第7話(9)
バスの中は、独自に改装されたものらしく、車内の途中にドアがあった。
開けて奥に入ると、衣装や小道具に始まる、色々の物が置かれた倉庫のようになっていて、綾であれば、余裕で着替えられる広さがあった。
「……」
備え付けられたロッカーを、綾はじっと見つめる。
ヴー…ヴー…
不意に、ポケットの中で携帯が震えた。
取り出して、画面を数秒眺めると、携帯を握りしめる。
「……ふぅ」
両目を閉じて、ため息をつく彼女は、何かを決心したように見えた。
彼女の右手がロッカーを開けた、丁度、その時──
ノックもなく、バスのドアが開いた。
綾は、サッとそちらを振り向く。
「おう」
入ってきたのは──中年太りの男だった。
「昨日は突然逃げ出したから、もう帰って来ないもんだと思ってたぜ」
言いながら、後ろ手にドアを閉め、窓のカーテンを閉じて行き、外界とバス内を隔て始める男。
窓際で、カチリ…と鳴る微かな音が、施錠を知らせる。
綾は押し黙ったまま、パッと逃げるように、彼に背を向けて、ロッカーの中をゴソゴソいじっていた。
まるで、焦っているのを誤魔化しているようにも見える。
「……」
しばらく、車内に沈黙が続き、聞こえるのは、綾が荷物に触れる音だけだった。
「……答えは出たのか?」
「……!」
男がおもむろに切り出す。
綾の手が止まった。
「いまさら忘れたわけじゃないよな?」
ニヤリと男が笑う。
外と遮断された薄暗いこの部屋の中では、男の振る舞いは普段と明らかに違う。
いつもは気だるそうな目も、今は陰湿な光を宿している。
なおも沈黙して、綾はロッカーと向き合っていた。
「そうか、そうか…──」
無視され続けて、激昂するのかと思いきや、男はフンと鼻を鳴らして笑った。
次の瞬間──
ガタン!!
大きな音がして、バスが少しだけ揺れた。
男は背後から綾に詰め寄り、彼女をロッカーに抑えつけた。
「忘れたのなら、思い出させてやろう」
ドスの利いた低い声で、男が囁く。
「おれに『いい思い』をさせてくれりゃあ、次の企画、主役でお前を採るぞ」
「……」
綾は何も言わない。
恐怖からか、きゅっと、その口を噤んでいる。
俯いて、垂れ下がった前髪が目を覆っているため、目線はどこを見ているのかもわからない。
「大丈夫、おまえら『女優』ってぇのは、少なからず、
下衆な笑みを浮かべて、男の目が綾の身体を足の先から上へと眺める。
「──おれはお前が雑誌に載ってた時から、目ェ付けてたんだよ。 あんなカッコを進んでするくらいだ。 今更、どってことねぇだろ」
なおも沈黙する綾。
男は強引に彼女の腕を引き、無理矢理に自分の方を向かせた。
「わかるだろ? これもオシゴトなんだよ。 オ、シ、ゴ、ト」
男は綾に言い聞かせるように、一言ずつ区切って言い、強引に彼女の顎を掴んだ。
「さぁ──、おまえは一体、どんな『味』がするんだ?」
もう一方の男の手が、綾の下腹部に伸びる──
刹那──
バシッ!!
乾いた音がした。
男には、それしかわからなかった。
「ん?」
少しして、自分の手を彼女が、片方の手で捕らえていることに気づく。
突然のことに、綾の顔を見てみると──
「ひっ……!」
思わず、口から小さな悲鳴が漏れた。
後ずさりして、彼女から離れる。
しかし、依然として、綾は男の腕を掴んでいるため、離れられない。
彼女は、今まで見せたことのない怒りの表情で、ギリギリと男の手首を絞めあげていた。
「ぐ…ぎ…ぎぎ…」
込められた彼女の力に、呻き声をあげる。
あまりの強さに、掌が勝手に開いていく。
──瞬間…
綾が疾風のように動いた。
男の鼻先を、一本に纏められた彼女の長髪が掠める。
ドズンッッ!!
重く、大きな音が響く。
視界から彼女が消えた──と思った途端、男の身体はフッと宙に浮き、頭からバスの床に激突した。
「あが…が……!」
倒れた男の視界がチカチカと明滅する。
綾は、男の腕を掴んだまま、彼の脇の下に潜り込み、足首を踏みつけ、そこを基点として体勢を崩させると、その小さな身体に乗せて、巧みに男を投げ飛ばしていた。
「ったく…」
そう呟いて、綾は嫌悪の眼差しで、男を見下ろす。
「て、てめぇ……どういうつもりだ?!」
床にぶつけた額を押さえて、男が起きあがった。
綾は呆れたように、肩の高さで手を広げ、
「どうもこうも、わかるでしょ。 答えは『ノー』」
まるで別人のような、聞いたこともない口調で言った。
男は困惑していた。
彼女の三倍近い体重のある自分が、まるで綿布団のように、容易くひっくり返されたことも、その困惑を加速させた。
そして、それは次第に、怒りへと変わっていく。
「小娘のくせしやがってぇ……!」
拒絶された屈辱と、軽くあしらわれた恥が、燃料のように燃え上がる。
「おとなしく、食われりゃいいんだよ!バカ女ァ!!」
力で捩じ伏せようと、男が怒声とともに両手を広げ、襲いかかった。
狭いバスの中では、綾に逃げ場はない。
男の魔手が彼女へ伸びる────
しかし……
彼女に触れる、その直前で、綾の身体はフワリと浮き上がった。
風に踊る木の葉のように軽く舞い上がると、ぐるりと腰を回し、遠心力を上乗せした右脚で、男の側頭部を思い切り蹴り抜く。
バキャッ!!!
打撃音の後、男の巨体が壁に掛けられている、大量の衣装に突っ込んだ。
綾はストッと着地し、息ひとつ乱さずに、男の飛んで行った方を眺めた。
「わ、わかってん……だろうな……」
衣装の山の中で、顔を真っ赤にした男が呻く。
「終わりだ!……今回の仕事も、何もかも! てめェの人生、おれが無茶苦茶にしてやる。あらゆるコネを使って、今後一切の──」
まだ言い終わらないうちに、彼は胸倉を掴まれ、押し黙った。
「こんなクソ仕事、こっちから願い下げだ。 でも、アタシが降りた後、アンタ他の人になんて説明するつもりなワケ?」
「そんなもん、どうとでもなるんだよ! それに、代わりなんて、掃いて捨てるほどいるんだからな!!」
苦し紛れに、ニヤリと笑う男。
綾は男の胸倉から手を放して、開けっ放しになっているロッカーから、何かを持ってきた。
「そらよ」
持ってきたのは、スマートフォンだった。
男に向かって、画面を突きつける。
そこには、綾に詰め寄る男の顔が、真っ正面から映っていた。
『忘れたのなら思い出させてやる──』
ここに来てから、今までの一連の出来事が録画されていた。
声まで鮮明に入っている。
「これが世に出回ったら、降板になるのは、アンタのほうね」
「お、おまえ、まさか……最初から──」
綾はニッと冷たい笑いを浮かべる。
そう。
まさにその通りだった──
──話はおよそ30分前。
「いったい何を──もがっ!?」
綾の口を塞いで、バスの中に押し込む純。
「むーっ!」
「黙ってろ」
サングラスを片手で外し、口元を隠していたタオルも取る。
「ごめんなさいね、綾さん。荒っぽくて」
申し訳なさそうに夏子が言い、バスのカーテンを閉めた。
「なになに? なんなの??」
困惑する綾の正面で、純は腕組みした。
「本当のことを話せ」
「え?」
「オマエが、ここから逃げてきた本当の理由だ」
「えっ…そ、それは……その──」
言い淀む綾。
「誰かに『嫌なこと』を強要されてるんじゃないですか?」
夏子の問いに、綾は一瞬驚いて目を丸くし、顔をしかめて俯いた。
「そうなんだな?」
純が聞き直す。
彼女はしばらく黙っていたが、静かに語りだした。
「……始めは、なんとも無かったんだよ? でも、顔合わせが終わって、二人きりになった途端、監督に……胸とか、触られて……」
「なんで黙ってたんだ。 相談する人間なんて、山ほどいただろ?」
純が眉間にシワを寄せる。
綾も同じ表情で顔を上げた。
「だって! せっかく取れた仕事だったし、マネージャーも、“やっと活躍できるね”って、ホントに嬉しそうだったから──言い出せなくて……」
俯く彼女に、純はさらに何か言いかけたが、珍しく、夏子が片手でそれを制した。
「それで、どうなったんです?」
「最初はさりげなく触られる程度だったけど、だんだんエスカレートしてきて──」
当時の状況を思い出したのか、綾の体が小刻みに震え始める。
「夕方になって、“ふたりっきりで話がある”って、このバスに呼び出されたの。 そしたら、ドアを閉めた途端、急に後ろから抱きつかれて……それで……それで──」
瞳いっぱいに涙を溜め、堰を切ったように綾が声を上げる。
「“今からおれと寝れば、今後の仕事を優遇してやる”って……!」
大粒の涙を流して、綾はその場に膝を突いた。
すぐに夏子が、優しく彼女を抱きかかえる。
「怖かったの! 怖くって、何も言えないまま、アタシ気がついたら、ココを飛び出しちゃったの……!!」
夏子の胸の中で、しゃくりあげて泣く綾。
そんな彼女の姿から目線をそらす純は、いつもより深く眉間にシワを刻んでいた。
「どうする? 姫ちゃん……」
綾を抱いたまま、夏子が純の方を仰ぐ。
「どうするもこうするも、ほぼオマエの予想通りじゃねぇか。 そのために準備もしてきたんだし、やるしかねぇだろ」
ガシガシと頭を掻く純。
「へ……?」
綾が顔を上げると、彼は担いでいたバッグを下ろした。
中身をひっくり返し、出てきたのは現在、綾が着ているのと同じ服だ。
「オレがオマエの代わりに、その男をブッ飛ばす!」
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