうネ、これ。ひょっとして着やせなんかしちゃうタイプ?」


 抵抗されないことをいいことに男はニヤケ顔でさらに続ける。


「Yo――、あんな彼氏よりもオレらとの方がよっぽど楽しめると思うケド……」


 そのときウルスラグナの肩がピクリと震え、それと同時にとび色の瞳に殺気が走った。

 男の言葉が終わらぬうちにウルスラグナの右腕が木刀を払いけると、間髪入れずに左ストレートを横っ面に一発、続いて木刀を握るその手の甲に短剣の柄を振り下ろす。


「ガッ!」


 突然の反撃と激痛に耐えかねて声を上げる男。手にしていた木刀が乾いた音を鳴らしながらアスファルトの上を転がる。そしてついに丸腰となった男の鳩尾みぞおちにウルスラグナはためらうことなくかかと蹴りを打ち込んだ。


 その強烈な蹴りで飛ばされた男が下腹部を押さえてうずくまるのを見てとると、今度は孝太にナイフを突きつけている赤スウェットを睨みつける。ウルスラグナのその顔は孝太もビビるほどの激しい怒りに満ちていた。


「お、おい女ぁ――、これが見えねぇか! マジだぞ、マジでるゾ!」


 及び腰になりながらも声を張り上げる赤スウェット、ウルスラグナはその顔を睨みつけたまま右手の短剣をスッと振り上げた。


「うっ、動くなって言ってんだろ。マジだゾ、コラァ!」


 ウルスラグナは孝太の顔に視線を移すと目配せのつもりで軽い笑みを浮かべた。しかし孝太にはその笑みの意味がまるでわからず、きっとこの窮地を楽しんでいるのだろうくらいにしか思えなかった。

 右腕を高く挙げるウルスラグナの顔から笑みが消える。同時に赤スウェット目掛けて掲げた短剣を勢いよく振り下ろす。するとその瞬間、短剣の刃先は一直線の水しぶきに変化へんげして男の顔を直撃した。

 突然の高圧水流、それを顔面でまとも受けた赤スウェットはわけもわからず動揺する。瞬時に駆け寄るウルスラグナ。男はあたふたと水をぬぐって顔を上げる。そして彼が最後に見た光景は、目の前に迫りくる彼女の鉄拳だった。



「コータ、無事か!」

「ああ、大丈夫だ。水浴びにはちょっと時期が早いけどな。てか、なんで水?」

「オレは水の民だからな。ま、詳しい説明は追い追い、だ」


 ウルスラグナは孝太に向けて自信に満ちた笑顔を見せた。孝太も地べたに座ったまま濡れた髪を掻き上げて笑う。そして二人のすぐ脇には上半身ズブ濡れとなった赤スウェットが気を失って倒れていた。


 大立ち回りを目の前にしてますますどよめく野次馬たち。何人かの若い女性たちはまるでアイドルを見るかのような目をウルスラグナに向けている。その中に水しぶきのとばっちりを受けたのだろう、スカートの裾を濡らした女性がいた。


「服を濡らしてしまったね」


 ウルスラグナはその女性の前に立つと片膝をついてうやうやしく頭を下げた。


"Zamuhsiuknamザムーシュクナム."

(申し訳ない)


 そして頭を上げて立ち上がると、女性に向けて両手をかざした。そして異世界語で何やらつぶやくと濡れた部分にほのかな光が浮かぶ。やがてその光は女性の服からふわりと離れるとウルスラグナの前に引き寄せられ、彼女が手にする短剣の刃を包みこんでついには刃の中に吸い込まれるように消えてしまった。

 女性は驚きを隠せないまま、すっかり乾いたブラウスやスカートの裾を手で触って確かめていた。


「さあ、これで大丈夫」

「信じられない……あ、ありがとうございます」

「まだ一人残ってる。危ないから下がっててくれ」

「は、はい……あの……お気をつけください。がんばってください」


 顔を赤らめながらウルスラグナを見る女性のその目はまさに憧れの君に向ける眼差しそのものだった。

 ウルスラグナはそんな女性に笑みで応えた。


"Dekuramデクラム nahzasナーザス. Guruhliyatosグルーリヤトス nahzasナーザス."

(ありがとう。祝福を君に)


 彼女が話すイースラー異世界語を孝太はまだ理解できない。しかしその雰囲気からなんとなく言わんとしていることを理解できたような気がした。


「あいつ、しっかりイイとこ取りしやがって。なかなかオトコマエじゃねぇか」



 一方、ウルスラグナの蹴りをまともに喰らってうずくまっていたリーダー格の男はよろよろと車に向かって歩き出すと後部座席からもう一本の木刀を手にして戻ってきた。おぼつかない足取りでウルスラグナの前方数メートルのあたりまでやって来るとこちらを指しながら怒鳴り声を上げた。


「女ぁ――! オレらもこのままじゃ引っ込みがつかねぇんだYo!」

「おい、ヤバいぞ。あれは木刀なんかじゃねぇ、おそらく日本刀だ」


 孝太は男の手に握られた白鞘を見てそう叫んだ。

 衆人環視の中でためらうことなく白鞘を抜く男。深夜のマーケットを照らす光の中で十分に手入れされた刀身が鈍く輝く。それを見た野次馬たちが今まで以上に大きくどよめいた。


「オラァ、かかってこいや、テメエのその得物えものでYo!」


 人ごみの中から警察だの救急車を呼べだのと声が上がると同時に、あちこちからフラッシュの光が飛び、シャッター音も聞こえていた。


 男は刀を抜くとその場に鞘を投げ捨てる。カラコロと響く音、それを合図にウルスラグナは男に駆け寄る、が、まばたき一瞬、その身体からだは電光石火の速さで男の懐に入り込んでいた。

 しかし男も負けていなかった。素軽いフットワークですぐに間合いを取ると短剣を握るその手を狙う。男は小手先を数発狙いつつ相手に隙ができるのを待つ。ウルスラグナも男の切っ先を短剣でかわしながら機会を伺う。こうして刃と刃がぶつかりあう音だけが静まり返る群衆の中で響いていた。


「うらぁ――――!」


 一瞬の隙を見切った男が気合とともにウルスラグナの喉笛に向かって鋭い突きを入れる。瞬時に半歩下がりながらその攻撃を二本の短剣を交差させて器用に受け止めるウルスラグナ。

 二人の動きがピタリと止まりここからは力と力の勝負になる。しかし力強さではウルスラグナの方がはるかに上だった。彼女は刀を受ける短剣を握る手に力を込めながらジリジリと男に近づいていく。それに伴って男の刃も上へ上へと押し戻されていく。刃先に気を取られる男だったが、既に彼女が繰り出す蹴り技の射程圏内に入っていることにまったく気づいていなかった。

 男の目を見て冷たく微笑むウルスラグナ、その不敵な笑みの意味に男が気づいたときには重たいトーキックが男の股間にめり込んでいた。


「が……はっ……ハァ、ハァ……」


 腹の底から絞り出すような呻き声を上げながら股間を押さえる男、その目には涙が滲み、口からは激しい息遣いとともによだれが垂れ落ちていた。

 ウルスラグナは男の股間から足を離すと、その足で男が握る刀を蹴り飛ばした。アスファルトの上を転がる日本刀、主を失ったその刀から輝きはすっかり消え失せ、今はただの物騒な刃物となっていた。

 男はクシャクシャになった顔で何かを言おうとしている。しかしウルスラグナはそれに構うことなく頭にかぶったパーカーのフードを脱ぐと、続いてフロントのジッパーをヘソのあたりまで下ろした。純白の薄い布に包まれた豊かな胸に男の目は釘付けになる。

 ウルスラグナは躊躇することなく男の髪を引っ掴むと自分の胸元にグイっと寄せ付けた。あまりの力によろめき倒れかける男。その首に腕をかけるとそのまま力任せに引き倒す。そして片膝をつき、もう一方の脚で男の身体からだを支えるように横たわらせると、そのまま男の首を締め上げた。

 最早反撃の意思も消え去った男の顔をウルスラグナは自分の胸元に押し付けた。男の頬が豊かな乳房に包まれる。


「ご褒美だ。これが欲しかったんだろ?」


 そう微笑みかけると、男も諦めたような薄ら笑いとともにかすれた声を絞り出す。


「へへっ、イっちゃいそうだYo……」


 息も絶え絶えな男の耳元でウルスラグナはやさしげに囁く。


"Siohmunemショームネム dahlumuyuksダールムユクス."

(おやすみ、よい夢を)


 そして表情ひとつ変えずにためらうことなく男を締め上げる腕に上半身の体重を載せた。


「グッ……ウピッ」


 男のノドから断末魔のノイズが吐き出される。そしてウルスラグナは男の頭を膝から下ろすとアスファルトの上にそっと静かに横たわらせた。


「安心しろ、オマエはまだ生きている」


 既に意識がなくなっている男に向かって日本語でそうつぶやくと、立ち上がって手にした短剣を胸の前で構える。すると二つの刃は光の粒となって霧散し、握られていた柄もすっかり消えて、後には鈍い光を放つ指輪だけが残っていた。


 ウルスラグナはパーカーのファスナーを首元まで上げると服に付いた砂ぼこりを払う。そして倒れているリーダー格の男を顧みることなく、フードを被りなおしながら孝太のところに戻ってきた。


「ちょっとやり過ぎちまったかな」

「やっちまったもんはしょうがねぇだろ。とにかくさっさと退散だ」

「そうだな。それにしても……」


 より一層のざわめきに混じって驚嘆と称賛の声が上がる中、ウルスラグナは野次馬たちを見渡すと、まだヘタり込んでいる孝太に手を差し伸べる。


「コータもひどくやられたな。どうだ、立てるか?」

「……ッ痛っ、右腕が上がらねぇ。まいったぜ」

「よし、まずはコータの手当てからだな」


 そう言ってウルスラグナは孝太の前に片膝をついてしゃがみこむと、着ている黒いタートルネックセーターの裾を少したくし上げて、その中に掌を滑り込ませるのだった。

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