第21話 消失と残存と

 露華のお風呂突撃、そして伊織の酔っぱらい騒動から、一夜明けて。


「おはようございます、春輝さんっ!」


 キッチンに顔を出すと、伊織が笑顔で迎えてくれた。

 その可憐な笑みはいつもと全く変わらないもので、昨晩のことがまるで幻だったかのようだ。


「あぁ。おはよう、伊織」


 とはいえ幻でないことは他ならぬ春輝が一番実感しているため、そう挨拶を返す。


「………………ふぇっ!?」


 すると、しばらくフリーズした後に伊織が驚きの声を上げた。


「あ、あのあのあのあの、春輝さん、今、私のことを、何と……!?」


 あわあわと動揺を見せる彼女に、春輝は状況を察する。


(記憶が飛ぶタイプか……)


 どうやら今の彼女の脳内には、本当に昨晩の一件は存在していないようだ。


「あー……その、あれだ。ずっと、君だけ『小桜さん』って呼んでただろ? でも、それじゃちょっと他人行儀かなって思ってさ。呼び方を変えてみることにしたんだ」


 封じられた記憶を呼び起こすこともあるまいと、今思いついたことのように話す。


「嫌なら、これまで通り……」

「いえ全然嫌ではないのでそれでお願いします是非とも!」


 だいぶ被せ気味に、伊織は早口で言い切った。


「そっか。じゃあ今後は名前で呼ぶことにするよ、伊織ちゃん」

「……あれ?」


 笑顔で返すと、伊織はどこか拍子抜けしたような表情となる。


「なんだか、さっきと少し違うような……?」

「いや、気のせいだよ伊織ちゃん。寸分の違いもなく一緒だよ伊織ちゃん」


 実は呼び捨ては結構恥ずかしかったので、これで押し切ることにした春輝であった。


「そ、そうですか……」


 笑顔を微塵も崩さないままの春輝に、伊織も受け入れてくれたようである。


「ふふっ。でも、呼び方が変わるだけでなんだか新鮮ですね」


 それから、嬉しそうに笑った。


「おはよー、お姉……」


 とそこで、あくび混じりの露華がキッチンに入ってくる。


「あぁ、春輝クンも………………っ!?」


 春輝の顔を見た瞬間、寝ぼけ眼だった露華の目がカッと見開かれた。


「は、春輝キュンも、おは、おはにゃ、その、おは的なアレ……」


 もにょもにょと呟きながら、真っ赤に染まった顔を逸らす。


 伊織とは対照的に、どうやら露華は昨晩のことを引きずりまくっているらしい。


「うふふ、露華ったら。あんまり春輝さんのことを避けるような真似しちゃだめよ?」


 昨晩とは打って変わって、聖母のような笑みで伊織が露華を窘めた。


「べ、別に避けてにゃーし!」


 それに対して、露華が赤い顔のままでにゃーと吠える。


 そんな中で、最後に白亜がキッチンに顔を出し。


「……何、この空気」


 入ってくるなり、いつかと同じ言葉を口にした。


 春輝としても、全くの同感であった。

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