第56話 圧迫と表明と

「春輝しゃんっ!」

「ん……?」


 リビングで小説を読んでいた春輝は、伊織の声に顔を上げる。


「しゅ、少し、お話がありゅのですがっ!」


 すると、真剣な表情の伊織と目が合った。


(……久々に、ちゃんと目が合った気がするな)


 何とは無しに、そんなことを思う。


「いいよ。何かな?」


 ともあれ。

 何やら伊織は非常に緊張している様子なので、極力穏やかな声色を意識して答えた。


「はい、実は……」


 引き続き緊張の面持ちで、伊織は春輝の方に歩いてくる。手を足が一緒に出ていた。


(そんなに緊張するほどの話なのか……?)


 どんな話が来ても動揺しないよう、心構えを整える春輝……で、あったが。


「きゃっ!?」


 春輝のところまで残り三歩程度のところで、伊織が自分の足に躓いて。


「わぷっ!?」


 春輝の方に倒れ込んできたため、整えた心構えはたちまち台無しになった。


 とはいえ、彼女のテンパりにも慣れたもの。

 胸元に飛び込んでくるくらいなら、今の春輝であればそれなりに余裕を持って受け止めることが出来たろう。

 けれど……のだから、動揺するなというなというのも無理な話であろう。

 ふにょんと柔らかい感触が顔全体に伝わってきたので、尚更である。


(だから、なんでねぇの!? 家では付けない派なのか!?)


 こんなことを思うのも、何度目のことであろうか。


(って、駄目だ……! 別のことを考えろ……! えーとえーと……そうだっ!)


 『家族』に対して妙なことを考えないよう、瞬時に思案。


(3.14159265358979323846264338327950288419716939937510582097494459230781640628620899862803482534211706798214808651 3282306647093844609550582231725359408128……)


 頭の中で円周率を唱えることによって、事なきを得る。

 なお、『π』から連想している時点で本当に事なきを得ているのかは微妙なところであった。


「あ、あの、春輝さん……」


 ドクンドクンと、伊織の高まった心音がダイレクトに伝わってくる。


 本当であれば即座に離脱すべき場面であるとわかってはいたが、なぜか伊織がガッチリと春輝の頭をホールドしているためにそれも叶わなかった。


「な、何かな……?」


 仕方なくその状態のまま返事すると、モゴモゴと声がくぐもって。


「ひゃんっ!?」


 声の振動が変に伝わってしまったのか、伊織がどこか艶っぽい声をあげる。


「っ、ごめん!」

「ひあぁん!?」


 反射的に謝ると、そのせいでまた伊織から似たような声が上がった。


「す、すみません、変な声を出してしまいまして……!」

「いや、こちらこそ……」


 極力触れないよう意識しながら、今度はどうにか口の前に空間を確保して返事する。


「それで、お話というのはですね……」

「えっ……!?」


 そのまま話し始めようとする伊織に、思わず驚きの声が漏れた。


「えっと……その前に、まず離れた方が良くないかな……?」


 どうやらまたテンパってわけがわからなくなっているらしいと、苦笑気味に提案する。


「いえ、出来ればここままで話したいんですけど……」

「えっ……? このままって……」


 しかし思ったより伊織の声は冷静で、それが逆に春輝を困惑させた。


「この、ままで?」


 戸惑いを、そのまま声に乗せる。


「はい、このままで」

「このままで!?」


 再度確認しても翻ることなく、驚愕が口を衝いて出た。


「その、なんていうか、お顔を見てしまうと恥ずかしくて決意が鈍りそうなので……」

「えぇ……?」


 聞けば聞くほど、困惑が加速する。


(どう考えても、この体勢のままの方が恥ずかしくないか……!?)


 そう思いはしたものの……一つ、深呼吸。


(うっ……なんか、凄く良い匂いが……)


 落ち着くための行動だったはずが、むしろ動揺が拡大した。


(えーい、しっかりしろ俺……! 伊織ちゃんが真面目な感じで話をしにきてるんだ、大人としてしっかり聞いてやらないでどうする……!)


 大人としてこの体勢はどうかと思う気持ちを、無理矢理に押さえつける。


「……わかった、聞くよ」


 どうにか、冷静に聞こえるような声で返すことが出来た。


「ありがとうございます」


 ふにょん。

 頭を下げたのだろうか。

 柔らかい感触が、また更に押し付けられた。


「私、肝心なところでヘタレるというか逃げちゃうところがありまして……」

「そう……なの?」


 聞くそばから話が半分以上頭から抜けていきそうになるのを、どうにか繋ぎ止めながら返事する。

 いずれにせよ、何の話なのかはイマイチわからなかったが。


「春輝さんにも、ご迷惑をかけてると思います」

「ん? いや別に、そんなことはないけど」


 変わらず何の話かはわからないけれど、それだけは断言出来た。


「ふふっ……ありがとうございます」


 笑ったおかげか、伊織の声から少しだけ緊張感が薄まった気がする。


「だけど、今回もやっぱり逃げちゃって……私自身、いつものことだからってあんまり深くは考えてなかったんですけど。でも、妹たちに指摘されて気付いたんです」


 伊織自身上手く纏められていないのか、やや雑多な印象を受ける話し方だった。


「私、お姉ちゃんだから……やっぱり、あんまり妹に格好悪いところは見せられないかなって。見せたくないな、って。そう、思いまして」


 春輝からは顔が見えないため、彼女がどんな表情をしているのかはわからない。


「だから……」


 ただ声の印象からは、どことなく力強さが感じられる気がした。


「私、頑張りますねっ!」


 そう言うと共に、最後にギュッと一際強く春輝の頭を抱きしめて。


「以上、ですっ!」


 ようやく、離れていった。


「えっ、と……?」


 結局何の話だったのか、春輝には全くわからない。


「まぁ、その、アレだ……頑張るのはいいことだけど、無理はしないようにね?」


 ゆえに、コメントもそんなフワッとしたものしか思いつかなかった。


「ありがとうございます……でも」


 小さく微笑む、伊織。


「この件だけは、無理したい気分なんですっ」


 その表情は、リビングに来た時よりも随分とスッキリしたものであるように思えた。



   ◆   ◆   ◆



「……ふぅ」


 リビングを出て、伊織は小さく息を吐き出す。


 何のことだかよくわからない、といった顔をしていた春輝には申し訳なく思いつつも……伊織としては、大事を成し遂げた気分であった。


「お姉……」

「イオ姉……」


 恐らくは、見守っていてくれたのだろう。


 リビングを出たところには、露華と白亜が立っていた。


「ありがとね……二人共。おかげで、私もなんだか吹っ切れた気分」


 背中を押してくれた妹たちに、笑顔で礼を言う。


 が、しかし。


「いや……やりすぎだよ、お姉」

「……えっ?」


「イオ姉はただでさえ存在が十八禁に近いんだから、ちゃんと自重すべき」

「存在が十八禁に近いってどういう概念なの!?」


 二人はドン引きの表情で、伊織はちょっとショックを受けるのであった。

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