第24話 賽葉先生の事務所前で
私は賽葉先生の仕事部屋から、頼まれた書類を渡すために賽葉先生の事務所へと向かっていた。
賽葉先生の事務所はうちの事務所の上の階にあるため、五分もかからずに行ける。
ちょうどやって来たエレベーターに乗り、賽葉先生の事務所があるフロアへ到着。
私がエレベーターを降りると、視界の端に賽葉先生の事務所前で立っている男性を捉えてしまう。
彼は人形のように微動にもせず。
――相談に来たお客様かな?
もしかしたら、事務所に入りにくいのかもしれない。
私は数えきれないほど賽葉先生の事務所を訪れたことがあるし、賽葉先生をはじめとしたと事務所の人達とも面識があるから思わないけど、初めてだったら緊張してしまうかも。
私も事務所に用事があるから、声を掛けようとあまり深く考えずに男性に近づき距離を詰めれば、男性の顔がはっきりとわかるように。
私はその人物が誰かを認識した瞬間、目を大きく見開いてしまう。
「どうしてここに……?」
つい声を漏らしながら立ち止ってしまった。
だって、それはワンピースを着ている女性の霊に憑かれている人・緑川武史さんだったからだ。
でも、不思議な事にあんなに強烈に存在を誇示していた幽霊がいない。
彼一人のようだ。
なぜ彼女はいないのだろうか?
もしかして、お祓いでも受けたのだろうか。
幽霊の件はすごく疑問に思ったが、今は仕事中なので彼に声をかけることに。
他事務所のお客様とはいえ、さすがに放置というわけにはいかないし。
「賽葉先生の事務所に御用の方ですか?」
私が声をかければ、彼は大きく体を動かしたかと思えば、すぐに身を固くしてしまう。
肢体を戦慄かせ、おそるおそる私の方へと顔を向ける。
そして、潤んだ瞳で私の姿を確認すると脱力しその場にしゃがみ込んでしまった。
「すみません! 驚かせてしまいましたか?」
「いえ……違うんです……後を着けられたかと思ったんです……」
――後を着けられる?
一体、誰にだろうか。
「大丈夫ですか? 少し休んだ方が良いかもしれません。顔が真っ青ですし」
「大丈夫です。ちょっとびっくりしただけですから」
彼がワイシャツのボタンを二・三個外したため、鎖骨部分がちらりと見えてしまって驚く。
鎖骨が見えた事に意識を向けてしまったのではなく、鎖骨部分にあったものを見てしまったせいだ。
――真新しい痣だ。
もしかして転んでぶつけてしまったのかもしれない。
でも、私はさっきの彼の態度が引っ掛かっていた。
後を着けられたかと思った台詞、それからやたらとビクついていたこと。しかも、訪れたのが弁護士事務所だ。
「私、賽葉先生の所に書類を届けに来たんです。良かったら、一緒に行きましょうか?」
「いえ。僕は帰ります。予約も取っていませんし」
「予定を組んでくれるかもしれませんので、お話をしてみるだけでも……」
「大丈夫です。問題ないので」
緑川さんは自分の手首を掴むと俯いたが、震えは止まらず。
全然大丈夫ではない。
だが、本人の意志関係なく無理やり賽葉先生の所に連れていくわけにはいかない。
私は鞄から名刺入れを取り出すと、緑川さんへと差し出した。
「私、この下にある賽奈司法書士事務所の補助者で佐久間紬と申します」
「司法書士……?」
「はい。もし何かお困りごとがありましたらご連絡下さい。当事務所の司法書士・賽奈は賽葉先生の妹なんです。ですので、時々連携して事件を解決する時もあるんですよ」
「姉妹で弁護士と司法書士ですか」
「えぇ。美人姉妹としてこの辺りでは有名なんです」
「美人は……」
彼は唇を噛みしめると、ぎゅっと自分の体を抱き締めた。
「何かあれば連絡下さい。業務用の携帯番号も書かれていますので」
私が差し出している名刺を緑川さんが震える手で受け取る。
「あ、ありがとうございます……」
彼は受け取った名刺をじっと見ていたがやがて鞄へとしまい、私へと軽く会釈をすると、エレベーターへと乗り込んでいく。
そんな彼の背に私は叫んだ。
「先生達はクライアントの立場に立って仕事をしてくれます。ですから一人で抱えないで下さいね!」
私が言い終わると同時にエレベーターは閉まってしまう。
聞こえているのかわからない。でも、どうか彼の耳に届いていて欲しかった。
賽葉先生の事務所前での騒動の後。
私はすぐに賽葉先生の事務所を訪れていた。
顔馴染みの賽葉事務所の経理担当の美千留さんに案内され、私は応接室でテーブル越しに賽葉先生と顔を合せている。
賽葉先生の手には私が渡した封筒が。
私はついさっき起こった出来事を話せば、賽葉先生は静かに聞いていた。
「そう……そんなことがあったの」
私が話し終えると賽葉先生はゆっくりと息を吐き出す。
「はい」
私は腕を伸ばしてテーブル上に置いてある麦茶が入ったグラスを取れば、カランカランという氷がぶつかり合う音が聞こえ、ひんやりとした感触が掌に伝う。
グラスにはコースターが敷かれていたんだけど、コースターが狐柄でかわいい。
「外のことまで気づかなかったわ。名刺渡すという選択をしたのは正解よ、紬ちゃん」
「賽葉先生の事務所に上手に誘えればよかったのですが……本人の意志関係なく強制的に事務所へ連れて来るわけにはいきませんでした」
「そうなのよね。私達は委任関係を結んで動けるから」
頬に手を当てて先生は溜息を吐き出す。
「実は気になることが他にも。いつも彼に憑いている霊がいなかったんです。私が視えないだけなのかもしれませんが」
「紬ちゃんが視えなかったならいないと思うわ。可能性は三つ。一つは狐町に立ち入ることが出来なかった」
「この間聞きました。九尾の狐が狐町を守っているって」
「そう。狐の力で邪悪なものは立ち入ることが出来ない結界を貼ってある」
「二つめはなんですか?」
「お祓いを受けて彼から離れた。または、自発的に彼から離れた。三つめは、男性に憑りついているのではなく、男性が所有している物に憑りついている可能性」
「どういう事ですか……?」
「物に宿っている霊体もいるの。ほら、髪が伸びる日本人形とか聞いたことないかしら?」
「あります。人形に魂が宿ったとかですよね。子供の頃に見たことがあります」
私の脳裏に黒髪の日本人形が浮かぶ。
小学生の頃に神見神社でみたことがあるんだけれども、髪の一部が完全に床にくっついてしまっているくらいまで伸びていた。
しかも、夜中に勝手に動くらしい。
「えぇ、そうよ。人の形をしたモノに魂は宿りやすいけれども、他のモノにも憑くことは出来る。生前愛着のあった着物とかね」
「モノに宿る……」
なぜか急に瑠璃色のペンを思い出す。
そういえば、ワンピースの霊を見た時は必ず制服の胸ポケットにペンがあった。
すごく綺麗な色だったから、強く印象を受けている。
「凄く痣が気になるわ」
「霊ですか?」
「いえ、今回の件は人間の可能性が大ね。霊ならここに来ないわ。神社などのお祓いを受けるはずよ」
「では、誰かに暴力を振るわれたということですか?」
「えぇ、その可能性はあるわ。お付き合いしている彼女とかね」
「女性が男性にですか?」
「DVは男性から女性へという印象があるけれども、加害者が女性の場合も多いの」
「彼女の三浦さんを見ましたが、そんな風には見えませんでした。賽葉先生達の様に仕事ができる美女でしたし」
私がパン屋さんで会った彼女は、彼氏のためにパンを買ったり、彼氏が仕事をしているのを見てはにかんだり。
とても好印象を持つ女性だった。
「紬ちゃん」
先生は私の名を低い声で呼ぶ。
「このお仕事を何年やっているの?」
「もうすぐ補助者証切り替えなので、五年になります」
「だったら知っているでしょ? 人間の根本的な部分は見た目だけでは判断できないということを。男女関係も同じよ。お客様も見た目で判断するなって言われたでしょ?」
「……そ、それは。債務整理の時に」
確かにそうだ。
司法書士の仕事に債務整理というものがある。
簡単に言えば、任意整理、民事再生、自己破産など…借金の整理のことだ。
これをすることにより、借金の減額や月々の支払額を減らせることなどが可能になる。
勿論、メリットばかりではなくデメリットもあるので、そういうのは司法書士から説明があるはずだ。
一時期、CMで過払い金が~というのをやっていたが、あれもこの中に入る。
債務整理の中でも司法書士が代理人として交渉できるものとできないものがあり、破産などは無理。
自己破産は代理人にはなれないが書類作成の代理は可能。
自分で破産の申請をすることは可能だけれども、書類が難しいという方や弁護士費用が……という方が司法書士に書類の作成を依頼する場合が多い。
いかにも見た目が真面目そうな人や仕事が出来そうな人なのに、実際は浪費のせいで借金漬けというのもあった。
大人しそうな人に重大な嘘をつかれ、書類をやり直しという時もあった。
「紬ちゃんが名刺を渡したから、何かあれば電話をくれることを願うしかないわ。必要ならば警察との連携も考えなければ。私や賽奈に相談したいと連絡があったら、遠慮せず夜間でも休日でも構わないから電話してね」
「はい」
私は大きく頷く。
何も出来なかった自分が歯がゆくて、静かに唇を噛みしめた。
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