第5話(3)
夏休みも中盤に差し掛かった頃──。
ついに、その日が来た。
式典が始まるのは、午後7時。
純は、その二時間ほど前に龍嶺学園に赴くと、保健準備室で琴乃の協力を得ながら、例の衣装に着替えていた。
「今回は別にわざわざ来ることもなかっただろ」
着替えが終わり準備室を出ると、一緒についてきた夏子に向かって、純は言った。
「今日はあなたの帰りを待つこともできないから、せめてギリギリまで見送るの」
優しげに──しかし、どこか寂しそうに、夏子が微笑む。
「さぁ、あとはマニキュアね」
純を追って、準備室から出てきた琴乃が、ガッチリと彼の両肩を捕らえて言った。
「覚えてたか……」
げんなりした顔で呟く純。
「先生──」
ふいに、夏子が座っていた椅子から立ち上がる。
「私が塗ってもいいですか?」
そう尋ねる彼女に、琴乃はフッと微笑んで、引き出しからマニキュアの小瓶を取り出すと、笑顔で手渡した。
「じゃあ、お願いするわ。わたしも準備して、車をとってくるわね」
「ありがとうございます」
礼と共に、小瓶を受け取る夏子。
「ちゃっちゃと済まそうぜ」
諦めたように、純は椅子を引き寄せて、夏子と向かい合うようにドカリと座る。
「ん……」
ぶっきらぼうに、彼女に片手を差し出す。
「……」
ふと、夏子の顔を見てみると、いつになく彼女は真剣な表情をしていた。
直後、自分の指に、そっと彼女の指が触れるのを感じる。
「……」
何故か、純は予防接種を受ける前の緊張感を思い出した。
次に夏子は、トプリとキャップの先についている刷毛を液に浸し、余剰分を瓶の口で払う。
二人の間に、マニキュア独特のツンとする匂いが広がる。
爪の上に音もなく刷毛が触れ、不思議な
そんな彼の感覚も知らず、夏子は丁寧に純の爪に塗っていく。
「……」
もちろん、普段、純はこんなことをしないし、過去にされたことも無い。
着ている上品なドレスも落ち着かないし、耳や首につけている小さなアクセサリーですら、見た目以上の違和感を肌に訴えてくる。
しかも、いつもは制服でウロウロするような、こんなところで、自分は一体何を……。
「……」
考えれば考えるほど場違いな現実が浮き彫りになっていき、純はなんとも居たたまれなくなってきた。
「……やりにくくないか?」
間を持たせようと夏子に尋ねると、彼の指先から目は離さずに、夏子が首を振る。
「大丈夫」
「そっか……」
ここで夏子は彼の心中を察したようで、すぐに口を開いた。
「ドレスの着心地はどう?」
彼女の質問に、純は眉間にシワを寄せる。
「最悪。 まだセーラーの方がマシだ」
「フフフ。『セーラー服』、『浴衣』に続いて『ドレス』──早くも三つ女装しちゃったね」
「女装っていうな。 気が萎えるから」
「じゃあ、コスプレ?」
「テメェな……」
「いつもよりも今日は特に『言葉づかい』に気を付けてね。 喋る相手は、鳳佳ちゃんだけじゃないかも知れないんだから」
「ああ」
「……ホントに心配してるんだよ」
「え?」
「実を言うとね、いつも不安なんだ。 もし鳳佳ちゃんにあなたの秘密がバレたらって」
「……」
「姫ちゃん、きっと、全部自分のせいにするから……」
「……大丈夫だよ。失敗しなきゃいいんだろ」
「うん……。 だから、こうしてマニキュアを塗りながらに、『おまじない』しておく──」
「……」
「──“上手くいきますように”」
ポツリと呟いて、夏子が最後の小指を塗り終わる。
ふぅっと柔らかく、息を吹きかけて、マニキュアを乾かす夏子。
思わず純の心臓がドクンと揺れたのは、擽ったさからだろうか。
「さぁ、できた」
顔を上げて、いつものように微笑みながら夏子が言う。
「最後に鏡の前で、身だしなみを確かめてね」
「あ、ああ」
突然、いつもの現実に戻ったような感覚に、少し戸惑う純。
夏子は彼の両手を取り、壁に取り付けられた、大きな姿見の前に連れていく。
「ねぇ、私の塗ったマニキュア、どうかな?」
「え? ああ。 えーっと……」
手を眼前に持っていき、爪を確認する。
はみ出したり、ムラになっているところはない。
「まぁ、綺麗に塗れてるんじゃね?」
そう言って、純は鏡に映った自分に、目を戻した。
その瞬間──……
「そう、それはよかった」
夏子が呟き、
カシャッ
一瞬、聞き慣れた効果音がした。
「……へ?」
呆気にとられて、純は夏子の方をみる。
気が付くと、いつの間にか彼女は、自分の腕に抱きつくように身を寄せていた。
そして、その手には彼女の所有する携帯が握られており、備え付けられたカメラのレンズが鏡の方を向いている。
先程の効果音の発生源は、どうもそこらしい。
「はぁあ!?」
驚きの声を上げ、咄嗟に後退りする純。
しかし、もう既に遅い。
夏子は、純がマニキュアに気を取られている隙に、鏡に映った二人の姿を、携帯のカメラでバッチリ捉えていた。
つまり、鏡に反射した『ツーショット』を撮ったのだ。
しかも、爪を確認し、目を鏡に戻した瞬間の純の姿は、あたかもカメラに向かって手を振っているように見える。
しかも、偶然に目線まで、ちゃんとレンズの方を向いていた。
「テ、テ、テメェ! 夏子!!」
「だって、正直にお願いしても、どうせ撮らせてくれないと思ったから」
微笑みながら、満足気に保存された画像を眺める夏子。
「いつだ! いつからこんなこと企んで──」
「だから、言ったじゃない」
自分の唇に人差し指を当てながら、ウインクして夏子が続ける。
「“上手くいきますように”──」
──“え……そっちが?”
純はガックリと両肩を落とした。
結局、写真は消去してもらえず、“絶対に公表しない”という誓いを彼女に立てさせて、純は引き下がるしかなかった。
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